南伐
親子だろうか。二頭の山羊が行き交う人々を見下ろす。と、弓弦の音が三つ。
すぐさま禿げた岩山を駆り山裾へと消えていった彼らを、頬のこけた顔が恨めしそうに見ていた。
標高の高い山々を尾根伝いに、マルムスティン王の率いる北の軍勢が長蛇の列をなす。
マルムスティン陣営は、二度目となる此度の南征を『第二次南征』とはせず『南伐』と、ラーゲルヴィルスト率いる中央の軍勢を正規の軍ではなく『賊』と称した。正義の御旗を掲げる意図があっただろうが、前回の遠征失敗における劣等意識を払拭したかっただろうことも汲み取れた。
意気揚々と出征した彼らを最初に阻んだものは、中央の軍勢やくだんの石の巨兵などではなく、自然の猛威であった。
細く険しい山道。角張ったむき出しの岩肌。馬車どころか小さな荷車すら通過を許さない。石の巨兵に抗すべく弩、投石機のたぐいの大型の兵器がいくつも投入されたが、それらを運ぶに解体して人の背に載せ運搬するしかなく、兵に余分な苦痛を強いた。
糧食も充分ではなかった。当初は現地にて賄おうと高を括っていた。しかし高地の植生は彼らの胃を満たすに到底及ばなかった。日に日に滞る配給。まっさきに割りを食ったのは輜重部隊に属する雑卒であり、そして彼らが崩壊の芽出しとなった。
体力の低下に伴い負傷する者、滑落するものが跡を絶たなくなる。それに伴い己の意志で脱落する者が増えていった。つまりは逃亡である。多くは軍歴のない十代の若者と、加え年齢や怪我を理由に一度退役した軍人、強制され駆り出された農夫や町人であり、兵とは名ばかりだった。
軍にとっての彼らは体のいい使い捨てと風太郎は理解し、僅かに苦い思いをしていた。だが糾弾する気はおきなかった。行軍自体が愚かしく些末事としか捉えていなかったためと、己の命すら危機に晒され他人に感ける余裕が生じなかったためであった。
風太郎は己の身体能力が図抜けてると自負していた。しかしすでに肉体に信をおくことができない齢に差し掛かったことも自覚していた。
辛い行軍中、ふと運命に蹂躙されている己の現状を思うことが度々あった。世の理不尽さに心地の悪さを覚えながらも、きまって元来運命とはそういうものであろうと諦観が追随した。
輜重部隊が機能不全に陥るまでに十日を要しなかった。その多くが逃亡に依るものだった。怪我人に対し介抱せず糧食三日分をもたせ置き去りにするとの方針の変更がなされたことが大きな要因だった。
見せしめにたくさんの逃亡兵が味方であろうはずの刃に倒れた。しかし逃げ落ちるも不毛な地。飢えと寒さで落命した者は、その三倍をこえていた。
生じたしわ寄せは当然ながら部隊全体を逼迫させた。
日を追うごとに前線の兵士の抱える荷が増した。彼らの辿った跡にはいくつもの鎧や兜が転がっていた。重みに耐えかねた結果だった。だが剣や槍は誰一人として捨てられずにいた。自らの命を護るため、そして自ら命を終わらせるために最低限必要な道具だったからだ。
間違った認識は決して正しい結果を生むことはないと牧羊犬ことトーレ・クリステンセン卿は生前よくに口にしていたと言う。彼が健在であればこのような無謀な作戦は打たなかった。そんな会話を風太郎は何度も耳にした。
マルムスティン王をはじめとした上層部は、この全軍をあげた奇襲に惨苦ゆえの戦果があると折ある毎に宣った。しかし彼らの意中は、あてがあるわけではない期待めいたものであった。そもそも何をもって帰結とするかさえ見えていなかった。彼らはそれを仕方のないことと己に言い聞かせ、依拠に近い底意を口にするものは誰もいなかった。
風太郎も希望を持てずにいた一人だった。上層部が吐露する成功や勝利、辛労と犠牲、それら全てがほどなくして無為に期すこととなろうことを、乾いた口腔、羊の革でできた背負子の肩紐が食い込み擦り剥けた両肩、日々鈍る足取りから感じ取っていた。しょせん人の生など大きな流れに支配されている。国が滅ぶ過程を体験しているのかもしれないと、半ば投げやりになっていた。
物思いに耽る風太郎を、隣を歩く兵が窺う。視線を感じた風太郎は我に返り、彼の目を見返した。
十代半ばであろうあどけない顔つきだった。途端、心に発破がかかる。若者には不確かだがそれでも未来はあろう。少しは踏ん張らねばなと思い直す。歩きながら背を弾ませ背負子を担ぎ直し、そして若い男に名を問うた。
若者は歩調に拍子を合わせ、荒い呼吸を繰り返す。その合間に絞り出したかのようなかすれた声を発した。
「ツォーマス……ヤルヴェラ……です」
名乗る男の萎えた顔を慮り、風太郎はそれ以降声をかけることをやめた。
その夜は風太郎が不寝番の任にあたっていた。
遠征が始まった当初は夜襲や獣など外からの襲来に対することが主な任であった。が、今は主に脱走兵の監視・捕縛に手を煩わせていた。
いかに脱走したとは言え味方の兵、当初、番卒は切っ先を突きつけようとも実際には突きたてることを躊躇い捕獲を試みていた。しかしいつしか逃げ行く同朋の背に、矢をつがえ、剣を抜く動作に躊躇いがなくなっていた。
岩肌を擦る音に衣擦れと金属の甲高い音が、風太郎の鼓膜をわずかに震わせた。
「どこの所属か。何事だ」
風太郎は漆黒に向い問い詰めた。当てずっぽうだ。返事など期待してはいない。
しかし数瞬間が空いたのち、暗がりから声が返ってきた。
「名はティム。所属は啄木鳥。まあ、なんと言うか、暗いところはどうも怖い質でね。とくに月のない今宵は気味がわるくてなかなか寝付けねぇ。で、小便がてら気晴らしにうろうろしていたところだ。悪い悪い、すぐ帰るよ」
灯火に人影が現る。そう若くはないであろう男だった。声音からも仕草からも怒りや恐怖や緊張の様子は感じない。飄々としていた。肝が据わっていると感じた。
不文律ではあるが、不寝番は脱走者と疑わしきものを殺傷する権限が与えられる。というよりかは任務に近い。
風太郎は柄を握り、つぎに手の力を抜き離した。見ればやつれた細身の体。刃を突き立てる気がおきなかった。
「後ろの奴らも小便でいいか?」
風太郎が問う。途端男から緊張の色がにじみ出た。皮肉げに笑い
「降参だ。いい星回りと思ったんだがな。当てが外れた」と肩をすくめた。
逆にぽつりぽつりと岩陰から現れた六人の男たちは、どことなく弛緩していた。
一人の男が言葉を追った。顔は汗ずくみだった。
「もううんざりだ。家に帰りたいんだ」
ツォーマス・ヤルヴェラだった。
「考え直す気はないのか」
彼らは無言をもって答えとする。風太郎はため息を一つつくと、言葉を継いだ。
「これほどの剣や鎧、揃えるだけでも困難だったろう。大きな兵器もそうだ。ひとの背に載るよう考えた者、それを実践したものがいた結果だ。数多くの犠牲と善意と思いやりがあったんだ。確かにこの道程は悪意や憎悪に満ちている。だが良かれをもって送り出してくれたものもいたということもわかって欲しい」
己の言葉に歯が浮いた。この期に及んで下手な理屈を並べる己を卑下した。本音はそんなことではない。この行軍は過酷だ。しかしそれを見越しても、逃亡兵が生きてゆくにこの山中は厳しすぎる。風太郎は、ただ彼らに死んでほしくなかったのだ。
「そうなんだろうな」
ティムと名乗る男が目配せをする。一斉に金属音がした。
「糧食は三日分。それ以上は置いて欲しい」
風太郎はひとり微動だにしない男に目を向けた。ツォーマスだった。どうも事態を飲み込めていないらしい。呆けていた。隣の壮年の黒髪の男が風太郎に探る視線を向け、肘でツォーマスを小突く。ツォーマスは慌て柄を握った。
しばし張り詰めた静寂。寄り寄り風の巻く音が割入る。
と、かすれ声が場を緩めた。
「恩に着る」
ティムだった。
彼らはティムの指示の下、風太郎に従い、その場に幾つかの荷をおろし探るように暗闇へと歩を進めた。
すでに軍隊の体は僅有絶無と言えた。




