34 幕間 御前会談の影響
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ちょび髭総統が訪日した際に昭和天皇と会食した事は有名な事実である。
これを端緒に日独の交流が本格化したのは良く知られた話だ。
今日、海外でもっとも日本料理が受け入れられているのはドイツ地域だが、そのきっかけがこの会談ということは歴史家、特に民芸歴史家の中では常識となっている。
また、醤油や日本酒、味噌といった日本食に必須な発酵食品生産に必要な職人の第1陣はちょび髭総統直々にドイツを挙げて招聘したということは双方の記録に詳細に残されている。
そして面白い事に、この日独の食の文化交流にイタリアが巻き込まれていく事になるのだ。
と言うのも職人達がドイツにたどり着いたものの、ドイツの気候は母国日本とは大きく異なり職人達は大いに苦戦する事になる。
だが、そこはドイツ人と日本人のコンビである。
東洋と西洋の凝り性の職人たちはあの手この手で、製造に関しては材料さえあればなんとか作れるところまでは早期にもっていけたのだ。
恐るべしは職人の凝り性である。
だが、その職人たちをもってしてもどうしようもないのが材料の生産だった。
大豆はまだしも、米の栽培をドイツで行うのは気候的に無茶であった。
そこで白羽の矢がたったのは稲作の文化が当時からあったイタリアである。
稲作のやり方の細かな違いはあったものの、イタリアでジャポニカ米の生産が無事なされる事になったのだ。
そうして会談には臨席しなかったイタリアすら巻き込み、後に食の三国同盟とも言われる不思議なサプライチェーンが次第に形成されることになった。
そして当初は日本から職人が来ただけだったが、独伊においても日本のSAKEや醤油などを通じて日本への興味を強く抱くようになり、少なくない人間が日本へ渡るのだった。
その中にはビール職人やピザ職人なども含まれており、日本でも独伊の食文化が浸透するきっかけとなった。
こうして『同じ釜の飯を食う』という諺とは少し様相が異なるが、互いの国の食をより身近に食することになったそれぞれの国民は互いの国に強い親近感を抱くようになったのだ。
ここまでの戦略的要因をふまえて、ちょび髭総統が日本の職人の派遣を要請したのか否かは未だに議論の的となっている。
あまりにも遠回りで時間のかかる外交工作なので眉唾物に近いものではあるが、ちょび髭総統の訪日に向けての事前準備の周到さが一定の信憑性をその説にもたらしている。
その周到さの一例として俄には信じられない事ではあるが、ちょび髭総統は寿司を箸で食べたと言われている。
日独友好を演出するための情報操作と近年まで考えられていたが、当時昭和天皇陛下の御付きを務めた宮内省職員の手記が公開された為、詳細に当時の会食のことが明らかになってきた。
その手記のなかでは、他の随行員が苦戦するなか帝国の人間と遜色なく箸を操り、西洋では当時忌避されていたはずの魚の生食を平然とこなしたことが、職員の驚きの感想と共に詳細に記されている。
世界中に光ケーブルが張り巡らされ、様々な情報に3歳児ですら容易にアクセスできる今日とは違い、当時の貧弱な情報インフラでは箸の持ち方などといったことも収集するにはかなりの労力が伴ったはずである。
その辺りの点を鑑みると、ちょび髭総統が『食文化を共有することによる同盟の強化』を狙っていたという説がかなり有力となってくるのだ。
こういったことからちょび髭総統と昭和天皇の会談の影響として、日独伊の文化交流の進展と三国同盟への大きなきっかけが一番に挙げられることが多いのだが、実はもう一つ忘れてはならない影響がある。
それは、大陸における日本勢力のふるまい方だ。
この会談から後しばらくして、当時やや殺気だったものすらあった大陸での日本勢力のあり方はかなりマイルドなものに徐々に変化していったのだった。
宮内省の職員の手記が公開されるまでは、石原莞爾をはじめとする陸軍勢力の日中戦争回避の努力の一環の現れと捉えられることが多かったのだが、それに加え間接的に昭和天皇のご意向が反映されていたというのが今の通説となりつつある。
昭和天皇ご自身が直接ご指示や苦言を呈したという記録はないが、この会食には日本側からも多くの高官が出席しており、陛下のお心を垣間見る機会となった。
その結果、陸軍は勿論のこと関係各省庁にも有形無形の形でご意向が伝播していき日本勢力の行動はかなり軟化していったのだった。
この日本勢力の態度の軟化は、日中関係にかなりの追い風となり、日中戦争回避に大きく貢献していくこととなる。
仮に日中戦争が勃発していた場合、日本は多くの戦争遂行のリソースを大陸に取られ、後の大戦の行方も全く異なったものになっていただろうというのが多くの歴史家が口をそろえるところである。
そういったことから、この会談はまさに後の第二次世界大戦を大きく変えるものであったという評価が定説となっているのである。
日中戦争は起こさせません。




