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自制心はかなり強いほうだと自負していた。
なにせ、ずっと近くて遠い距離から見守ってきた陽茉莉が一緒に家に住み、ときには薄着やパジャマ姿でリビングをウロウロしていても、顔色ひとつ変えずに振る舞ってきたのだから。
それなのに、今夜はやらかした。
「あー、まずったな」
相澤は自分の失態を思い返し、ひとりリビングで項垂れる。
陽茉莉から週末に出かけたいと相談を受けたのは、週始めの火曜日だった。
その日、ランチから戻ってきた陽茉莉からなぜか高塔の気配を感じた。おかしいとは思ったものの、高塔と陽茉莉に限ってそういう関係にはならないだろうと平静を装って出かける間の悠翔の相手役を快諾した。
ところが、陽茉莉は当日になっても行き先を言おうとはせず、相澤が陽茉莉の行き先を知ったのは高塔からのメッセージが切っ掛けだ。
『頼まれたから引き受けたけど、どうせだったら礼也が教えてやればいいのに』
そう書かれているのを見て、ようやく陽茉莉が今日どこに何をしに行ったのかを理解した。
高塔に自分が何も知らないことを知られるのがなんとなく悔しくて、『色々と事情がある』とだけ返信した。
陽茉莉は強い神力を持っている。
それは、生まれつきの体質、多く場合は遺伝によるものだ。
初めて会った幼い日には既にかなり強かったが、およそ十数年のときを経て再会したとき、陽茉莉のそれは看過できないほど強くなっていた。
有能な祓除師だった母親と同じ、もしくはそれ以上かもしれない。
祓除札を作れるようになれば、陽茉莉は自分で邪鬼が祓えるようになる。けれど、それは同時に陽茉莉がこっちの世界に足を踏み込むことを意味していた。
本人が望む望まないに関わらず、邪鬼退治の手助けをしろと詩乃を通じて命じられるだろう。そしてそれは、邪鬼に襲われやすい体質の陽茉莉が自ら危険地帯に足を踏み入れることを意味していた。
(陽茉莉に何かがあったら、俺はどうするだろう?)
ふと、そんなことを考える。
きっと、悲しみに暮れ、復讐心に燃え、最後には自分を責める。悠翔を自分に託してがむしゃらに邪鬼退治に邁進し続ける父親と同じようになる気がした。
「本当は、守ってやりたいんだよな……」
できることなら、陽茉莉を自分の作った安全な場所に置いて、危険など知らずに過ごさせたい。
この歳になってこんなことを言うのは笑われてしまいそうな程くさい話だが、陽茉莉のことは初恋だった。
『わんちゃん、大丈夫?』
幼い日、妖力を使い果たした挙げ句に傷ついて動けなくなった自分を心配そうに見つめた優しい瞳。
『早く元気になるんだよー』
そう言って抱き上げるとにこりと微笑んだ可愛い女の子。
それが陽茉莉だった。
もう一度会いたくて家の近くに行ったとき、陽茉莉は既にそこには住んでいなかった。
再会後に、あの家のすぐ近くに転居しただけだと知ったが、そんなことを知らなかった 相澤は、二度とあの子には会えないのだと思っていた。
転機は突然やってくる。
何年も経ち、高塔からとても神力の強い子が入社してきたと聞いたとき、期待半分の気持ちで会社から帰宅するその子を見に行った。
そして、一目見てあのときの少女だと確信した。
相澤の中ではあどけない少女のままだった陽茉莉は、想像以上に可愛らしく、そして魅力的な女性になっていた。ぱっちりとした瞳に小さな鼻、くるんと内巻きになった肩より少し長い髪が歩くのに合わせて揺れている。彼女は同期の新人と思しき友人と楽しそうに話しながら、駅のほうへと消えた。
(思った以上に、神力が強いな……)
陽茉莉を見て、すぐにそう思った。それは邪鬼が羨望する体を持っていることを意味している。
彼女には、幼い日に母親が作った特製の護符を渡した。
ただ、護符の効き目は、ときの経過と共に薄くなる。このまま放っておけば、いつか彼女はまた襲われる。
そう思うと、いてもたってもいられなかった。
まず、すぐにアレーズコーポレーションの中途採用試験を受けた。超一流商社から中堅の総合リラクゼーション会社への転職。誰の目に見ても奇妙な転職で、周り──特に前の勤務先の関係者からは随分と止められたが、後悔はなかった。
社内の遠い距離から彼女を見守り、異動のタイミングで多少無理を言って陽茉莉を自分の部下に引き抜いた。
──それなのに。
今日、陽茉莉は相澤に一言も告げずに高塔に会いに行った。
と言うことは、陽茉莉自身は自分から自立することを望んでいるのかもしれない。
相澤はカーテンの隙間から、煌々と光る丸い月を恨めしげに見上げる。
満月の夜は、あやかしの性質──狼の血が強くなる。欲望に忠実になり、抑えが利きにくくなるのだ。
先ほどは帰って来た陽茉莉から自分以外の男──高塔の気配が強く感じられて、込み上げる嫉妬心を制御できずに陽茉莉のことを押し倒してしまった。
涙目になってこちらを見つめる陽茉莉を見てようやく我に返り、揶揄ったかのようにその場をやり過ごした。
──礼也さん。
恥じらいながら自分の名を呼ぶ陽茉莉の様子が、脳裏に甦る。
自分で呼べと言ったにも拘わらず、想像以上の破壊力だった。たった三文字の言葉が、特別な意味を持った気がした。
さらに、唇で触れた肌のなめらかさや鼻孔をくすぐった甘い香りまで。
本当なら、あのまま組み敷いて優しく蕩けさせてしまいたかった。貪るようなキスをして、白い肌に余すところなく唇を這わせ、甘く鳴かせて──。
そこまで考えて、相澤はハッとする。
「やべぇ……。重症だ」
これはもう、寝たほうがいい。そうしないと、今夜は自分が何をやらかすか、制御できる自信がない。
相澤は溜息を吐き、首を振るとのそのそと起き上がる。
自室の向かいにある陽茉莉の使っている部屋のドアからは、ほんのりと光が漏れていた。




