3-3 ①
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読みかけの本から顔を上げてふと時計を見ると、既に時刻は夜の十一時を過ぎていた。テレビを付けるとちょうどニュース番組のお天気情報が映り、明日は平年よりやや気温が低いので秋らしい装いがいいと言っていた。
「新山、遅いな……」
相澤は本に栞を挟むと、それをソファーの前にあるローテーブルに置く。
スマホを確認したが、何も連絡は来ていなかった。
(何かあったのか?)
相澤から見て、陽茉莉は少々抜けているところがあるものの、生真面目な性格をしている。こんな時間になるなら、『遅くなります』と一言メッセージを送ってきそうなものだ。
しかし、この時間になっても何も連絡がないとなると心配になる。
(まさか、また邪鬼に襲われた?)
陽茉莉が持っているお守りには、新しい護符を入れてやった。
それに、毎日自分や悠翔と一緒に過ごしている陽茉莉は、以前に比べればかなり襲われにくくはなっているはずだ。相澤のような邪鬼退治を行うあやかしは、彼らから忌み嫌われる気配を発しているのだ。
だが、絶対に襲われないという保証などない。
母が亡くなったときの嫌な記憶が甦り、相澤は額に手を当てる。
『今どこにいる?』
『迎えに行くから、場所を教えてくれ』
何通かメッセージを送ったが、返事はない。
「くそっ。どこにいる」
同居しているし、部下であるとは言え、陽茉莉のプライベートまで踏み込むのは嫌がられるのではないか。
それをして『やっぱり、同居を解消したいです』と言われるのではないか。
そんなことを恐れて一線を引いていたことが、今になって悔やまれる。
なかなか既読が付かないことに苛立ち、今度は電話をかける。
何回か呼び出したが繋がらず、四回目のかけ直しでようやく電話が繋がった。
「もしもし? こんな時間までどこにいるんだ?」
電話口に向かって喋りかけると、少しの沈黙があって女にしては低い声がした。
『もしもしー。あなた、陽茉莉ちゃんの知り合いかしら? 陽茉莉ちゃん、ちょっと飲み過ぎちゃっておねむになっちゃったのよ。迎えに来られる?』
◇ ◇ ◇
教えられた場所は、会社から二駅ほど離れた駅にひっそりと佇む雑居ビルだった。ビルの入口にある入居案内板を見ると、目的の『Bar ハーフムーン』は四階にあるようだ。数人乗ればいっぱいになるような古びたエレベーターを降りるとすぐにドアが二つあり、そのうちの片方に『Bar ハーフムーン』と書かれた看板がぶら下がっていた。
ドアを開けると、内側に付けられたベルがカランコロンと鳴る。
暖色のランプに照らされた薄暗い店内は、こぢんまりとしていた。
「いらっしゃい」
聞き覚えがある声がした。先ほど、電話に出た人物の声だ。
そして、カウンターの一番奥ですやすやと眠る陽茉莉の姿を見つける。
「新山、起きろ。帰るぞ」
肩を揺すると、陽茉莉は一瞬だけ目を開けたが、すぐにまたとろんとまぶたが落ちる。
「もうやめておきなさいって止めたんだけど、どうしてもって聞かなかったのよ」
カウンターの向こうにいる女が、そう言って肩を竦めた。
「ご迷惑をおかけしました。連れて帰ります。お代は?」
首を横に振ったので、まだなのだろう。相澤は財布からカードを取り出すと、支払いを済ませる。カウンターの女はカードの裏面のサインを見て、何かを考えるように瞬きする。
「相澤さん……。もしかして、あなたって陽茉莉ちゃんの上司?」
「そうですが」
「やっぱり! まさか、陽茉莉ちゃんと一緒に住んでいるの?」
こくりと頷くと、女は「あらぁ、いつの間に」と口元に手を当ててにんまりと笑う。
「あなたのこと、陽茉莉ちゃんからよく話を聞くわ」
陽茉莉が自分のことを外で話しているというのは、意外だった。一体どんな風に話しているのだろうかと、興味半分、怖さ半分で聞き返す。
「新山は、なんて?」
「仕事はできるけど厳しいって。でも、この前はあなたのおかげでお客さんに褒められたって喜んでいたわ」
「そうですか」
相澤は少しだけ口元を綻ばせる。
陽茉莉には何かと口うるさく指導している自覚はある。言わずに済ませることもできるが、伝えたほうが本人の成長に繋がるからだ。
「今日は、何か思うところがあったみたいだから、ちゃんと話したほうがいいわよ。それこそ、飲み過ぎちゃうくらい」
「俺と?」
「ええ、多分そうね」
女はこくりと頷く。
今日、何かあったというと、仕事だろうか。
今日一日を思い返したが、何も思い当たらなかった。ただ、午後は少し様子がおかしかったから、午前中に何かあったのかもしれない。
(明日にでも、聞いてみるか)
相澤はすやすやと寝息を立てる陽茉莉を見下ろす。
「あっ、そういえば。後もうひとつ、あなたのことでよく言ってることがあるわ」
女がポンと手を叩いてにこりと笑う。
「とんでもなく、猫だって」
女が楽しげに笑う。
「……猫?」
相澤は、意味がわからずに眉を寄せた。
女はそんな相澤のことを見つめ、目尻を下げる。
「ありがとうございました。今度はふたりで遊びに来てね」
陽茉莉を抱き上げて外に出ると、閉まりかけたドアの向こうから女の明るい声がした。




