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10.2・人生が好転する予感

 両親の死からひと月ほど経ったある日の事。

 俺はレストランのオーナーに頼まれて初めて残業をした。 

 二人分の生活費くらい何とかなると思っていたが、現実はそう甘くはなかった。

 雑用しか出来ない俺がもらえる給料などほんのわずかで、結局は家賃を払えずに両親の残してくれたお金に頼ってしまった。


「シン、今日は本当に助かったよ。これはお詫びのビーフシチューだ。弟と二人で食べなさい」

「ありがとうございます! 弟も喜びます」


 持ち手付きの缶に入れられたビーフシチューはまだ温かい。おまけにパンまで付けてくれた。

 二人きりの生活が始まってからずっと塞ぎ込んでいたタキも、これは喜んでくれるだろうと心を弾ませて家路につく。

 レストランで出している料理を分けてもらうのは初めての事だ。俺は久しぶりにタキにまともな食事をさせてやれると思い、ホッとしていた。

 俺の腕では正直美味しいとは言えない腹を満たせるだけの野菜スープしか作れず、タキに申し訳なく思っていたのだ。

 食費を浮かせる為に毎日余った食材をもらって帰り、煮込んで塩コショウで味付けするだけ。

 毎日家に帰る頃にはクタクタで、当時の俺に料理を楽しむ余裕は無かった。

 

「ただいま。タキ、遅くなって悪かったな。お腹空いただろ? パンとシチューをもらってきたから、温かいうちに食べよう」


 荷物を食卓テーブルの上に置き、玄関の壁のフックに帽子と上着を掛けに戻る。

 しかしいつもならドアを開けた瞬間に「おかえり!」と出迎えてくれるタキの姿が見えない。

 部屋に灯りがついているから、家に居るのは間違いないのだが。

 トイレに入っているのかとバスルームのドアをノックしたが返事が無く、少し待ってドアを開けてみると中は真っ暗だった。

 次にドアが開いたままの子ども部屋を覗く。灯りはついておらず、タキが靴を履いたまま倒れ込むようにしてベッドに横になっていた。

 何だ、疲れて寝てしまったのか。

 そう思って靴を脱がしに行くと、苦しそうに顔を歪めたタキの額に、じんわり脂汗が滲んでいた。


「タキ! 大丈夫か?」

「……おかえり、兄さん」

「具合が悪いのか?」

「……うん。午後からどんどん体がだるくなって……ごめん、洗濯物取り込むつもりだったんだけど、まだなんだ」

「ああ、そんなの気にしなくていいよ。気持ち悪いとか、お腹が痛いとかは無いのか?」


 タキは顔を横に振って答える。

 首に触れてみると少し熱が出ていたが、高熱ではない事にホッと息を吐く。


「多分風邪だな。ご飯は食べられそうか?」

「……今日はいらない。でも僕の分は取っておいてね」

「わかった。明日の朝温め直してやるから、もう寝な」

 

 この時は慣れない生活のせいで疲れが出たのだろうと思い、休息を取らせて様子をみる事にした。

 しかし翌日になってもタキの具合は良くならなかった。

 医者にみせるお金は無い。

 それから一週間、二週間と時間だけが過ぎ、タキは治る様子も無く日に日に衰弱していく。

 最悪の事態が頭をよぎり、俺は不安に押しつぶされそうだった。苛立ちから外でケンカする事が多くなり、言葉遣いも荒くなっていった。


 そしてある晩からタキが悪夢を見始める。

 夜中にうなされるタキの声で目が覚める事もしばしば。

 毎晩同じ夢を見ているようだが、何度聞いても内容を教えてくれない。

 タキが精神的にも弱っていくのが見ていて辛かった。


「タキ、それは夢だ。俺が側にいるから、安心して眠れ」

 

 そう言ってタキのベッドで一緒に眠ってやる事しか出来なかった。

 親を亡くし、親戚もいない。兄弟二人きりの家族である。

 どんなに辛くても両親に代わって自分がタキを育てなければならない。

 タキまで死んでしまったら……と、俺は不安で眠れない日々を過ごした。


 勤め先の大人に相談すると、タキは栄養失調じゃないかと指摘され、貯金を切り崩して滋養のある食べ物を与えてみるが、食欲の無いタキはほとんど食べない。


 半年後、休学していたタキは進学を諦め、ほぼ毎日家の中だけで過ごすようになる。

 衰弱しても一年ほどは簡単な家事を手伝えたが、ある日それすらも出来なくなり、力尽きて床に倒れているタキを見つけた時は心臓が凍る思いだった。

 それからは、職場と家を日に何度も往復してタキの世話をする過酷な生活が始まった。

 

 レストランで働き始めて五年。

 タキに美味しい物を食べさせたくて料理の腕が上がるも、朝出勤すると今度はレストランのオーナーが床に倒れていた。

 オーナーはそのまま亡くなり、数日後に奥さんから店を畳むと言われて途方に暮れる。

 街を歩いて求人の張り紙を探すが料理人の募集は無い。

 力仕事でもなんでもやろうと掲示板を見に行くと、レストランの常連だった白いひげの老紳士が俺に声を掛けてきた。


「シン君、ちょうど料理人を探してる人がいるからついておいで」


 言われるままについて行くと、大きな赤いリボンを頭に付けた十歳くらいの小さな女の子が道行く人に声を掛けていた。


「即戦力になる料理人を募集してます! 知り合いに働き口を探してる人がいたら紹介してください!」


 俺は老紳士に背中を押されて女の子に声を掛ける。


「俺、料理人なんだけど……」

「え? 本当ですか? いつから働けます?」

「……今日からでも」

「やった! じゃあ料理の腕を確かめたいので、一緒に来てください!」


 目つきの悪い自分に物おじせず対応する女の子に面くらいながら、後をついて行く。

 そしてふとお礼を言っていない事に気づいて振り返ると、老紳士はもう居なくなっていた。

 到着した先は「妖精の宿木亭」という名の食堂兼宿屋だった。

 外はぼろいが中に入ると内装は綺麗で、厨房は意外に広くて使いやすそうだなと思った。


「食材は地下の食品庫にありますから、何か作ってみてください。階段はそこです」

「ああ、ところで親はどこだ? 一応挨拶しないと」

「親? ここのオーナーはラナさんという若い女性です。でも週末しか来ないので、平日ここを任せられる人がほしいんです」

「女か……」


 オーナーが女と聞いて、本当にここで働けるのか不安になる。腕に自信はあるが、若い女性に嫌われやすいのだ。

 それでも藁にも縋る思いで得意料理を作ってみせた。

 女の子は俺の料理を食べて大きく頷く。


「美味しいです! じゃあ仮採用って事で明日からいいですか?」 

「ああ、それでいい」

「では改めて、私はチヨです」

「俺はシン」


 翌日からチヨにこの食堂の特徴を教えてもらい、道具の場所を覚えたり鍋を磨いたり、米の炊き方を教わったりしながら週末まで過ごした。

 タキにはレストランが潰れた事をまだ話していない。ここで本採用が決まったら、店を移ったと話そうと思っている。

 その為には、ここのオーナーを怖がらせないように、愛想よく振舞わなければならない訳だが……この五年、男だけの職場で女に笑いかけるなんて事とは無縁に生きてきた俺に、出来るのか? 仕事はともかく、そこだけが心配だ。


 週末、朝早く出勤して面接用のスープを仕込む。

 本当なら一番自信のある料理で勝負したかったが、この宿の売りは自分に馴染みの無い外国の料理だ。だから自分が今まで作ってきた料理ではダメだと思った。

 おにぎりと味噌汁はチヨに習って作れるようになったが、見た事のない食材が食品庫にあってどんな料理になるのかわくわくしていた。

 鍋に集中していると、後ろから声が掛けられる。


「あの……どちら様ですか?」


 耳に心地の良い優しい声。しかしどこか警戒心が伝わってきた。

 俺は相手を怖がらせないようゆっくり振り返る。

 すると、見事なプラチナブロンドに綺麗な藍色の目の美しい少女が立っていた。

 胸が早鐘を打つ。こんな事は生まれて初めてだ。視線を縫い付けられたみたいに彼女から目が離せない。 

 あれ? どこかで会った事があるような気がする。レストランの客か? いや、こんな子が来たら絶対覚えてる。じゃあ何だ? 懐かしいようなこの感じ。


「あ! ラナさん来てたんですね、おはようございます。彼は新しく雇おうかと思ってる料理人です」


 俺が彼女に見惚れてボーっとしている間に、チヨはこれまでの経緯をオーナーに説明した。


「はじめまして、私はこの宿のオーナーで、料理を担当しているラナです」

「俺はシン。先週までレストランで料理人として働いていた。とりあえず料理の腕を見て正式に雇うかどうか決めてくれ」


 あー……クソ! もっと愛想よく出来ないのかよ俺! 

 面接では愛想よく自己紹介するつもりだったのに、色んな意味で緊張してぶっきらぼうな物言いになってしまった。何とかして印象を良くしないと、タキに良い報告が出来なくなる。

 スープの完成はまだだと伝えると、オーナーは自分の仕事に取り掛かった。

 手際よくご飯を炊き、色々な野菜をひと口大に切っていく。若い娘だなんて侮れない、プロの顔をしている。

 絶対ここで働きたい、彼女から料理を学びたいという気持ちになった俺は、少しでも早く仕事を覚えようと、彼女の作業を積極的に手伝う事にした。

 オーナーは俺の作ったスープでこの日の「豚汁」を作り、客の反応を見た。

 結果、基本のスープは合格。

 その後改めて自己紹介をし、住んでいる場所や家族の事を話した。


「オーナー、採用が決まってから言うのも何だが、俺には病気の弟がいる」

「まあ……!」

「親はもう死んじまってるし、俺が面倒見なきゃならない。それで……引っ越しを考えてはいるんだが、今は家が遠いから早めに帰らせてほしいんだ」

「シン、当分ランチの営業のみだから大丈夫よ。困った事があれば私に相談してね。家は……近くに手頃な物件があればいいのだけど」


 自分より年下なのに、不思議と人を安心させ包容力のあるラナを早くも信頼し始めていた。

 働く条件は家から遠い事を除けば前のレストランよりも良いし、面倒な先輩もいない。

 最高の職場だ。

 

「今日はもう帰ってもいいか? 弟が心配で」

「ええ。早く帰って弟さんを安心させてあげるといいわ」


 ラナの優しい笑顔に心が癒される。両親が亡くなってから、こんなに安らぎを感じた事があっただろうか。

 それにどういう訳か、彼女の作った料理に既視感を覚えた。初めて食べた「豚汁」に、田舎に帰ったような妙な懐かしさを感じたのだ。


 料理の腕が認められ、宿木亭での採用が決まって家に帰ると、あの老紳士と再会した。

 お陰で採用が決まったと伝えると、「ここからでは通勤が大変だろう、宿近くの川沿いに空き部屋があるから、君達に貸してあげよう」と申し出てくれた。

 老紳士は「宿木亭」を知っていたようだ。

 引っ越しは当分先になると思っていた俺は突然の事に驚き、考えを巡らせた。

 身元のしっかりした人だとはわかっているが、あまりに都合の良すぎる話にやや警戒する。

 しかしこのままでは徒歩での通勤は厳しく、距離がありすぎてタキの様子を見に戻る事が出来ない。それは困る。

 両親の想い出の詰まった家を離れるのはタキにとって辛い事かもしれないが、背に腹は代えられない。老紳士が馬車で引っ越しを手伝ってくれるというので、好意に甘えてすぐに引っ越しを決断した。

 環境が変わると、タキは少し回復の兆しが見えてきた。

 暗く沈んでいた人生が好転する予感。

 その日俺は、五年間頑張ってきたご褒美を神様からもらった気分だった。

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