115・戸惑い
「殿下、お急ぎください。午後の授業が始まってしまいますよ」
「わかってる。どうせ午後からは剣術だ。少しくらい遅れても大丈夫なように、リアムを置いてきたから心配するな」
「そうですか……しかしそれは大丈夫とは言いません。近頃、殿下が楽しげに過ごされているのは喜ばしい事ではありますが……」
「ああ、楽しいな。身分に囚われず気安く話せる友人が二人も出来たし、それに何より……フッ……。いや、そうだヴィレム、お前の分もおにぎりを貰ってきたんだ。腹が減った。学校に着くまでに腹ごしらえしよう」
「では、私用で殿下の身代わりをやらされたリアムの為にも、急ぎ学校へ戻りましょう。ところで、おにぎりの中身はなんです?」
「さあ? 聞いてこなかった」
馬車の前には何故か、常にウィルの側に付いているはずの従者のヴィレムが居た。私のいる場所からでは距離があり、彼らの声は風に乗って微かに聞こえるのみで、二人がすぐに馬車に乗り込んでしまった事もあり、会話はほとんど聞き取る事は出来なかった。けれど、こちらを向いているヴィレムの言葉だけは、少しだけ読唇術で読み取る事が出来た。
馬車は二人を乗せるとすぐに走り去ってしまい、結局冷蔵庫のお礼を伝える事もできずに、私は呆然とその場に立ち尽くしていた。
「どういう事? 今……間違いなく、彼を殿下と呼んだわ……」
彼はフレッドという名の、ウィルフレッド殿下に良く似た影武者なのではなかったの?
確かに二人はあまりに似過ぎている。そう思っていたけれど、リアム様は彼の事も自分と同じ影武者だと、あの時私にハッキリそう言った。あれは嘘だったの?
リアム様の話を聞く前に、二人共影武者なのだと先に勘違いをしたのは、私だったかもしれない。
でも、それを訂正する機会はいくらでもあったはずでしょう? なのに、わざと勘違いさせたままにしていたのね。
夜会の時も、出席するのは殿下ではなくフレッドの方だと前置きして、同一人物だと悟らせないように手を打っていた。
お陰で会話が噛み合わないなんて事にもならなくて、こっちはすっかり騙されてしまった。
彼が本当にウィルだとしたら、彼らは私を信用していると言いながら、実はそうではなかったと言う事になる。
一度は血の誓約までしたのに、あんまりだわ。
思い起こしてみれば、あの夜会の日のフレドリック殿下に対する彼の振る舞いは、いくら影武者として忠実に主の行動を真似ていたとしても、王子に暴力を振るうなんて、さすがに本人でなければありえない事だった。
私はどこかで彼に違和感を覚えていたのに、それを打ち消してまで別人だと思い込もうとしていたのだ。
でもそれは、彼らを信じていたからよ。
ウィルフレッドだから、愛称はウィルで、偽名がフレッド。
気付いてしまえば、何て安易な偽名なのかしら。
王太子という立場にある人が、無用心にも護衛も付けず、週末の度に一般の宿に宿泊しているなんて事、誰にも知られる訳にはいかないでしょう。だから、協力者となった私にまで内緒にするのも、仕方の無い事だとは理解できる……。
私も素性を隠している手前、彼らに何も言えないけれど、先ほどのあれを見なかった事にして、今まで通りに接する事ができるのか、今はちょっと自信が無い。
幸いなことに、次に彼が宿へ泊まりに来るまで猶予があるから、なんとかその間に心の整理をしなければならないわ。
折角仲良くなったフレッドという人は、本当はこの世に存在しないという事実を知って、とても悲しい気分だけれど、それを知った時点で、私の中からフレッドという人は消えてしまった。
あなたはウィルフレッド・ティンバーレイク王太子殿下だった。思い出の中の大好きな幼馴染で、私の初恋の相手。でももう深く関わる事はない方。あなたは王太子で、この国の次期国王となるのだから。
対して私は、表向きは公爵家を追われた身で、この先貴族社会に戻るつもりもないのだもの。
これと同じむなしい思いをあなたにもさせてしまう位なら、何としても私は自分の素性を隠し通さなければならない。私はエレイン・ノリスという名を捨てて、宿屋の女将ラナとして生きる道を選んだのだから。
ウィル、あなたは何のためにうちの宿に泊まりに来ているの? 一人の護衛も付けず、週末のたびに来るなんて、もしもあなたの命を狙う者がいたとしたら、行動が予測できてとても危険な行為だと思うわ。
それとも、今でも王宮に居る方が危険なのかしら? ここがあなたにとってのシェルターになっているのなら、私は週末だけでもその危険から遠ざけてあげたい。
あなたに悪意を持った人間が、この宿の周囲に近付く事も出来ないように、結界だって張ってみせるわ。子供の頃は無理だったけれど、今の私には、あなたを護れるだけの力がある。
昔、あなたは私の身を案じて子供なりに出来る限りの手を打ってくれた。今度は私が、陰ながらあなたの助けになるわ。
そうそう、私に相談も無く勝手に記憶を消した事は、おじい様とウィルにはいつか絶対に謝ってもらうわよ。
それからどうやって宿に戻ったのか覚えていないけれど、私はいつのまにか宿の入り口の前に立っていた。
そこでボーっとしていると、ドアが開き、誰かが出て来て私に声をかけた。
「お、ラナちゃん、出かけてたのかい? 今日も美味しかったよ」
食事を済ませたお客様に声をかけられ、ハッとして我に返った私は、反射的に笑顔を作り、お得意様に挨拶を返した。
「いつもありがとうございます。また来てくださいね」
「勿論さ。じゃあ、また明日来るよ」
にこやかにお客様を見送り、私はそのまま宿に入った。
そして厨房へ行くと、シンが休憩室にも行かずに、丸椅子に座って賄いを食べていた。
「おう、おかえり。フレッド様には会えたのか?」
シンにそう聞かれた私は、曖昧に微笑みながらフルフルと首を横に振った。
先ほど知った事実は私の胸の内に留めておかなくてはならない。
彼が王子の影武者だと偽っていた事すら知らないシン達には、何も知らせる事は出来ないし、気付かせてもいけないだろう。
きっとシンとタキは、フレッド様の事を訳ありの貴族だと思っている。だから気楽にお話したり、魔法の使い方を教えてと頼んだり、宿の部屋に泊まらせてもらったりもしているのだ。
相手が貴族であろうと物怖じしない彼らだからこそ、急速に仲良くなれたのでしょうけど、実は王子だったと知ればどうなってしまうのか……。
あら? 案外何も変わらず、今まで通り友達の様に付き合い続けるかもしれない。なんと言ってもあの二人は、フレドリック殿下が来たときも、王子だと知っていたにも拘らず、臆する事無く対応したくらいだから。
私が黙っていると、シンは慰めの言葉をかけてくれた。追いつけなかった私がシュンとして落ち込んでいるように見えたようだ。
「まあ、それもそうか。向こうも急いでいたみたいだし、お前の足で追いつくのは無理だよな。そう落ち込まなくても、また週末になれば泊まりに来るんだし、その時にでも礼を伝えればいい」
「……そうね。そうするわ。ところで、シンはどうしてそんなところで食べているの?」
「いや別に……あれだよ、追加が必要になった時の為にだな……」
「あ……そうかごめんなさい。私のせいね。もう休憩室に行っていいわよ。ここじゃ落ち着かないでしょう?」
私がすぐに戻らなかったせいで、シンは厨房を無人にしないために、賄いをここで済ませる破目になってしまったようだ。
お礼を伝えてすぐに帰ってくるつもりだったのに、考え事をしながら歩いていたら、結構な時間が過ぎてしまっていた。
「いいって。ほらもう食い終わったし、今更向こうに行くのは面倒くせーよ。それで、お前の体は大丈夫なのか? 前に聞いてた二人を浄化してきたんだろ?」
なるほど。シンは私の体調を心配して、それを聞きたくてここで待っていたようだ。まるでついでの様な言い方だけど、私が過労で死にかけた時、側で見ていたからこそ不安になるのだろう。
それでも私を見守り、良き相談相手となって、ハラハラしながらも私のやりたいようにやらせてくれる彼には、感謝してもしきれない。
「ありがと、シン。私なら大丈夫よ。前回は死にそうな目に合ってしまったものね。この通り、きちんと女神の加護が効いているみたい。そういえば、教会に行ってみたら、浄化の必要な人が一人増えていたの」
私が大丈夫だと伝えると、シンは緊張が解けたのか、その瞬間にふっと表情が柔らかくなった。
「マジか。それ、例のカラクリに気が付いて、聖女が自分の意思でやってるんじゃないだろうな」
「……まさか……もしそうなら、神殿は今頃大変な事になっているわよ」
もしもシンの言う通りに、サンドラが羨ましいと思った相手から、自分の意思でその美貌や能力を盗み取る事が出来ると気付いてしまったら、神殿内は被害者で溢れてしまうだろう。まだそこまで被害は広がっていないようだし、そこは大丈夫だと思うけれど。
「失敗したわ……聖女には、身の回りの世話をする者以外との接触をさせないよう伝えてくるべきだったかもしれない。まだ神官長様は教会にいらっしゃるかしら」
私がバッとドアの方に目を向けると、シンは私の腕を掴んで引き止めた。
「待て。そのままで教会に顔を出すつもりか? 向こうには全てを知っているイリナ様だっているんだ、こっちがそこまで気を揉む必要はないだろ」
「あ……そうよね。そうだったわ」
冷静になって考えてみれば、巫女のイリナ様には全てを話しているのだから、サンドラへの対処法も考えてくれているだろう。今日、私の方から直接神官長に、巫女や神官見習いに聖女の世話をさせないよう言ってきたのだから、あちらで話し合って被害を食い止めてくれると信じよう。
「じゃあ次は、元凶の妖精を浄化しないとな。どうやって神殿に潜入するつもりだ?」
「あ、それはね、聖女の世話係を何の力も持たない平民女性にするようお願いしてきたの。私をその一人として雇ってもらえるよう、イリナ様に推薦していただこうと思っているわ」
「神殿側が、要望通りにしてくれると良いんだけどな」
「そこは、神官長様を信じるしかないわね」




