占い師は月の夢を見る2
『拝啓 落木部玲様
晩秋ですね。いかがお過ごしですか。こうして手紙を送るのは何度目になるでしょうか。一向に返事をいただけないので、僕も少し困っています。
駅で待っていてもまったく声をかけてくれないので、僕のことを覚えていないのでしょうか? だとしたら、悲しいことです。もしかしたら僕のアプローチが弱いのかもしれませんね。これからはもっと積極的にいこうと思います。そうすれば、玲ちゃんもきっと僕の気持ちに気づいてくれますよね?
さて、今日は玲ちゃんの今週の運勢を教えようと思います。2月10日生まれの玲さんは、水瓶座ですね。水瓶座は今週、あまりよくないことが起こるでしょう。できるだけ周囲に気を配るようにして、危機意識を持ってください。それと血液型の方もあわせて。玲さんはB型ですね。B型は、災難に見舞われるかもしれないです。上に書いたことも踏まえて、この一週間は常に危機に晒されているということを自覚して』
「恐い恐い恐い! 無理! もう無理っ!」
読んでいる途中で、ももこさんが手紙をぐしゃぐしゃに丸めてしまった。
「あっ! ももこちゃん、なんてことをするんですか! せっかく読んでる途中なのに!」
「そんな真剣に読むものじゃないでしょ! 初めて見たわ、こんなストーカーのお手本みたいな文!」
無残に丸められテーブルの上に転がる紙を指差し、ももこさんは怒鳴り散らしていた。
客足が落ち着いたところで、僕と玲さんとももこさんは、フロアのテーブルを一つ囲んで対策会議を開いていた。無論、玲さんのストーカーに対して。しかし被害者本人はストーカー被害に遭っているという自覚が薄く、僕とももこさんの声もしっかり届いている気がしない。なんとか自身の危機を認めたとはいえ、玲さんの中の危機意識はあまりにも小さい。これをどうにかしなければとは思うが、僕たちがどんなに言っても、持ち前の明るさが邪魔をしている。こういう天真爛漫さが魅力であるわけだが、それも状況次第では悩みの種になるらしい。
「別にももこさん宛てのものじゃないじゃないですか。落ち着いてくださいよ」
「玲宛てってことはほぼあたし宛てだから! 落ち着いていられるわけないでしょ!」
何を言っているのかよくわからないが、きっとそれだけももこさんも心配しているということだろう。
とはいえ、ももこさんのよく通る声は店の中にこだまして、まばらに残るお客さんの視線が冷たい温度でその発信源に向けられていた。それが刺さったのか、振り向かずに瞳を右へ左へと移ろわせてから、ばつが悪そうに腰を下ろした。
「ていうか、あんたこそなんで落ち着いてんのよ。なんで落ち着いていられるのよ」
ももこさんが湿った視線を送ってくる。二回繰り返したのは、たぶん僕の玲さんへの気持ちを知っているがゆえだと思う。
「いや……なんというか、こんなことになるとは思っていなかったので、逆にというか」
僕は本心を言った。ももこさんとともに玲さんを諭しておいて、僕は自分でも驚くくらい落ち着いていた。もちろん不安がないわけではない。もしかすると、玲さんの意に介さない様子が僕の実感を抑制しているのかもしれない。もしくは、玲さんの誕生日や血液型に気を取られているせいかも。
「へぇ、あっそ。パンピーねパンピー。平和で暢気に平凡な人生を送ってきたのね」
「……アイドルの自分を差し置いてアイドルじゃない玲さんがこんな手紙もらっちゃったからって、妬くことないですよ」
「余計なお世話だわ! いらんわこんな手紙! 気持ち悪っ!」
紅潮しているところを見ると、案外図星だったらしい。
ももこさんは僕を目一杯睨みつけてから、また浴びせられた周囲の冷ややかな視線に意識を散らされ、ひとつ大きな息を吐いた。僕は丸められた紙を破れないように気をつけながら広げる。
「ったく。しかしまあ、よくもこんな気持ち悪いもの書けるわね。ストーカーの分際で何注意喚起なんかしてんのよ、。むしろあんたが危機の権化だわ」
「しかもこれ、文面が思ってたストーカーと随分違う気がしますね。ここに書かれてることって本当なんですか?」
「玲が危機に晒されてるってこと?」
「んなわけないじゃないですか。誕生日とか血液型とか、あってるのかなと思って」
もしあっているのなら、それはそれで問題だが、これを送ってきた人物はかなり限定することができるだろう。というのは大義名分で、実のところ玲さんについて知りたいがためだったりして。
ももこさんは僕の質問を訝しむこともなく、それでいて答えることもなく、僕の視線を受け流すように玲さんを見た。
「まあ、本当ですね」
玲さんがあまりにも何の気なしに言うので、欲望に忠実な自分が恥ずかしくなった。そして僕が知り得る玲さんの基本情報が増えた喜びよりも、不審な胸のざわめきの方が大きくなった。恐らくだが、僕の知らないところで何かが蠢いている気がした。
「そこまで知ってるって、玲の知りあい?」
ももこさんが手紙を汚そうにつまみあげながら言った。
「いや、知りあいではないですね。お店に来たり駅で見かけたりするだけで、特に親しいわけではないです」
「でも、何通も渡してきたんですよね? 他の手紙にはどんなことが?」
僕が聞くと、玲さんは腕を組んで斜め上を見た。
「んー、まあ大体占いですね。誕生日、星座、血液型、それと年齢とか住んでるところでも占ってくれて。そういう情報がみんな正しいうえに、これが結構当たるんですよ」
玲さんがつらつらと言葉を並べ立てる度に、ももこさんの顔が嫌悪感に満ちていった。
「まあ、当たってはいるわね」
その顔のまま持った紙を揺らしてみせる。
「占い師か何かなんですかね」
「知らないわよ。ていうかどうでもいいわ。犯罪者でしょこんなの」
辛辣に言い放って、ももこさんは紙を離した。くしゃくしゃな紙が羽毛のようにゆらゆらとテーブルに着地する。
「そんな感じには見えないんですけどねぇ……」
玲さんがまた能天気なことを言い出した。
「そりゃ玲から見れば誰だって善人でしょうよ」
「ももこちゃん、それ褒めてます?」
「バカにしてる」
「だと思いましたよ! 今のは私でもわかりましたよ! そういうのよくないですよ!」
「こんなことまでされて、けろっとしてるあんたが変なのよ。もっと危機感持ちなさいよ」
少しだけ空気が凍った。ももこさんは自分の語気が強かったことを一拍おいて気がついたらしく、すぐに「ごめん……」と一言置いた。それに玲さんも苦笑しながら「いえいえ」と返した。
それだけももこさんも、玲さんのことを気にかけている。当たり前だ。悔しいがこの手紙に書いてあるとおり、今はまさに玲さんの危機なのだから。だからこそ、玲さんの反応が解せない。僕でも感じているその違和感を、ももこさんは自分の中で消化できていない。何故外野の僕たちがこんなに気を揉んでいるのに、当事者は平然としているのか、と。
「とりあえず、ここからエスカレートしていくのはまずいですよね」
僕は解け始めた空気に熱を送るつもりで、話をもとに戻す。
玲さん本人の話が正しいなら、玲さんはたぶんかなりの情報を向こうに握られてしまっている。それで実際駅で待ち伏せされ、職場に来て手紙まで渡しているのだから、他人が決して踏み入ることのない生活圏のかなり奥まで踏み込まれてしまっているのは間違いない。接触してきたとなれば、素人な僕でさえ次にやることは大体想像がつく。その想像を現実にしてしまわないために、何かしらの策が必要だった。
「させないわよ、そんなこと」
ももこさんは当然のように言うが、
「そう簡単にいかないですよ。もうすでに僕たちが後手後手なんですから」
「……まあ……」
玲さんの危機感のなさは、対策をするという上でもやはり影響してくる。もう少し気がつくのが早ければ――偶発的に判明するのではなく、玲さんからあらかじめ相談されていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。疎んじるわけではないが、正直僕は、常識の少し外側を歩く玲さんが、どうしてこちら側にいてくれなかったのかと思ってしまった。他でもない玲さん自身のことなのに、その玲さんが解決の足枷になっていることは事実だった。
しばらく無言の時間があってから、僕は今のところ最善であろう策を提案する。
「とりあえず、店長に相談してみますか。もしかしたら警察沙汰になるかもしれないですし、ひとまず店長に言って――」
「ダメです」
純然たる否定の言葉が降りかかって、それ以上言えなかった。
それを発した玲さんは、見開いた目で僕を見つめていた。言った自分自身に驚いていることは一目瞭然だった。でもその表情には、驚きだけではなく、別の何かが混ざっていた。いつも朗らかな玲さんは、ただ驚いただけではこんな顔はしない。僕の少ない経験がそれを必死に訴えていた。
「ダメって、何がです?」
つい詰問調になってしまう。
玲さんはその複雑な表情を引っ込めると、玲さんらしくない、取ってつけたようなぎこちない笑みを顔に貼りつけた。
「そんな大事じゃないですよ。私たちだけで十分対処できると思います。だから店長とか警察とか、頼る必要ないですよ」
「いや、でもこれはれっきとした犯罪で……」
「いらないんですってば。本当に。これは私の問題だから」
その繕った笑みも、いつの間にか剥がれ落ちていた。
わずかに怒気を孕んだ玲さんの声音。僕を萎縮させるにはそれで十分だった。僕の中の玲さんと目の前にいる玲さんが別人のような気がして、戸惑った。それ以上に、初めて彼女に敵意じみたものを向けられたことがショックでたまらなかった。
どうしてそんな顔を僕に向けるんですか?
なんて疑問が浮かんでくるくらいには、僕は玲さんのことを何も知らなかった。玲さんも人だ。そんな一面くらいある。それはどこかでわかっていて、それでも目の前で起きた現実を受け入れたくなかった。
「あ、えっと……。ごめんなさい、私……」
玲さんが慌てて取り繕う。僕は「いえ……」とだけ返して、玲さんから目を逸らした。
二人で切り盛りしてきたこともあって、世話になった店長に余計な心配をかけたくないのだろう。大いに理解できる。正当な理由だ。しかしそれだけの理由で、あの玲さんが、いつもにこやかで溌剌としている玲さんが、あんな剣幕で感情をあらわにするなんて考えられなかった。むしろ考えようによっては、頼れる唯一の存在なのだから相談のひとつもしてみればいいとさえ思えた。
しかし、僕の胸で疼くこの痛みは、もっと根源的なところから生まれていた。
玲さんは、僕にはいつでも笑顔でいてくれると思っていた。後輩である僕への配慮を忘れることなく、心配してくれる玲さんは、いつでも僕に優しい言葉をかけてくれると信じ込んでいた。慢心だ。そんな都合のいい存在がどこにいる。それもわかっているのに、胸を抉られたような痛みが消えない。玲さんのことを好きになっていなければ、こんなことで苦しまずに済んだのだろうか。
「とりあえず」
僕と玲さんの間の凝固しかけた空気に、ももこさんが一石を投じた。
「何か対策しなきゃいけないんでしょ。このまま黙ってても分が悪くなるだけだし」
そっぽを向きながらまともな意見を口にする。
「で、あたし考えたんだけどさ、今」
そこでようやく、ももこさんは僕たちの方を向いた。というより、僕を見た。
「あんたが、玲を家まで送っていけばいいのよ」
「は?」
「え?」
僕も玲さんも、ほぼ同時に同じニュアンスの声を上げた。
「だから、ボディーガード。あんた玲と同じ駅なんでしょ? だから今日から、帰る時は玲と一緒に帰って、家まで送り届ければいいのよ」
「あの……え?」
流暢に何を言っているんだこの人は、という感想が第一にあって、僕はそこから、急に湧きあがってきた胸のざわつきを鎮めようと試みる。
「いや、僕と玲さん、終わる時間全然違いますし……」
「そんなのシフトの調整でどうにでもなるでしょ。ていうか、終わる時間が違うならどっちかが待ってればいいでしょ。客も来ないし、適度に邪魔にならないところで」
それは一理ある。と感心しそうになって、脳に鞭を打った。
「いや。いやいやいや、それは流石に……」
「何よ? あんたもしかして、ストーカーに追われる身のか弱い女の子を放って、見て見ぬふりをしながら一人安全に帰宅するわけ? いつ、どこで襲われてもおかしくない状況なのに?」
「……」
まくし立てられることで、僕の中の罪悪感の種に水をやって芽を出させようとしていた。問答無用で言うことを聞かせるつもりだ。
「ね、玲? あんたもそれがいいと思うでしょ?」
当の人物の名前が聞こえて、はっとする。
聞かれて、玲さんは一度ももこさんを見てから、ちらっと僕を一瞥した。
「いや、でもそんな大したことじゃ……」
「あたしはいいのかダメなのかだけ聞きたいの。早く答えて」
二者択一に狭められてしまった玲さんの顔には、困惑が滲み出ていた。
それが、僕の胸でしこりになった。
きっと僕は、どこかで玲さんが快く頷いてくれるのを待っていた。そうしてまた僕に笑顔を向けてくれるのを期待していて、そうすれば僕も「一緒に帰る」なんて素晴らしいイベントを素晴らしいイベントとして受け入れることができたのに。玲さんの顔がどこまでも曇っていて、そんなイベントが先の見えない霧に変わってしまった。そうしたいが、そうしたくない。板挟み状態。ただ頷くだけなのに、どうしてそんなに困った顔をするんだろう。そう思うのもまた思い上がりだというのはわかっている。わかっているのに、僕の思いどおりにならないことがこんなにも、もどかしい。
「わかりました」
玲さんが意を決したように呟いた。
「つまり?」
「潤さんにお願いします」
その言葉が、僕の心を浮かせた。でも、思っていたよりずっと小さな浮かび方だった。いつもなら浮かびすぎて戸惑うところが、今回は少し跳ねる程度だった。
「いいんですか?」
僕が儀礼的な確認をすると、
「はい」
玲さんは一層ぎこちない、口角を紐で吊るしているような笑みを浮かべた。
その真意が見えなかった。どうしてこうも時間を経て、承諾したのか、まだ浅はかな僕には見当もつかなかった。
「じゃあ、そういうことで」
ももこさんが荷物を持って立ち上がった。
「帰るんですか?」
「人気者は忙しいのよ」
ももこさんの視線を追うと、カーテンの向こうがオレンジ色に染まっていた。
「じゃ、玲のことよろしくね。投げ出すんじゃないわよ」
玲さんのためか僕のためかわからない調子で言い残し、ももこさんは早足に店を出ていった。そして残された僕たちの間に、沈黙という名の悪魔が舞い降りた。
玲さんは浮かない顔で、少し俯きながら目を泳がせている。一方の僕も、玲さんとの間に何か見えない壁がある気がして、話しかけられない。
「……私、お店の外掃除してきますね」
突然立ち上がった玲さんは、ここから、というより僕から逃げるようにして、店の外に向かう。
僕はそれを止められなかった。あくまでも仕事で、止めるわけにもいかないのだろうけど、止めたかった。このままこの空気を持ち越してしまうのが恐い。もうもとに戻れないのではないか、とさえ思えてくる。
ようやく僕の中で、このあと玲さんと一緒に帰ることが意味を持ち始めた。それは玲さん本位であり、僕本位とも言えるような意味。もしかするとももこさんも、こういうことを見越して僕にボディーガードを提案したのかもしれない。もしそうなら、ももこさんは今後一切敵に回したくない。
この日は僕が遅番だったので、結果的に僕が玲さんを待たせることになってしまった。
店長には「玲はなんで帰らないの?」と答えに困る質問を何度かされたが、「最近家の最寄り駅のあたりで不審者情報があったので、ももこさんに玲さんを護衛するよう頼まれたんです」と半分事実みたいな返しをしてなんとか隠し果せた。玲さんを大切に思っているがゆえなのか「どうしてアタシに頼まないのよ」と少し憤慨していたが、僕もそうするべきだと思う。店長が傍にいれば物の怪でさえ怯え逃げ出すだろう。とはいえ、玲さんがストーカー被害にあっているということは、本人の意向どおり店長には伝わっていない。
そして、ももこさんが帰ったあとの仕事中も、玲さんが僕を待っている間も、僕たちは言葉を交わすことはなかった。
正確には、交わせなかった。なけなしの勇気を振り絞って僕が話しかけようとしても、玲さんは何かにつけてのらりくらりとかわしてしまう。それが何度か続いたところで、僕はもう無理に話しかけるのはやめた。どうせ帰りは一緒だし、嫌でも話さなければならない状況はある。僕はそこに懸けることにした。少し逃げ腰が入ってしまってはいるが。
玲さんはももこさんが好んで座っていた隅の席で、肘をつきながら呆然と店の外を見ていた。店の外灯がうっすらと冬の澄んだ闇を照らしているところを、動かずにただひたすら見ている。彼女の手もとにあるコップが空になったのを見計らって水を注ぎにいっても、玲さんは僕を一度見て、ばつが悪そうに目を逸らし、会釈をするだけ。店長の計らいで軽い食事を持っていった時も、同じように僕を見てから会釈をするだけだった。
客がいないものだから、どうしても店内が静寂に包まれる。仕事もあまりないし、少しでも静寂によるもどかしさを緩和しようとして玲さんを見ると、いつもの溌剌とした表情のかわりに、静謐で透きとおるような儚い表情があって、見る度に僕の胸が少し跳ねた。しかし同時に、その表情は僕が作り出してしまったものなのだと思い返すと、どうしても心が寂しくなった。玲さんの目には一瞬も僕が映っていなかった。
「潤ちゃん、上がっていいわよ」
店長が厨房から身を乗り出しながら言った。
僕は返事をしてからカウンターを出て、玲さんのテーブルへ向かう。
「終わりました。着替えてきますね」
「はい」
素っ気ない返事を受け取って、僕はまたすぐ会えるのに名残惜しさを感じながら、厨房の裏にあるロッカーに向かった。二段で上下四つずつある扉の、上段の左から二番目が僕のロッカーということになっている。まあ人数が人数なので、特に決められているわけではないが。
玲さんお手製の制服をハンガーにかけ、普段着に着替え、リュックを持って、厨房にいる店長に「お疲れさまです」と伝えてから、フロアに出る。玲さんはドアの前で待っていた。陰鬱な影を落とす黄玉のような瞳が僕をちらりと見た。服装はあのメイド服のまま、ワインレッドのクロークをその上に羽織っている。以前、仕事の日は家を出てから帰るまでメイド服が基本と言っていた。ポリシーを曲げないところがまた玲さんらしい。
「お待たせしました」
「いえ」
淡白な答えが、僕の心には重くのしかかった。
僕の顔も、玲さんの顔も、依然として曇っている。これから僕と帰ることを玲さんはどう思っているのだろうか。そもそもどうして一緒に帰ることを承諾してくれたのだろうか。そんなことばかりが頭を巡ってしまいそうになるので、僕は軽く太ももをつねった。
「じゃ、行きましょうか」
ぎこちないことは自覚しているが、それでも努めて声を明るくしながら、ドアを開けた。
「……あー」
そこで初めて、雨が視覚にも聴覚にも訴えてきた。
天気予報では雨が降るなんて聞いていなかったし、今の今まで降る気配もなかったのに、間が悪いというかなんというか。
「玲さん、傘持ってないですよね?」
玲さんが無言で頷く。
「僕、傘取ってきますね」
断ってから、小走りでロッカーに戻る。確か前に折りたたみ傘をロッカーに入れたまま忘れていたはずだ。そのまま新しく買ってしまったものがリュックの中に一つ入っているから、それがあれば事足りる。濡れて帰るのは精神的にくるものがある。今なんかは特に。
ロッカーを開け、制服の向こうに手を伸ばしてまさぐると、固いものがあった。引っ張り出すと、思ったとおり綺麗に畳まれた紺色の折りたたみ傘だった。僕は一安心して、制服に皺がつかないよう軽く整えてから、扉を閉める。
その時、焦っていたのか、思ったよりも力が入ってしまった。大きな音を立てて勢いよく閉まったと同時に、その振動で両隣のロッカーも少しだけ開いた。
二人を驚かせてしまったかな、と思いつつ、左隣を閉めて、右隣を閉めようとした時、中に薄くて白くて四角いものがいくつか散らばっているのが見えた。今の衝撃で崩してしまったのだろうか。僕は直そうと思って閉めかけた扉を開けた。途端に、中にあるものを見て後悔した。
フリルのついた白いエプロンが三着と、トートバッグにポーチが一つずつ。それだけで、誰のロッカーなのかは明らかだった。
やってしまった。開けてはいけない扉を開けてしまった。よりによってこんなタイミングで。本当に間が悪い。玲さんの前でどう取り繕おうとしても、こんなことをした僕の精神は動揺を隠せないだろう。
とりあえず、直すだけ直そう。もし疑われて、どうしたのかと聞かれたら、正直に言おう。故意ではないのだから、玲さんだってわかってくれるはずだ。そうしてその四角いものに手をかけようとして、気がつく。
「……?」
その薄くて白くて四角いものは、ロッカーの仕切りから下、恐らく靴を入れるであろうスペースに、大量にしまわれていた。僕が閉めた衝撃で崩れたのは間違いないが、思ったよりも多い。ニ、三十はある。それぞれが四つ折りにされていて、一番手前にあるものを手に取ると、中に何かが書かれていた。
そこで、僕は合点がいった。確認のため、慎重に開ける。
『拝啓 落木部玲様』
「……!」
手紙だった。今日僕たちが見ていた、ストーカーからの手紙。
それを置いて、別のものを開けても、同じ。また別のものも同じ。すべて玲さん宛て。それがこんなにも大量に、玲さんのロッカーに保管してある。予想を上回る数に、嫌悪よりも恐怖が先んじた。
見てはいけないものを見てしまった。いや、事実を確認できたことはよかった。しかしこれだけ渡されていたという事実は、見ない方がよかったのではないかという気さえしてくる。リアリティが増して、異様に足が竦んだ。
そうだ、これがストーカーだ。これだけのことをするのがストーカーなのだ。常識からは完全に逸脱した、一方的な好意の形。いや、これはもう好意と呼ぶにはあまりにも禍々しい。認めるわけにはいかない、社会にまかり通ってはならないもの。人間の負の感情がそこに溜まっている気がした。
これを見て、何故玲さんは飄々としていられた? 常識の外である行為は、同じく僕の常識の外である玲さんには通用しないとでもいうのだろうか?
とりあえず、何事もなかったかのように直して、明日以降ももこさんに相談しよう。これはもうすでに僕がすぐにどうこうできるような話ではない。場合によっては店長に言ってでもどうにかしなければ。その場しのぎの索を講じて解決できる範疇をとうに超えている。
手紙を再び崩れないよう注意しながら積み重ね、ロッカーの奥の方にしまう。そしてすぐに閉めようとするが、そこでまた、僕の目は見たくないものを捉えてしまった。
ポーチの陰に隠れて、もう一つ、四角いシルエットがあった。手紙だ。確実に同じもの。だが、ざらっとした感触が胸を撫でた。何故一枚だけ、目のつかない場所に隠されているのか。気になって、つい手を伸ばしてしまう。
特に変わったところはない、他のものと同じような手紙。だとすれば内容かと、僕は他のものと同じようにそれ開いた。
そこに書いてあるものが飛び込んできた瞬間、頭が一気に熱を帯びた。思いもしなかったところにその言葉を見つけて、ショートしかけたのかもしれない。
『……は妹さんも……』
他の情報は入ってこなかった。その部分だけが、僕の目を引いていた。
僕はゆっくりと手紙を閉じて、もとあった場所に戻す。そして扉を閉めて、手に傘があることを確認してまたフロアに出る。
玲さんが心を見透かすような目で僕を見ていた。僕も、玲さんの胸の内側を覗くつもりで、玲さんを見る。
「行きましょうか」
傘を玲さんに渡して、僕もリュックの中からもう一つ取り出し、店のドアを開けた。
雨脚はさっきよりもいくらか弱くなっていた。それでも、何もせず飛び出せば十分濡れてしまうくらいだ。地面に染み込んだ雨の匂いが、鼻を通って肺に充満する。懐かしかった。こんな風に雨の中を歩くのは、成長するにつれてめっきり減ってしまったように思う。自分から進んで雨に入るなどはなおさらだ。いつの間にか利害ばかりを考えるようになって、リスクの少ない道を選ぶようになっていた。
振り返ると、玲さんが店から出てくるところだった。傘を開くのを待って、濡れた道路に足を踏み出す。雨の匂いに慣れてくると、勇気が湧いてくるような気がした。




