30・花言葉「純粋」「幸運」「かわいいあなた」
久しぶりに買い物に出る事が出来た私は、一時間ほど羽を伸ばさせてもらう事にした。
私が毎日厨房に立つ様になってから、お客様が何倍にも増えたとチヨは喜んでいるけど、本当はもう少し細々と営業するつもりだった。皆にお給料が払えて、ちょっと利益が出るくらいで十分だと思っていたのだけど。
この宿には部屋数がそれほどあるわけでは無いから、そこからの収入はそんなに多くは無い。おまけに修繕費が足りなくて、長年放置されて痛みが激しい二部屋は使えない状態なのだ。
それでも常に満室なので安定した収入源にはなっている。元々ただの宿屋だと言うのに、今は食堂がメインになっており、近頃は、地元の人達からおにぎり屋と呼ばれている。
「妖精の宿木亭」という、150年続く立派な名前があるというのに。
様々な露店が立ち並ぶ市場を回り、スパイスを扱う店に到着した私は、そこでまさかのカレー粉を見つける事が出来た。正確にはカレー粉ではなかったけれど、独自にブレンドされたスパイスの香りが、自分の知るカレーの匂いそのものだったのだ。
店主の男性にこれは何かと尋ねると、彼の故郷インティアではポピュラーなミックススパイスらしい。肉や魚に振りかけて焼いたり、スープに使うのが一般的だというので、試しに一つ買う事にした。
すでにお目当ての品を手に入れたけれど、カレー粉が見付かったように、他にも欲しかった調味料が存在するかもしれないと思った私は、調味料を扱う店を探し始めた。豆板醤なんかがあれば、もっと料理の幅が広がるはずだ。
「ラナちゃん、おはよう、あんたが買い出しなんて、珍しい事もあるんだな」
「おはようございます。ええ、どうしても欲しいスパイスがあったので。また食べに来て下さいね」
この市場で働く人達は、ほとんどが食堂の常連さんだ。私の顔を見て、皆声をかけてくれる。それに答えながら店を見てまわっていると、宿のある方向から、シンが買い物客を避けながら走って来るのが見えた。
どうしたのかしら? 何か不足した食材でもあった?
「シン、おはよう、どうしたの?」
「ハァ、ハァ……ずいぶん暢気だな……心配する必要無かったか」
「私を心配して、わざわざ走って来てくれたの?」
「当たり前だろ。ここらの店の人間は確かに知り合いばかりだけど、ここに来る客の中にはどんなヤツが居るか分からないからな。それで、後は何を買うんだ?」
シンは当然のように、さりげなく私の荷物を持ってくれた。
カゴはまだ重くはないけれど、女の子扱いされた事が何だか少しくすぐったい。厨房では私が重い寸胴なんかを持とうとしていると、スッと隣に来て何も言わず運んでくれたりもするけれど、これも同じような事なのに、外でやられると、なんだか変に意識してしまう。
そういえば、外でシンに会うのは、これが初めてじゃないかしら?
「あ……ありがとう、シン。あのね、豆板醤とコチュジャンが欲しいの。って言っても、わからないわよね」
「ああ、それなら向こうだ。その、何とかジャンって、赤くて辛い味噌みたいなやつだろ?」
「え、ええ、そう。その通りだけど、良く知ってるわね」
「前の店に居た時に、買い出しでここまで来た事があるんだ。その時に興味本位で味見させてもらって、えらい目に遭ったから、覚えてた」
「ふふっ、何だか想像つくわ」
豆板醤がこの世界にあった事に驚いたけど、この世界に日本に似た国があるように、きっと他の国も、少しずつ形を変えて存在しているのね。カレー粉があった時点で、そんな気がしていた。あんまり専門的なものは必要ないけど、私の記憶にある料理くらいならば、ほとんど再現出来るかもしれない。
「なんか、変な感じだな」
「何が?」
並んで市場を巡っていると、シンが不思議そうな顔をして私を見下ろしていた。タキと同じオリーブ色の髪が、朝日を浴びてとても綺麗だ。
「毎日顔を合わせているってのに、オーナーと外で会うのはこれが初めてじゃないか?」
「やっぱりそう思った? 私もさっき同じ事を考えていたわ」
私は密かに、買い物デートってこんな感じかな、なんて考えていた。前世では彼氏は居た事も無く、デートなんてした事が無い。まあ、歩いているのは市場だし、そんな甘ったるい雰囲気なんて欠片も無いのだけど。
そんな事を話していると、花屋の店主が私達に声を掛けて来た。この人も、ほとんど毎日のように夕食を食べに来る常連さんだ。
「よおシン君、ラナちゃん、二人で買い物とは珍しい。店に飾る花でも買って行かないかい? 安くしとくよ」
花屋の露店には、色鮮やかに咲いたバラなどの切り花や、蕾のたくさん付いた鉢植え等が所狭しと並べられていた。
「おはようございます、みんな綺麗に咲いてますね。そうね、この間貰ったガーベラが枯れてしまって、ちょっと寂しいなって思っていたの。ねえ、シン、どれか買って行きましょうか?」
「ああ、良いんじゃないか」
生返事が戻ってきた。
シンに聞いた私が馬鹿だった。男の人はそんな事聞かれても困るわよね。フロントに花が一輪あるだけでも随分雰囲気が良くなったし、パッと明るくなる黄色や白の花を少し買って帰りましょう。
「えーっと、それじゃあ、黄色と白のガーベラを一輪ずつ下さい」
「あ、そう言えば、ちょっと前までフロントに飾ってたけど、ガーベラが好きなのかい? じゃあ、サービスでオレンジ色を一本おまけだ」
「まあ、ありがとうございます。とっても可愛いわ」
会計を済ませて店を後にしようとすると、シンが鉢植えを一つ手に持って別の店員にお金を払っていた。花に興味が無いのかと思ったけど、自宅に飾るものを選んでいたのね。
「それ、お部屋に飾るの?」
「ん? ああ、部屋が殺風景だからな。ほら、そこがオーナーの欲しい何とかジャンを扱ってる店だ」
「あ、本当、凄くたくさん種類があるのね。ふふふ、これで中華料理も韓国料理も食べられるようになるわ。シンはレシピを覚えるのが大変かもしれないけど、よろしくね」
その店には、中華料理に使う調味料だけでなく、聞いた事のある他のアジアの国の調味料に似た物も、瓶詰めにして売られていた。残念ながら、前世の記憶が戻っていてもそれらを使うレシピまでは知らないので、買う時は永久に来ないだろう。
私達は必要な買い物をすべて済ませて、急いで宿に戻る事にした。シンが私を心配して出てきてしまったから、昼に向けての下ごしらえを、結局タキ一人に任せた事になる。
裏から宿に戻った私達は、真っ先に厨房へ向かい、タキの様子を見に行った。
「ただいまー。タキ、ごめんね、この量を一人で大変だったでしょう?」
「おかえり、ラナさん。さっきまでチヨちゃんが手伝ってくれていたから、大丈夫だよ。この間ラナさんが息抜きさせてくれたから、今度は自分がお返しする番だって」
私が居なかった一時間足らずで、野菜の皮むきは全て終わり、タキは次の段階に入ろうとしていた。私はフロントに居るチヨの元へ向い、そこで帳簿を付けていた彼女に後ろから抱きついた。
「ひゃ、ビックリしたー、お帰りなさい、ラナさん」
「ただいま。自分の仕事だってあるのに、厨房を手伝ってくれたんですってね、ありがとう、チヨ」
「えへへ、そんな、別に大した事はしてませんよ。欲しかった物は買えたんですか?」
「ええ、おかげ様で新しいメニューを増やせそうよ。早速午後の営業から、新メニューを一品追加するわね」
新メニューはドライカレー。前世では私の父の大好物だった。
材料を全て微塵切りにするのは手間だけれど、それさえ済めば、あとは簡単。トロトロになるまで煮込むという時間が必要ないのが魅力の料理だ。
先に微塵切りした生姜とにんにくを炒めて香りを出し、そこにたまねぎ、にんじん、セロリ、なす、ピーマンを炒め合わせて、ひき肉を加え、火が通ったらスパイスと塩を加え、潰したトマトとすり下ろしたリンゴも加える。シンが作った肉や野菜を煮込んだ基本のスープを入れて水分が飛ぶまで加熱し、レーズンを加えて完成だ。
前世では顆粒のコンソメを使っていたけど、ここには無いし、コンソメスープを作るのは大変な手間ひまがかかるので、シンのスープで代用するけれど、きっと大丈夫よね。
チヨにお礼を言った後、一度厨房に戻り、買って来たスパイスなどを棚に並べた私は、部屋にエプロンを取りに向かった。
すると私の部屋のドアの下に、いつの間にか、先ほどシンが買っていたブルーデイジーの鉢植えが置かれていた。真ん中が黄色で、水色の花びらが可憐で爽やかなキク科の花だ。
自分のために買ったんじゃなかったの? 殺風景な部屋って、私の部屋の事だったのね。
「可愛い……この花の花言葉なんて、シンは知らないわよね」
自然と笑みが零れ、今日のシンとの市場デートを思い出した。
あれをデートだと思ったのは私だけよね。だってただの買い出しだもの。でも私はとても楽しかったから、そう思う事にする。この花を見たら、きっと今日の事を思い出すわ。
鉢植えを持って部屋に入り、何の飾り気も無い部屋の窓辺に、早速ブルーデイジーの鉢植えを置いてみた。たったそれだけの事なのに、なんだか部屋全体が華やかになった気さえする。
着替えてエプロンを着けた私は、シンにお礼を言う為に、急いで厨房に行くと、すでに仕事を始めていた彼と目が合った。
私はそこでお礼を言おうと口を開いたけれど、シンは気まずそうにふいっと目を逸らし、作業する手元に視線を落とすと、野菜のカットを再開した。
照れてるのかしら? お礼くらい言わせてよ。
シンの隣に立ち、私は今日のお礼を小声で伝えた。
「シン、ありがとう。あのお花、殺風景な部屋に飾ったわ」
シンは何も言わず、私の方を見てフッと微笑んだ。その今まで見たことが無いほどの優しい微笑みに、私は胸の奥がギュッとなって、ほんの少し、鼓動が早くなるのを感じた。




