3-1 ②
◇ ◇ ◇
最寄り駅で電車を降りた陽茉莉は、鞄からスマホを取り出した。画面を確認すると、時刻は既に深夜の十一時を回っている。
駅から相澤のマンションまでは徒歩十分ほどだ。
陽茉莉は足早に家路を急ぐ。
「思ったより遅くなっちゃったな」
本当は十時前に帰宅するつもりだったのだけど、久しぶりに行ったハーフムーンでの潤ちゃんとの会話が楽しくて、ついつい長居してしまった。
スマホを鞄にしまって顔を上げると、空に浮かんだまん丸の月が目に入った。
「そっか。今日は満月か」
闇夜に浮かぶお皿のようなそれを見上げ、陽茉莉は独りごちる。どうりで今日は夜なのに空が明るいと思った。
玄関を開けると、廊下の先にあるリビングの電気が点いているのが見えた。
陽茉莉は足音が立たないように気をつけながら、そちらに向かう。今の時間、悠翔はもう寝ているはずだ。
リビングを覗くと、相澤はソファーに座ってテレビを見ていた。目の前のローテーブルには五〇〇ミリリットルの缶ビールが置かれている。
「ただいま戻りました」
相澤の後ろ姿に声をかけると、陽茉莉はそのまま自分が使っている部屋へと向かった。さっさと着替えて風呂に入ったほうがいいかと思ったのだ。
部屋のドアを開けようとしたとき、背後からトンっとドアに手を付かれる。驚いた陽茉莉は背後を振り返った。
「係長? どうかしたんですか?」
いつの間に後ろに来たのだろうと陽茉莉は驚いた。相澤は少し不機嫌そうにこちらを見下ろしている。
「こんな時間まで、どこに行ってたんだ?」
「どこって……、行きつけのバーです」
「誰と?」
「え? ひとりですけど?」
夕食は同期の若菜と一緒に食べに行ったが、ハーフムーンはひとりで行った。
「ふーん」
相澤は陽茉莉を見下ろしたまま、目を眇める。そして、おもむろに体を屈めると、陽茉莉の首筋に顔を寄せた。
「ひゃっ!」
陽茉莉は思わず声を上げる。
触れられてはいないけど、息がかかるのがわかる程の、触れられそうな距離だったのは確かだ。
相澤からは、石けんの匂いに混じってほんの少しだけお酒の香りがした。
(な、なんでこんなことしてるの!?)
動揺した陽茉莉は真っ赤になり、あわあわと相澤を見返す。目が合った相澤は口の端を上げた。
「確かに、何も感じない」
「え?」
「悪い気配は感じないってこと」
「あ……」
なるほど。
今のは陽茉莉にあのお化け──正確には邪鬼だったっけ?──の気配がないかを確認してくれたのだろうか
「係長と一緒に住むようになったら、本当にあのお化けに襲われなくなりました。ありがとうございます」
「ああ。近くにいる時間が長ければ長いほど気配が移るからな。ただ、あくまでも虫除けと一緒だ。襲われなくなる保証があるわけじゃない。あんまり人通りがない時間にひとりで出歩くな」
「はい」
説教じみたことを言われ、陽茉莉はシュンとする。
実をいうと、最近少し気が抜けていた。
相澤と一緒に暮らし始めてから邪鬼に襲われることはおろか、声さえ聞くことがなくなったので、油断していたことは確かだ。
(虫除けと一緒、か……)
実に的確な表現だと思った。あの化け物達が近付いてきにくくはなるけれど、絶対に襲われない保証などどこにもないのだ。
「係長」
「何?」
「あの邪鬼に襲われると、どうなるんですか?」
その瞬間、相澤の表情が明らかに強張ったのがわかった。
答えは聞いていないけれど、きっととても悪いことが起こるのだとその表情だけでわかる。
「すいません、やっぱりいいです」
聞かないほうがいい気がした。
陽茉莉はそう謝罪すると、自分の体を抱きしめるように腕を回す。
「怖いのか?」
答えることができず、陽茉莉は俯く。
正直、怖くないと言えばうそになる。
もしも相澤がいないところであれに襲われたら、自分はどうなってしまうのだろう。想像するだけで体が震えそうだ。
青ざめる陽茉莉を見下ろし、相澤は再び体を屈めた。
「一緒に寝てやろうか?」
「は?」
「怖いなら、今夜は添い寝してやるけど」
耳元に囁かれ、陽茉莉は相澤の顔を見返す。端正な顔には、心なしか黒い笑みが浮かんでいる。
「か、からかわないでくださいっ!」
陽茉莉は真っ赤になって、相澤の胸を押す。服越しに触れた体が思ったよりも逞しくて、なぜか無性に恥ずかしくなる。
相澤はそんな陽茉莉を見下ろし、楽しそうにくくっと笑う。
「ちなみに、俺の部屋の鍵は一晩中開いてる」
「っ!?」
目が合うと、にんまりと口元が弧を描いた。これは、相澤が猫を被るときの笑顔だ。
やっぱり、絶対にからかって面白がっている。
「結構です!」
陽茉莉は相澤を向かいの部屋に追いやると、バタンとドアを閉めて自分はベッドの上にダイブする。
顔が熱い。
普段なら、相澤は絶対にあんなことを言わない。
(今日は、相当酔っていたのかな……)
酔うと人間理性が効かなくなり、素の自分が出やすくなると聞いたことがある。
と言うことは、むしろあれが本性なのか?
(でも、缶ビール一本しか置いてなさそうに見えたけど……)
相澤とは、職場の懇親会などで、何回か酒席で一緒になったことがある。
そこまで強い印象はないが、弱い印象もない。あの缶ビールの前にも何本か飲んでいたのだろうか。
「とは言っても、からかいすぎでしょ?」
相澤のような見た目もよくて仕事もできるハイスペック男からすれば陽茉莉など全く興味にならないことは知っている。
けれど、こっちは一応お年頃なのだ。動揺する気持ちを抑えるのは難しかった。
「あんの、猫かぶりめ!」
枕をぎゅっと抱きしめると、陽茉莉は口を尖らせる。
先ほどまでの恐怖感は、いつの間にかすっかりと霧散していた。




