3-3 ②
◇ ◇ ◇
ふわふわしてて温かい。
その温もりが離れてゆくのを感じて、陽茉莉は思わず手を伸ばしてそれに擦り寄った。すると、頭上で息を呑むような気配がした。
「新山、起きてくれ。両手が塞がっているとタクシーを拾えない」
困り切ったような声がしてぼんやりと目を開くと、視界に入ったのは街頭の明かり。そして、至近距離のイケメン。
「ふぇ!」
びっくりしすぎておかしな声が出た。
(なんで! なんで相澤係長がここに!)
一気に陽茉莉の意識は覚醒する。
自分の姿を見ると、なぜか相澤の首にしがみつき、お姫様抱っこをしてもらっている。一方の相澤は困った顔をしていた。
「え? 私、なんで!」
慌ててその腕から逃れようと、体を捩らせる。すんなりと地面に下ろされたが、足を着いた陽茉莉はどきっとした。
きちんと立ったつもりなのに、足下がぐらつく。
「大丈夫か? 酔ってるんだから、気をつけろ。今、タクシー拾うから」
体を支えるように片腕を力強く掴まれた。相澤は流しのタクシーを探し、幹線道路の車の流れを視線で追っている。
「この時間、飲んだ帰りが多くでみんな乗ってるな……」
何台かのタクシーが通りかかったが、どれも乗客がいた。陽茉莉はその横で、めまぐるしく思考を回転させる。
(なんでこんなことになってるの!?)
自分は会社帰りに久しぶりにハーフムーンに寄って、潤ちゃんに愚痴をこぼしていたはずだ。
いつものジントニックから始まり、三杯飲んで四杯目に柄でもなくウイスキーを頼んだ。その辺りで潤ちゃんにそろそろやめておけと言われたところまではうっすらと覚えている。
陽茉莉はあまりお酒が強くない。いつもなら一杯、多くても二杯しか飲まないので、潤ちゃんもおかしいと思ったのだろう。
ということは……。
「もしかして、係長が酔い潰れた私をハーフムーンまで迎えに来てくれた?」
「ん? ああ。遅いから何度も電話したら、あのバーのママが出た。知り合いなら迎えに来いって言われてさ」
相澤は車の流れから陽茉莉へと視線を移動させると、なんでもないように答える。
一方の陽茉莉はサーッと顔色を青くした。
これはもしかして、いや、間違いなく多大な迷惑をかけたのではないだろうか。
「すいません、係長。もう酔いは覚めたので、電車で帰れます」
慌てて謝罪して駅まで歩こうとすると、また体がふらついた。
「そんなにふらついて『酔いは醒めた』はないだろ。タクシー、配車を頼むから待ってて」
相澤はそこまで言うと、少し責めるように陽茉莉を見下ろす。
「なんで、こんなになるまで飲んだんだよ?」
その瞬間、陽茉莉はムッとした。相澤の責任ではないけれど、陽茉莉が飲みたい気分になったのは相澤のせいだ。
弟の世話を部下に押しつけて──と言っても、化け物から襲われなくなるというWINーWINの関係だけど──自分は恋人とお楽しみっていうのが、なんか腹立たしい。
それを、人の気も知らないで。
「係長には関係ありませんよーだ! そもそも、恋人でもないんだから人のプライベートにいちいち干渉しないでください! 余計なお世話です!」
ああ、酔ってないって言ったけど、やっぱり私は酔っているのかもしれない。
普段なら「申し訳ありません」と一言謝って終わらせられるような場面なのに、絶対に言わないような台詞が口から飛び出した。陽茉莉は、ようやくタクシー会社に電話を始めた相澤の腕を振り切ると、駅の方向に走り始める。
「おいっ、新山!」
背後から焦ったように呼びかける声がしたけれど、振り返らなかった。
今は、相澤の顔を見たくない。がむしゃらに走って角を曲がる。
──そのときだ。
「ヒヒッ!」
耳障りな声が聞こえた。
「コンナトコロデ、ミツケタ」
陽茉莉はびくっとして足を止めると、周囲を見渡した。
声の発信源はすぐに見つかった。雑居ビルの合間から、ぽっかりと穴の空いた闇のような目でこちらを見つめている。
「う、うそ……」
ここ最近、この声を聞くことはおろか姿を見かけることすらなかったので、すぐには信じがたかった。けれど、そこにいたのは紛れもなく〝人ならざる者〟だった。
陽茉莉は咄嗟に、鞄を漁る。
「ない。なんで!」
あるはずの手応えがどこにもなく、ハッとする。
(お守り、会社だ……)
今日、鞄の中身を整理したときにデスクの上に置いた。そのまましまい忘れたのかもしれない。
(逃げなきゃ!)
咄嗟に踵を返し、もと来た道へと戻ろうとする。
けれど、それは敵わなかった。
酔いが醒めない体は言うことを聞かない。ふらついたところで、後ろからガシンとのしかかられ、陽茉莉がバランスを崩す。
「ツカマエタ」
首筋に冷たい物が触れる。そこから、ぞっとするような寒気を感じた。
「助けて! 誰か!」
今度は首筋に強い不快感が走る。まるで、重りを乗せられているかのような感覚を覚えた。
これまでになかったことに、陽茉莉はパニックを起こした。
(重い! 死んじゃう!)
そう覚悟したとき、「新山!」と叫ぶ声が聞こえた。
首筋の違和感が消え、代わりに聞こえたのは「ギャアア」という悲痛な叫び声。それが止むと、力強く抱き起こされた。
「新山、大丈夫か?」
両手で頭を覆っていた陽茉莉は、恐る恐る目を開ける。邪鬼に襲われて初めて助けてくれたときのような焦った表情をした相澤が心配そうにこちらを見下ろしている。
「ひっく。変なお化け──ひっ、邪鬼が乗っかってきて、首に変な、ひっく、感覚がして、ひっ……」
「首に違和感があるのか?」
「首、ひっ、肩」
恐怖のあまり号泣した陽茉莉の言葉は上手く説明にならない。
それでも、相澤はすぐに陽茉莉が首と肩に違和感を訴えていることを理解したようだ。陽茉莉の首筋を見るように肩にかかる髪の毛を掻き上げると、そこに手を触れた。
「これは……まだ大丈夫だな。違和感、なくなったか?」
相澤が手を触れると、不思議と首周りの重さがふわりと消えた。こくりと頷くと、相澤がほっとしたように深い息を吐く。
「間に合ってよかった。これ以上、心配させないでくれ」
背中に優しく手が回され、子供を宥めるようにぽんぽんとされる。そうされただけで、不思議と恐怖心が消えてゆくのを感じた。
「歩けるか? タクシー、待っててもらっているから一緒に帰ろう」
「はい」
今度は素直に返事すると、相澤は陽茉莉が立ち上がるのを助けるように、片手を握って力強く引っ張る。そして、相澤はその手を握ったまま歩き出した。
陽茉莉は自分の半歩前を歩く相澤の後ろ姿を見つめた。
「係長、ごめんなさい……」
相澤はちらりとこちらを振り返ったが、答えることなく歩き続ける。握られた手に、少しだけ力が籠もった気がした。
その手が握られたままなことに、ほっとしている自分がいた。
◇ ◇ ◇
自宅に戻り、お風呂で温かいお湯に浸かるとようやく気持ちが落ち着いてきた。
浴室の鏡で違和感を抱いた首筋から肩にかけてを確認してみたけれど、特に見た目に変化は起きていないことにほっとする。
けれど、パジャマに着替えてひとりで寝室に行くとまた恐怖感が押し寄せてくる。
お守りを会社に置いてきてしまった。相澤の近くにいれば平気だと知っていても、この不安感を完全に拭い去ることはできない。
(係長、起きてるかな……)
以前、怖かったら一緒に添い寝してやろうかと言われたことを思い出す。
やっぱり自分は酔っている。
あれは相澤がほろ酔いのときに冗談で言われた言葉だとわかっていても、そんな言葉に縋りたくなった。
「係長、起きてますか?」
そっとドアを開けると、まだベッドサイドのダウンライトがついているのが見えた。おずおずと声をかけると、机に向かって何かをしていた相澤が驚いたように振り返る。
「どうした?」
ちらりと見えた机の上には、硯と筆、それに紙が見えた。
習字、だろうか?
「一緒に寝たらだめかなって思って」
目を見開いた相澤は、すぐに探るような目で陽茉莉を見つめる。陽茉莉は居心地の悪さを感じて身じろいだ。
「お守り、会社に忘れてきちゃったんです。普段はポーチに入れているんですけど、整理しようとデスクに──」
「……なるほど」
相澤は顔を片手で覆うと、はあっと溜息をつく。
「すぐそっちに行くから、待ってて」
そう言われた陽茉莉は、おずおずと部屋に戻った。ベッドに横になってすぐに、宣言通りに相澤は陽茉莉の部屋に来た。
「ここにいてやるから、寝ろ。この家に、邪鬼は来ない」
「絶対に?」
「絶対に、だ。万が一に来ても、俺が必ず守ってやる」
「寝ている間にいなくならない?」
なおも不安で相澤を見上げると、眉根を寄せた彼はポンっと狼に姿を変える。
そして、陽茉莉の部屋の床の絨毯の上で丸くなった。
(ここで寝てくれるのかな)
陽茉莉はそれを見てようやくほっとした。
(今日は色んなことがあったな)
急激に疲れを感じて、眠気が押し寄せてくる。陽茉莉は枕に頭を預けると、目を閉じる。
「これはちょっと……、キツいな」
完全に意識が遠のく寸前、相澤が途方に暮れたように呟く声が聞こえた気がした。




