65・シンに仕掛けた寝起きドッキリ
タキ達の住む建物の一階部分には、通り抜けできる狭い通路があり、ここにも他の場所と同様に、有事の際には閉じてしまえる扉が付いていた。と言う事は、これも抜け道の一つという事だ。
馬車で通り抜けられそうなくらい幅の広いものから、人ひとり通るのがやっとという狭い通路や階段など、一体いくつ存在するのか知らないけれど、この抜け道を全て覚える事ができれば、王都内を素早く移動する事が可能なのだろうなと思った。
「こっちだよ。この通路には明かりが無いから、足元に気をつけて」
幅が二メートル弱ほどの狭い通路は暗く、何も知らなければ、暗い時間にここを通ろうなんて絶対に思わないだろう。
前世で私が住んでいた地域には、交通量の多い道路の地下に地下歩道があったけれど、きちんと照明で明るくされていても、一人でそこを通るのはとても怖かった記憶がある。タイミング悪く同時に男性がそこを通ろうものなら、相手には失礼だけど、走って通り抜けたものだった。
今は朝日が昇りきる前で、まだ辺りも暗いせいもあるけれど、たとえ昼間の明るさがあっても、この中まで明かりが差し込む事は無さそうだった。地面に少しでも段差があれば、気付かずに転んでしまいそうだ。
タキは通路に入る手前で私の手を取ってくれて、気遣いながら慎重に通路を進んでくれた。
「タキもこんな抜け道をたくさん知っているの?」
「いいや、僕の知っているのは、宿までの近道だけだよ。どうして?」
「便利だから、私も抜け道を覚えたいと思っているの」
私の返事を聞き、タキは通路の途中の一番暗い場所で立ち止まった。
私は彼が立ち止まった事に気付くのが遅れてしまい、そのまま真っ直ぐ進んでぶつかってしまった。
「タキ?」
彼の向こうの出口からは仄かな明かりは見えるけれど、顔を見上げてもタキの表情は良く見えない。
「ラナさん、抜け道は確かに便利かもしれないけど、こんな時どうするの? 君が一人の時、こんな風に男に絡まれるかもしれないよ? この狭い場所で、側にヴァイスも居なかったら?」
「ヴァイスは側に居なかったとしても、呼べばすぐに来てくれる事になっているの。今、この状況でヴァイスが姿を見せないのは、あなたが危険な相手ではないからよ」
「……そうか、君に危機感を感じさせないくらい僕は信用されているんだね」
タキはそう言うと、掴んでいた私の手を引いて、スタスタと暗い通路を進み始めた。
「僕に理性があって良かったね。他の男だったら、きっと今頃襲い掛かっていると思うよ。覚えておいて。この辺りは大丈夫、なんて油断していたら、若い女性は簡単に悪いやつの餌食にされてしまうよ。君のその聖獣に守られているっていう過信も、油断に繋がりそうでちょっと怖い気がする。さあ着いた。ほら、うちの入り口はそこだよ、階段を上がって二階の右側のドアが僕らの部屋だ」
タキは私が一人で出歩く事をあまり快く思っていないのね。人攫いに遭ったばかりだし、心配なのはわかるけれど、そんなに気にし過ぎたら、一人ではどこにも行けなくなってしまうわ。
建物の正面に出ると、上半分にガラスがはめ込まれたドアがあり、中を覗くと奥に続く廊下と階段が見えた。タキの後について中に入ると、うちの宿と同じくらい古い建物だけれど、ペンキなどが剥がれた所も無く、この建物がきちんと管理されているものだということが分かった。
シンはお金が無いと言っていたはずなのに、意外と良い所に住んでいたのだな、という印象だった。
あの頃は身動きできないタキを置いて仕事に出なければいけなかったのだから、変な所には住めなかったわよね。
それに職場から近い空き部屋なんて、そうタイミングよく見付かるものでもないでしょうし、ちょっと無理をしてここを借りたのかもしれないわ。
「ところで、タキはいつもこんなに早く起きているの? まだ夜明け前よ?」
「あー、うん。実は、体を鍛えたくて、仕事に行く前に毎朝そこの川沿いを走ったりしてるんだ。君のお陰で体は本来の大きさに成長したけど、自分の筋力の無さにガッカリしちゃって」
そういえば、体が急成長したばかりの頃のタキは、骨格はしっかりしていても腕が細くて力も無かったわね。あの頃と比べると、それから随分努力したのだという事が良く分かる。シンのように太い腕になるにはまだ先は長そうだけど、頑張ればきっと追いつけるでしょう。
タキのこの優しげな顔に、シンのような筋肉質の腕はちょっとイメージ出来ないけれど、体力づくりは大切な事だわ。
「どうぞ、入って。兄さんは奥の部屋に寝てるから、まずはお茶にしよう」
「お邪魔します……。あ、待って、私がやるわ。あなたは座ってて?」
シンがまだ寝ているという事もあって、私達は小声で話をしていた。
そして居間の隅にあるキッチンへ向かい、やかんでお湯を沸かす間、私はティーポットやカップを用意した。棚に並んでいる食器の数から、それが彼らの両親が生きていた頃からの愛用品だと窺えて、なんだか切なくなってしまった。
テーブルの上を見ると、茶葉はうちの宿で使っている緑茶と、この国では一般的な紅茶があった。
「ねえ、緑茶と紅茶、どっちが良い?」
「え? あ、どっちでも。君の飲みたい方でいいよ」
「じゃあ、久しぶりに紅茶にしようかしら」
私が紅茶の用意をしている間、タキは黙ってその姿を眺めていたようだ。
「なんだか変な感じだな、君がうちでお茶を入れているなんて。毎日見てるのに、場所が変わるだけでこんなに違うものなんだね」
「私も、実はちょっと緊張しているわ。人の家でお茶を入れる事も変な感じがしているけれど、やっぱり、男性の部屋に入ったのが初めてだから……」
「初めてなの?」
男友達はいるけれど、エヴァンの家に遊びに行っても彼の部屋に入った事は一度も無かった。
それにたとえ家族であっても、お兄様の部屋にも入れてもらった事は無い。この間、リアム様が宿泊中の客室には入ったけれど、あれは自分の宿の客室だから、ノーカウント。
男性のプライベートスペースに入ったのは、これが初めての体験だ。
「ええ。余計な物が何も無くて、男性の部屋って感じね。私の部屋の事なんか言えないじゃないの。ところで、シンはいつも何時頃起きるの? 出勤ギリギリまで寝てるのかしら?」
どうせだから、シンも一緒にお茶してもらって、思い切ってここで私の事を話してしまおう。夜に二人だけを呼び出すよりも、きっとその方が良いでしょう。
「あー、兄さんはいつもギリギリまで寝てるかな。でも、起こしちゃっていいよ。左のドアが兄さんの部屋だから」
「そうなの? 普段まだまだ寝てる時間なのに、起こしてしまって大丈夫かしら? でも、ちょっと二人に聞いてほしい事があるし、ごめんね、シン」
私は緊張しながらシンの部屋のドアを開けた。
部屋は狭く、四畳半ほどの広さだろうか。中央にベッドと、その横にイスが置いてあるだけで、椅子の背もたれには、シンが昨日脱いだものだろう、ズボンとシャツが無造作にかけられていた。見ればクローゼットの扉が開いたままになっていて、中には食堂の制服が綺麗にかけられているのが見えた。
「お邪魔します……。ふふ、良く寝てる」
シンは私が作ってあげた白いTシャツと、黒のスウェットパンツをパジャマ代わりに着ていて、掛け布団を抱き枕のように抱えてぐっすり寝ていた。そこだけ見ると、何だかまるで前世に戻ったみたいに錯覚してしまう。
そっと近付いて、シンの頭の方にある窓のカーテンを開けると、外はもう明るくなっていた。眩しい光が室内を照らし、シンの顔にも光が当たった。
「おはよう、シン。起きて?」
シンは部屋の明るさに不機嫌そうな顔をして、抱き枕にしていた布団を少し広げて頭からかぶると、ちょっと間を置いて、布団の隙間から顔を覗かせて私の方を見た。
「ラナ……? 何だこれ、俺まだ夢見てんのか……?」
「おはよう、夢じゃないわよ。ちょっとお邪魔してます」
「……嘘だろ……」
シンは眠そうだった目を何度も瞬いたかと思うと、急にガバッと起き上がり、自分の体を布団で隠した。
「オーナー、なんで居るんだよ?」
シンが驚く声を聞いて、タキは愉快そうに笑いながら部屋に入ってきた。
「アハハハッ、朝から驚いたよね。僕も驚いたよ。兄さん、ラナさんの事はいつもオーナーって呼ぶのに、咄嗟の事だと名前を呼ぶんだね。初めて聞いたかも」
「あら? そうだったかしら? 前にも呼ばれた事があったと思うけど……」
シンは耳を赤く染めて布団に隠れてしまった。
「あー、クソ、そんな細かい事いちいち気付かなくていいから。つーか、もう起きて着替えるから、二人共部屋を出てくれよ。着替えるところを見たいっていうなら見てても良いけどな」
「ラナさん、兄さんの着替えシーンなんて見てもつまんないから、向こうでお茶にしよう。お湯が沸いたよ」
「あ、じゃあ、シンも着替えたらこっちへ来てね。話したい事があるの。お茶を淹れて待ってるわ」
「ああ、ドアは閉めて行けよな」
二人がどんな反応をするか不安は残るけれど、私は自分の素性を包み隠さず二人に話す決心をした。




