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2018/1/13に、葵の姉の名前を薫に変更致しました。わかりづらくて申し訳ありませんが、ご了承願います。
長かった講義が終わって、葵はふぅーっと体を伸ばしながらかばんの中からスマホを取り出すと、新規メッセージが届いていた。
メッセージは、二つ歳上の姉である薫からのものだった。
薫は今年の三月に専門学校を卒業し、四月から葵の大学から二駅ほど離れた製菓会社に勤めている。昔からお菓子作りが好きで、葵と誠のおやつはたいてい薫の手作りだった。
お菓子類をあまり食べない誠も、薫の手作りのものはよく食べていた。
メッセージは、今夜試作品を持っていくから試食して感想をきかせてほしいというものだった。
葵は、自分とは違った女性らしさを持った美人な姉が憧れであり大好きであったが、今はあまり顔を合わせたくない理由があった。
しかし、断る理由も思い付かず、了承の返事を送っておいた。
(…お姉ちゃんのことも、誠のことも、徐々にいつも通りにできるようにしていかないと…)
また誠のことを考えてしまいそうになったので、はやく脳内を切り換えなくてはと小さく首を横に振った。
講義に使用したレジュメと筆記用具を片付け、かばんにいれたところで、葵はふと視線を感じて、反射的にそちらの方向をみてしまった。
(えっ、誠がこっち見てる…!?)
講義はまだ終わったばかりで、誠は葵の席とは対角線上の一番遠い席付近にいたのだが、視線はこちらを向いているように思える。
(っていうか、なんか近づいてきてる!?)
いつも気付かれないように、一番遠い席に座っていたというのに、この距離でも気付かれてしまったのだろうか。
そう思っている間にも、誠は長い足でずんずんとこちら側に向かってくる。
(…いや、まだ顔合わすのは気まずい!)
そう思った葵は、とっさに隣にいた咲の腕をつかんだ。
「咲!はやく行かないと限定ランチが売り切れるかもしれない!はやく学食行かなくちゃ!」
「…えっ、なに?急にどうしたの!?」
「とにかくはやく行こう!ね!」
突然急ぎだした葵に咲は不信感を抱いたが、朝から講義詰めですっかり空腹を感じていたので、葵に引かれるまま後ろ側の扉から教室を出た。
(さすがに、今のは不自然に避けすぎたかな?)
しかし、もう行動してしまったのでどうしようもない。
葵は開き直って、右手で咲の腕をつかんだまま理学部棟の入口を目指してを早足で歩いていたところで、反対側の腕をがしりと捕まれた感覚がした。
明らかに、咲のものではない感触に嫌な予感がしたが、その手の主から発せられた声で確信に変わってしまった。
「葵。ちょっと待って。」
淡々とした抑揚のない話し方は葵のよく知っているものであったが、その口調とは裏腹に捕まれた腕はびくともしないほど力強く握られていた。
こうなってしまった以上、もう逃げるのは無理だと悟った葵は、ゆっくりと声の方へと振り返った。
「……どうしたの、誠?なにか用?」
三週間ぶりに会った幼馴染に対して、いささか冷たいともとれる態度だったが、誠はいつも通りの無表情のまま話を続けた。
「俺、今日バイト深夜まであるから。」
「…は?」
誠の言っていることが何を示しているのかまったく理解できなかった葵は、心の声がそのまま漏れてしまった。
三週間ぶりにずっと避けていた相手からどんな発言をされるかと、気を張っていた葵は拍子抜けした。
この間の合鍵の件といい、最近の誠の発言の意図するところが葵にはまったくわからない。
(この前から、こいつ一体どうしちゃったのよ。)
今までは、口数の少ない誠の真意を一番理解できるのはきっと葵だった。
賢いくせに、相手がどう理解するかなどお構いなしで自分の言いたいことだけを淡々と話す誠は、人から誤解されることが多かったが、葵だけは長年の付き合いから誠がどう思ってその発言をしているのか理解できた。
でも最近の誠の発言は、葵にとって不可解なものばかりである。
いつまでたっても誠の言いたいことがわからない葵は、無言で誠をじっと見つめて続きを促した。
そんな葵を見た誠は、少し目を見開き、無意識に葵の腕を掴む手をさらにぎゅっと握った。
しかし、とっさに目線を反らしてポツリと呟いた。
「来るんでしょ、薫さん。伝えておいて。」
そう口にした誠はパッと葵の腕を離してから、くるりと先程歩いてきた方向に戻っていってしまった。
いきなり離された葵の左腕は、所在なさげに宙をおよぐ。
(………ああ、そういうこと、か…。)
薫の名前が出たことで、葵のなかで誠の言葉がつながって、意味を持った。
頭ではわかっていても心の整理がすぐに出来ず、葵はそのままの姿で立ち尽くしてしまった。
一部始終を隣でみていた咲は、なんとなく最近の葵の様子がおかしい原因が先程現れた男にあることがわかってしまった。
しかし、本人が茫然自失のいま深くつっこんではいけないだろうと思い、わざとらしく葵の腕を引っ張って見せた。
「ほら!限定ランチ食べたいんでしょ?はやく行かなきゃ!」
「…あっ、うん、そうだね。」
先程までとは逆に、葵は咲に引っ張られるまま食堂へと向かった。
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学食の限定ランチは、ワンコインでサラダとメイン料理とデザートがつくお得なセットで、一日限定50食であることから、学生たちの間では争奪戦が繰り広げられていた。
売り切れ寸前で駆け込んだ葵と咲は、戦利品を持ちながらテラス席へと座った。
今日のメイン料理はカニクリームコロッケであり、大好物を前に葵は少し元気を取り戻した。
「咲のおかげで限定ランチにありつけたよー。本当ありがとう。」
「葵ちゃんが言い出したくせに、またぼんやりしてるんだもん。代わりに必死になっちゃったよ。」
「ごめん、ごめん。お詫びのしるしにデザート献上させていただきます!」
そういいながら、葵はデザートのプリンを咲のトレイにのせようとしたが、咲の手に阻まれた。
「私は葵ちゃんとは違って、甘いもの食べ過ぎるとすぐ太っちゃうの!だから、他のことで穴埋めしてもらいます。」
「えっ!?カニクリームコロッケだけは絶対嫌だよ!?」
「……いらないよ。私の質問に正直に答えてくれれば、それでいいよ。」
咲は可愛らしい顔でニヤリと悪い笑みをつくった。
その顔をみた葵は自分にとって都合が悪いことを聞いてくることがわかり、息をのんで咲の言葉を待った。
「さっきの男の子は葵ちゃんにとって、どんな存在なの?」
葵はあらかた予想通りの質問内容であったことに、ため息をつきたくなるのを我慢した。
(やっぱり、さっきのやりとり見られてて、スルーは出来ないよね。)
しかも、この聞き方をされてしまったら、曖昧にはぐらかすことも出来ない。
(…どんな存在、か。)
言い回しも絶妙なもので、関係性だけを答えればいいわけじゃないようだ。
いつもなら葵が聞かれたくない素振りをみせれば、大抵のことは見ないふりをしてくれる咲に、正直ここまでつっこまれるとは思っていなかった。だからこそ、咲が好奇心でこんな質問をしてきたわけじゃないことを葵はわかっていた。
咲もまた、自分に心配をかけないように葵が懸命に明るく振る舞っていることをよくわかっていたが、それでも咲はこのまま見ないふりをするよりもちゃんと話を聞く方が、葵のためになるんじゃないかと考えていた。
ここで曖昧にはぐらかしてしまったら、葵に話すきっかけを作ってくれた咲の好意を無駄にすることになるが、今の葵にはその質問の正直な答えを口に出すことが出来なかった。
(…私と誠は、ただの幼馴染でいなくちゃいけない。)
そのためには、葵の心の底でくすぶっているこの想いをはやくなかったことにしなくてはならない。
自分からこの想いの存在を口に出して認めてしまったら、きっとすべてが溢れ出して、もう取り返しのつかないことになってしまう。
はやく、なかったことにしなければ…
きれいさっぱり消してしまわないと…
そうして、また思考の海に堕ちていく葵をみていた咲は、これ以上は逆に追い詰めてしまうことを悟り、静かに口を開いた。
「別に今じゃなくてもいいよ。葵ちゃんがどんな思いでいるのか、話せるときまで待ってるから。」
葵は咲のやわらかい笑みをみて、涙が溢れそうになったが、ぐっと我慢して大きく頷いた。




