深紫の一団
軍立ちから終始後方に控え槍攘を遠巻きに眺めていた紫の一団が、兵戈を手に前線へと向かったはそんな折だった。
一糸乱さず紡錘状を維持し疾駆するさまは、この部隊の本来の姿であろう鉄床を連想させるに能わない。部隊の練度の高さ、手数の多さを窺わせた。
風太郎は足裏から馬蹄と思しき振動を鋭敏に感じとっていた。方向とそして乱れの無さから、マルムスティン候の所為と見当はつけたものの、彼の思惑までは読みきれずにいた。
「じきに紫の部隊が何のつもりかは分からんが、ここを通る。そのまま、向こう岸まで突入するつもりではあるまいな」
「可能性がないわけじゃないが、まあ違うだろうな」
報告がてら疑問を呈した風太郎に、なぜこの程度のことがわからない、とばかりに見下し誹る章介の訳知りの声が、背後から届いた。屈辱に握る拳に力がこもり前膊が隆起した。
「まあいい。あの男のことだ。然るべき考えの上での行動だろう」
切り返す風太郎に章介は、今度は乾いた笑いで腐した。
「なるほど。言い廻しの妙というやつか。俺がお前ならどちらかと言うと、空いた口が塞がらん、とかそういう類の言葉を使うがね。まあ、こんなものでも後の歴史で賢者の所行と刻まれ、賛美されるかもしれないから面白い」
曖昧で皮肉めいた措辞は耳を鋭く突き、風太郎は堪らず不興げに章介を見遣った。目線の先の男は兎の脚を燻し干した肉を齧り、旨くもなさそうに顎を動かしていた。
何が面白い、と吐き出しそうになったものの、風太郎は無意味と知りその言葉を口の中にとどめた。代わりに視線に刃を宿し「どういうことだ」と不躾に低くこもった声で問い詰めた。
「昨日のことだというのに覚えてないのか?」
見るからに上機嫌な口元から、焦点をぼやかせた物言いが返った。それは昨日のマルムスティン候の来訪のことを指しているのは理解に易い。だが、何を意図しているかまでは考えに及ばなかった。
風太郎はいらだち、再度「何をだ」と短い言葉で詰問する。と、それは意表をついた答えを呼んだ。
「侯爵の全てを見放したような目つきだよ。思い出したんだよ。昔はよくああいう目で見られたものだとな」
不意に章介を慮り数瞬黙した。風太郎自身、思わぬ心の動きであり反応だった。
「あれは見限った人間の目だ。橋の向こうで何が起こっているかはよく分からん。だがもう終いにする、いや、なかったことにする腹づもりなんだろうな」
結局、章介が何を言わんとしていたか、深紫の一団が何を企てているか、厳密には分からなかった。だが良からぬことを想像させられるにはそれで充分だった。
風太郎は人の波へと駆け出した。正義感から何かを為そうとしたわけではない。かと言って恐怖に駆られたわけでも、好奇に身を任せたわけでもない。ただ、脚が動いてしまったのだ。
遠くに見えた橋は、嵐に見舞われた船のように左右に大きく振れていた。軋む音と破裂する音が何度となく響き、その都度揺れは深まった。
橋の上は乱雑にして規範無し。逃げ惑うも行き場のない者。絶叫とともに濁流へと落下する者。品のない宴酣のごとき騒乱が、聴覚と視覚を介して風太郎に伝わった。
人波を掻き分け、橋台の近傍までたどり着いた。すでにそこは長槍を手にした紫の鎧を纏う一団が、屯していた部隊を力ずくで押しのけたのだろう、整然と橋を囲むように陣取り、何やら事を起こしていた。
あたりは直近までの騒然が鳴りを潜め、空気が凝固したかのように静まっていた。
「止めよっ!」
怒号と鞘鳴りとが重なった。目をやると、一人の兵士が戦斧を振りかぶる男の背後へ、細身の刺突剣の切っ先を突きつけていた。背丈はある。金色の光沢のある髪も短く切りそろえられていた。だが声音と所作は紛れもなく女のそれだった。そして剣を向ける者向けられる者、双方紫に誂えられていた。
土を踏みしめる音が一斉に起った。天を指していた幾つもの穂先が風鳴り、女兵士へと向いた。彼女は表情こそ固まったが、変わらず毅然と振舞っていた。
「橋上の者達を見殺しにするつもりか? 戦を生業としている者が命を尊ばずして、治世の望みが叶おうものか」
彼女の声は四周に届いたものの、だがその真意は到底届いていたとは思えなかった。
この場の指揮を執る者と思われる男の野太い声が、彼女の思いを容赦なく打ち消した。
「誇りを忘れ野良犬のように振る舞う奴らではあるが、それでも一端の兵だ。戦を生業とした者たちだ。殺すこと、殺されることが役割。治世のためと言うのなら、策のためにその身を委ねるは必至であろう」
「兵とて助けを求めたのなら無辜の民。見殺しにしていい策などあろうか」
「策は策。それ以上でもそれ以下でもない。故に口を挟むことなど許されるはずもない。兵は従うのみ。それが最上で、絶対だ」
ひりついた殺気が一段上がった。緊張した空気が振動したかのように、風太郎には感じられた。
濃紫に揃えられた兵は風太郎の目測でおよそ百。意を決し咄嗟に頭を低くとり疾駆、女を囲むように配置した兵士を掻い潜った。間に割って入り、そして柄を握る女の右手首と喉を掴み、押し倒し馬乗りとなった。
章介は風太郎が得たであろうチートを『神速』と呼んだ。持って生まれた人並み外れた筋力と反応速度。加えてオッツォから受け継いだ身のこなしの成せる業だった。
堪らず女は剣を手離した。風太郎は首を押さえつけたまま、すかさず顔面を三度殴打した。女はぐったりと力が抜けた。
「猿の如き体配。思い当たるフシもありますが、さて、何から訊きましょうか?」
問いてきたるは馬に跨る年嵩の男だった。慇懃な物腰がグスタフを亡きものにしたラーゲルクヴィスト伯を彷彿させ、緊張に背筋からひやりとした汗が噴き出た。
だが睨め上げた先にあった顔は、伯爵とは似ても似つかぬものだった。
女を指していた全ての穂先は、風太郎へ向きなおしていた。からかい混じりの口笛がひとつ鳴った。続いてくつくつとした含み笑いが、彼方此方から聞こえてきた。この度の遠征で心が病まぬ訳もない。それは鍛えられたマルムスティン兵とて例外ではなかった。
「ヒッタバイネン伯領エドワウ・ヘディンが近衛、風太郎。この騒動は俺が預かる」
「笑わせる。一兵士が、それも北の領主は格下。貴様ごとき賤しき者が背負える場ではない。思い知るがいい」
名乗りを上げた風太郎を、兵士の一人が蔑んだ。風太郎は女の首から手を離し、佩いた剣の握りに手を掛けた。咳き込む女の肩口で、鞘から剣身を僅かに覗かせた。抜かなかったことが風太郎の意思を示していた。戦うつもりは無い。が、已む無くば斬ると。
「なるほど、貴殿が使者ですか。ならば私も名乗りましょう。トーレ・クリステンセン。この一団を預かる者です。北の領土は隣地。して伯爵殿は我が領主も一目置いておられるお方。その使いの者とあらば、ここはお任せするしかないであろうと推するが、いかがかな?」
彼の名は知っていた。その部隊運用の妙、そして常に後方から指揮するさまから、牧羊犬と渾名された宿将であった。
マルムスティン候は昨日の会見でも見せたように、北の領主ヒッタバイネン伯を多とする様子は無い。その上風太郎自身、使者などではなかった。これは馬上の男の捏ち上げであった。
ほどなくして、囲みから抜け出た風太郎を牧羊犬と呼ばれる男が呼び止めた。
「慙愧に堪えぬところをお見せしました。最初に流される血が味方のものであれば、幸先も縁起も悪い。士気も下がろうものですからな。かと言って看過するわけにもいかず、どうしたものかと悩んでいたところの貴殿の救いの手。助かりました。礼を言います」
対して風太郎は緘黙し頷いただけに留まった。礼を失した態度を取るつもりではなかった。ただ戸惑っていたのだ。男の言を疑っていないわけではなかったが、信じていないわけでもなかった。
風太郎の思惟を言葉にすると、腑に落ちない、が最も適切と言えたが、それではない引っ掛かりがあった。それが何かと聞かれても、答えようのない何かだった。
しばらく経つと、叩きつけるような音が幾度となく響き始めた。屈強な男が四人、戦斧を何度も振り下ろしていた。
章介の言う、空いた口が塞がらないこと、を風太郎はこの時やっと理解することとなった。橋を落とすつもりなのだ。
「何故助けた」
足元から声がした。先ほどの騒ぎの主役を担った女だった。彼女は横たわりながらも、風太郎に強い視線を浴びせていた。
助けたとどうして分かった、と逆に問い質そうとしたが、愚問と悟り口を突く前に引っ込めた。敏い女だと思い、なら何故あのような暴挙にでたか不思議に感じた。いや、暴挙は己か、と思い直し自嘲気味に苦笑いをした。
風太郎は女に対する疑心を一旦しまい込み、女からの問いに真摯に答えた。
「この戦は異常だ。普通に考えれば子供でもわかろう。しかし皆が麻痺して、とんでもないことだと感じなくなっていた。たぶん軍人なんてものはそういうものなんだろう。が、お前は違った。まともだった。ろくでもない事をろくでもないと認識していた。だから死んでほしくないと思った」
本心だった。悪意に満ちた戦線で、彼女だけは清らかだったとの想いを言葉に込めた。
頓て橋は鳴動しながら崩れ落ちた。
逃げる間を与えられなかった多くの人間が叫び声と共に投げ出され、岩場に体を打ち付ける者、奔流に飲まれ流される者が続出した。
女は下唇を噛んで、それでも己が成し得なかった結末に、悔いるかのように目を逸らさずにいた。
「救われんな。辛いだろうが、忘れないで欲しい。そして潰されんでくれ」
静かな声だった。身勝手ともとれる懇願だったが、これが風太郎の嘘偽りのない言葉だった。
女はそのまま項垂れ、慟哭した。




