6-1 ②
◇ ◇ ◇
陽茉莉は壁にかかった時計を見上げる。長針は、さっき見たときから三〇度位しか進んでいなかった。
「礼也さん、遅いなぁ……」
話したいことがある日に限って、相澤はなかなか家に帰ってこなかった。
既に時刻は夜の八時を過ぎている。
週末に邪鬼退治に行くことは度々あるが、いつも夕食の前には帰って来た。それなのに、何の連絡もないなんて。
「お兄ちゃん、連絡ないの?」
何度も時計を見上げる陽茉莉の様子を見て、悠翔が不安げな顔をした。
陽茉莉はその表情を見てハッとする。
悠翔は、こんなに幼いのに邪鬼に呑まれて母親を亡くしている。相澤にまで何かあったのかと、不安になったのだろうということはすぐに予想がついた。
「大丈夫。お姉ちゃん、お兄ちゃんに『早く帰って来て』って連絡するね」
陽茉莉は体を低くして悠翔と目線を合わせると、安心させるようにそう言った。
スマホを取り出して〝相澤係長〟の表示を探す。すぐに見つけて電話をかけたが、相澤はなかなか出なかった。何度かかけ直したが、結果は同じだ。
「お兄ちゃん、出ないの?」
悠翔は相澤が電話に出ないことを察したようで、泣きそうな顔をした。
(どうしよう……。あっ、そうだ!)
陽茉莉は発信中の電話を切ると、今度は〝高塔副課長〟を捜す。電話をかけると、高塔はすぐに電話に出た。
『もしもし』
『もしもし、新山です。高塔副課長、今、相澤係長と一緒だったりしませんか? 仕事に行くって言ったまま帰ってこなくって──』
少しの沈黙があった。陽茉莉は高塔が相澤の居場所を知っていると感じ取り、早口に言葉を重ねた。
『悠翔君が、すごく心配しているんです。もう邪鬼退治が終わっているなら、早く帰って来てほしいって伝えてもらえませんか?』
『…………。礼也はここにいる。ただ、今回は相手が厄介で、今日は帰れそうにない』
『帰れそうにないって、一晩中追いかけるってことですか? 逃げているのを捜しているから帰れない?』
『…………』
『それとも、係長が妖力不足にでもなって、弱っているから帰れない?』
電話の向こうで沈黙が続き、陽茉莉は後者、もしくは両方であると悟った。
(妖力不足って、外でオオカミにならないとだめなレベルに疲弊しているってこと?)
陽茉莉の知る相澤は、いつも颯爽と現れて簡単に邪鬼を追い払う。けれど、もしも逆にやられたら? そうしたら相澤はどうなってしまうのだろうか?
相澤はあやかしだけれど、半分は神力を持った人間だ。
(琴子さんみたいに、呑まれて死んじゃうの……?)
予想外のことに、スマホを握りしめる手が震える。
『今、どちらにいらっしゃるんですか?』
『正直、今、新山ちゃんに来られても守りきれる自信がない。すぐ近くに強力な邪鬼がいるってわかっているのに、万が一にもきみが襲われたらそれこそ一大事だ』
遠回しに邪魔だから来るなと言われ、陽茉莉はぐっと黙る。
(じゃあ、相澤係長がピンチなのに私は何もせずに黙って安全なところにいろってこと?)
そんなの、嫌だと思った。彼が自分のピンチを救ってくれたなら、私は彼のピンチを救いたい。
『高塔副課長、どこにいらっしゃるんですか?』
『…………』
『教えてくれないなら、自分で探しに行きます。私は邪鬼に襲われやすいから、ふらふらしていればその〝強力な邪鬼〟も引き寄せられてくるかも』
『本気で言っているのか?』
『本気です』
いつも温厚な高塔の口調に剣呑なものが混じる。
普段の陽茉莉であれば「申し訳ございません」と謝罪してしまいそうなシーンだが、陽茉莉はぐっとお腹に力を入れてスマホを握りしめた。
『それに私、癒札を作れるようになったので、それを持っていけば少しは役に立つと思います。だって、礼也さんの作った癒札は礼也さんには効かないんですよね?』
癒札はあやかしの妖力を回復させる効果があるが、作った本人である礼也には使えない。陽茉莉にそう教えたのは他でもない高塔だ。
スマホ越しに、はあっと溜息を吐くのが聞こえた。
『わかった。下手に出歩かれる位なら、目の届くところにいてもらったほうがましだ。今いるのは港区高輪。品川駅と泉岳寺駅の間の山の手の辺りにお寺が広がっているんだけど、その一角にいる』
陽茉莉は瞬時に頭の中で地図を広げる。高輪であれば、陽茉莉のいるこのマンションからさほど遠くない。
(お寺が多いとはいえ、結構な都心じゃない?)
オオカミ姿になった相澤を何度か見たことがあるが、とても犬と誤魔化せるような体格ではなかった。あの姿で誰かに見つかったら、それこそ大変なことになる。
『何か目印になるものはありますか?』
『ちょっと待って──』
高塔はそこから見える、一件の店舗名を告げる。陽茉莉はそれをメモ帳にメモした。
『すぐに向かいます』
電話を切ると、陽茉莉はすぐに出かける準備をしようとした。そのとき、じっとこちらを見上げる悠翔と目が合う。
「お姉ちゃん、僕も行きたい」
陽茉莉は戸惑った。
悠翔はまだ小学二年生。いくら相澤と同じあやかしと人間のハーフとはいえ、相澤と同じようには邪鬼退治をできないだろう。それに、相澤と同じく、純粋なあやかしよりは妖力が弱いはずだ。
(でも……)
陽茉莉はこちらをまっすぐに見つめる、焦げ茶色の瞳を見返す。その力強さはまるで野生のオオカミを彷彿とさせ、絶対に行くのだという悠翔の強い意志を感じさせた。
悠翔にとって、相澤は誰よりも大好きな〝お兄ちゃん〟なのだ。陽茉莉が心配しているのと同様に、いや、それ以上に自分も何かをしたいという気持ちが強いのだということは予想がついた。
「わかった。お姉ちゃんと一緒に行こうか。離れちゃだめだよ?」
陽茉莉は悠翔に言い聞かせるように、顔を覗き込む。
「うん、わかった」
悠翔はいつになく緊張した表情で、しっかりと頷いた。




