3. 始まりの景色
“この世界の聖女”
そう言葉を紡いだ男の視線の先は、まっすぐに私の隣へ。
「聖女――セレスが、?」
驚きと疑問に満ちて思わずセレスの方を見やる。十七年間ともに暮らしてきた私の親友。髪や瞳の色はたしかに特別かもしれない、フルラの花や薬草の扱いが人より上手。でも、それだけ。普通の、綺麗で一等優しい女の子。――それだけじゃないの?……っていうかそもそも。
「差し支えなければ」
私の混乱した思考を、セレスの少し硬い声が現実へ引き戻す。声音と同様、その表情は戸惑いで強張っているけれど、どこか怯えの色もあるように思えた。それは得体の知れない訪問者達へというよりも、そう。
――大事な秘め事を暴かれることを恐れるような。
彼女は続ける。
「貴方方が何者で、どうしてここを訪れたのか、お伺いしたいです。 ……聖女、というのは一体何のことでしょうか」
目下私が抱いていた疑問のほとんどをセレスが尋ねてくれて、少し冷静さを取り戻せたように思う。後ろ手に隠した愛刀を握り直すと、男達が口を開くのを待つ。返答次第では、と鞘の感覚を確かめ、そっと間合いを図る。言葉を返したのは黒髪の男。
「事を急ぐあまり申し遅れたこと、心よりお詫び致します。我らはマトリカリア王国より派遣されし騎士団。聖女様を王宮へお連れすべく参上仕りました」
この人の謝罪は先ほどの前科があるので信用ならない。どうせ形ばかりの口上だろうと聞き流しながらも、続く言葉に思わず心臓が跳ねた。王宮へ、お連れする、誰を。――セレスを? 波立つ私の心中など露知らず、構わず男は言葉を続ける。
「私は第二殿下直属騎士団の副団長、ユークレス・クォートと申します。こちらが団長の」
ところが、その言葉を思いもかけず金髪の男が再度遮った。
「いや、ユーク。悪いが予定変更だ」
ユークレスと名乗る男が続いて団長である、と金髪の男を指し示すのを、当の本人が制する。これには黒髪の男も予定外のことらしく眉を顰めているが、同時に何か予想はついているのかその口端は嫌な予感に引きつっている、ようにも見える。金髪の男には先ほどの涙の跡はすでに無く、少し悪戯っぽく笑みを作ると、一礼の後挨拶を引き継いだ。
「申し遅れた。私はギルバート・フォン・マトリカリア。此度の非礼、どうかご容赦頂きたい」
ギルバート・フォン・マトリカリア。与えられた情報を反芻して、今度は別の意味で心臓が震えた。――この騎士団を抱える当の本人、マトリカリア国第二殿下その人が直々に来ている。貴族社会に興味もなければ遥か縁遠かったため、肖像画などでもその姿を見たことはなかったけれど、自国の王子、さすがに名前は知っている。御年は今年で二十七だったか。金の髪に水色の瞳というのも、何だか耳馴染みがある気もする。
おまけに国家の紋章が入った懐中時計を提示され、信憑性はますます高まって、嫌な汗が頬を伝った。彼自身は、こっちが本当の団長で、こっちが魔道士で、等と説明を続けているが、まったく頭に入ってこない。セレスと寄せた身がバクバクと音を刻むが、もはやどちらの心臓の音なのかも分からないほど混乱している。
「殿下、王宮まで身分は隠しておく約束は!」
副団長のユークレスが小声で抗議を申し立てているが、殿下その人はどこ吹く風らしく、再度セレスに視線を向けた。何気なく向けられたようなその眼差しは、けれども壊れ物を扱うが如く、とても大事な宝物を眺めるが如く。
「このときを長く待ち望んでいた。いざ目の前にすると、僅かな嘘も吐きたくなくてな」
それに、と続けて私へと移された視線に心臓が跳ねる。もうずっと跳ねているけど、一際高い跳躍だった。かち合った水色には悪戯っぽい光。
「あまり警戒されると斬られてしまいそうだからな」
バレてる。私も王族に刃を向けようとしていた事実に冷や汗をかいていたところで。無駄なこととは知りつつ後ろ手にそっと刀を立てかけ手放した。焦っていて気配に出しすぎていたとはいえ、この方、きっとなかなかに食えないタイプだ。思いながら、自分の不敬を抹消しようと試みていたところ、ようやっと思考が事態に追いつき始め、刃を向けていなくても、この状況、十分不敬なのでは? と思い至る。頭は上げられたものの、未だ地に膝をつく殿下方御一行。その眼前に立ち見下ろす形の私達。村育ちで礼儀作法なんてからっきしな私達でも分かる、不敬だ。現在進行系で不敬。
「お姿を存じ上げず、大変失礼を致しました……!」
慌ててそう言って膝を折ったセレスに続いて、私もすぐに膝をついて頭を垂れた。こんな突然来訪されて礼なんて執れる訳ないじゃん、と不満は残るものの、正体を知ってしまったからには跪くしかない。加えてセレスが、どうかお立ちになって下さい、と請う声が聞こえる。視界の端で自警団のおじさんが膝をつく姿も見えた。
しかし状況としては非常にまずい気がする。あくまでこの殿下が本物であるならば。“聖女様”がどういった存在を指すのかはいまだ要領を得ないけれど、セレスに用事がある以上、彼女はきっと大丈夫。……でも、その隣、ただの片田舎の村娘な私は? あまつ刀まで向けかけた不届者は? ……斬られる、終わった。心に絶望が射す。王族や国の人間からしたら、こんな村人ひとりの命、とるも容易いだろうとは、想像に固くない。
「私も、非礼を心よりお詫び申し上げます。あまつ刃をむけようとするなど、不敬罪に問われても仕方がないこととと、存じます」
使い慣れない敬語を確かめるように、慎重に言葉を選びつつ謝罪の意を伝える。でも最悪、命をとられるとしても。
「お、畏れながら!……私の命はとっていただいて構いません。 ですから、後生ですから、私を斬るのは親友セレスティアの行く末をお教え頂いてからにして頂きたく、願います」
お願い致します、と更に深く頭を垂れた。こんなことで終わるなんて、馬鹿みたいだと悔しくなる。けれど、この場で斬り捨てられてたまるもんか。きっと私が生きても死んでも、セレスはひとり王宮へ連れられる。国の意向なら村人総出になったってきっと止められない。だけど少しでも足掻かなきゃ。セレスの未来が僅かでもより良いものになるように。
しかしながら、震える声に決死の覚悟を乗せて放った私の嘆願に応えたのは、ふはっ、と気の抜けた笑い声。恐る恐る視線を上げると、手の平で表情を隠しつつも、肩を震わせて笑いを堪える殿下の姿。
「えっと……」
こっちは笑い事じゃないんですが。心中は自由なので不敬も気にせず物申せる。顔には出さないよう心掛けるものの、内心微かな苛立ちを覚えたのは気のせいではない。
「いや、失礼。今のところ、君を斬る予定なんてなかったものでな。それに、久しぶりに良い啖呵を聞かせてもらった」
啖呵なんて威勢よく恰好良いものではなかったろうに。殿下は隣の副団長に、我々は一体何だと思われているんだろうな、と未だ笑いの消えぬ声音で投げかけている。副団長にしても、感情の見えない黒い瞳で、けれどどこか面白がってこちらを見ているようにも思えて、私の胸中は穏やかではない。どうやら一旦は助かった命、というかもともと脅かされてもなかったようではあるが。
早とちりに恥ずかしくなりながらも、大して変化のない状況に気は緩められない。この人達はセレスを連れて行こうとしている。“聖女様”だという理由で。“それ”が何を指していて、彼らはセレスに何を求めているのか。王宮に行って、セレスの生活はどう変わるか、危険はないか、何か辛い道ではないか。聞きたいことは泉のように湧き出てくるが、何からどう尋ねるべきか決めかねていると、セレスが繋いでいた手の甲を安心させるように一撫でして言葉を発した。
「僭越ながら、私達には“聖女”というものが解りかねます。――私が本当に、“そう”なのかということも。どうかお教え頂けないでしょうか」
落ち着いた声で問うセレスの手は、反して冷たく小刻みに震えていて。繋いだ手から伝わってくるセレスの怯えにはっとさせられた。そう、今いちばん恐いのはきっとセレス。この子は優しいから、私を安心させよう、なんて。私がしっかりしないと、守るんだから。跪きながらも繋いだままになっている手を、しっかりと握り直した。隣にいるよ、まだ隣に居れる。
「“聖女”とは何か。何とも答え難い問いだ」
殿下は思わずといった体で言葉を零すと、玄関前で跪く私達の前へと歩み寄って来る。思わずセレスを背に隠すように身構えてしまい、また殿下に小さく笑われる。まるで番犬だな、と愉快そうに言うと、どうか楽な姿勢をとってほしい、と言葉を続けた。それ以上距離を縮めてこないのは、彼なりの配慮のようにも感じられる。
「“聖女”という呼び方が正しいのかも定かではない。“女神の愛し子” あるいは “女神の意思”――いずれにせよ、瘴気を祓い魔物魔獣から世界を救うべく遣わされた者。その者をずっと探していた」
「……それが、何故セレスだと」
王族相手に不敬かもだなんて考えは掻き消え、問わずにはいられなかった。セレスはセレスだ。十七年間ずっと見てきた。
「その者は、白銀の髪と金に揺らめく瞳を持つ」
ところが、確信めいた言葉と共に、セレスを射抜くその視線は変わらず真っ直ぐで。――ああ、終わっていく、始まっていく。
「貴女自身にも、何か兆候はなかっただろうか」
どこか懇願の響きを湛えて、ギルバート殿下が問う。誘われるように、セレスが応える。
「毎日、夢を見ていました。それはいつも目が覚めると忘れてしまう不確かなものだったけれど」
迷いを断ち切るように、揺れた瞳を一度瞼の内に隠すと、またゆっくりとその金色を覗かせた。彼女は続ける。
「何故だか今朝の夢は消えずに残りました。そして不意に気が付いたのです、私がこれまで毎日見ていた夢もすべて、女神様が見せたものだったと」
「――今朝の夢では、女神様は何と?」
殿下の静かな問いかけに、セレスは真っ直ぐと彼を見つめると、言葉を紡いだ。綺麗な金と青の視線が絡み合う光景は、何故だか不思議と懐かしくも感じられる。
「 “間もなく旧き友の訪れあり。共に私の元へ会いに来て。有るべき世界を望むなら” 」
鈴を転がすようなセレスの声は、確かに聞き慣れた彼女自身の声であるはずなのに、全く別の者の言葉として響いた。
――女神様だ、と。何の根拠もなくただそう感じた。これは確信。少し離れたところに控えている自警団の彼には届かなかったようだが、その声を拾った私達は皆一様に固まって動きを止めた。漠然と押し寄せる懐かしさに、気が付けば涙が頬を伝っていた。感情がない混ぜになって整理がつかない。
「本物、か」
呆然と副団長の呟いた声が聞こえる。
「決まりだな」
殿下の少しの熱が入り混じった、けれどもどこか切なげな声が聞こえる。
まず音が戻ってきて、握るセレスの手の平の感覚が戻ってきて。目線を上げれば、いつの間にか眼前に差し出されていた殿下の手。貴族の手はもっと綺麗で傷一つないと思っていたけれど、剣ダコのたくさんできた、意外にも無骨で大きな手だと、回らない頭でそう思った。これは守るための手だろうか、それとも。
でも、もう賽は投げられた。私もセレスも、この手をとるしかないのだと。私達を立ち上がらせた殿下は、詳しい話は村の長を通したい、場所を移そう、とだけ言うと、フードを被り直し村の北側へ向かって歩き始めた。他の三人もあとに続こうと歩みを進める。
殿下は不意にこちらを振り返ると、初めて屈託のない笑顔を浮かべてみせて私達に問いかけた。
「そうだ、大事なことを忘れていた。君たちの名前を聞かせてくれないか」
まずはセレスティアが名乗り、次は必然的に私の番だった。不承不承ながらも答えないわけにはいかない。
「ノアリスと、申します」
「セレスティアにノアリスか。良い名だな」
満足気に頷くと、前へ向き直り再び歩き始めた。その背を見つめながら、よく分からない方だなと思う。想像していた王侯貴族の姿とは随分とかけ離れていて、身分にあまり頓着がないようにも見える。ただ、あちらはたしかにこの国の王族とそれに仕える人々で、セレスを連れに来た人々で。
たとえどんな人だって、セレスを連れて行っちゃうような人間はみんな大嫌いだ。
言葉に出せないその思いを胸中で転がして、私もセレスとともに歩き始めた。
しかしながら、第二殿下直属騎士団御一行とともに村長の家への向かう間は、それは生きた心地がしなかった。歩いてものの数分で村長の自宅へは辿り着く。問題はその数分。
気まずい。
自警団の彼は村の入口で見張り番をしていたところ案内役に抜擢されただけらしく、しっかり口止めをされた上で持ち場に戻って行った。終始申し訳なさそうな心配気な様子だったけれど、王都の騎士団にそう背けるものでもない。気にしないで、と笑って別れて歩き出した、そこまでは良いのだ。
始めは前方に殿下御一行、その後ろに私とセレスが並ぶ形で歩いていたはずなのに。いつの間にやら前方に一人、後方に一人、そして彼らに挟まれる形でセレスと殿下、私と副団長が並び歩く布陣となっていた。さすが国の騎士団というべきか、素晴らしく統率のとれていることで。おかげさまでとても気まずい思いをしています。
何せ暗色の外套をまたフードまで被り直した彼らはとても怪しく、それらに囲まれるようにして歩く私とセレスはさながら連行される罪人のようである。早朝で村人に行き会わないことがせめてもの救いかな。
そして気まずさの原因がもう一欠片。隣から気配を感じてそちらを向けば、ふい、と前に戻される黒い瞳の視線。気のせいか、と私も前を向き直れば、また注がれる視線。隣を向く、ふい、と前を向く副団長。
「……何か」
言葉を交わす気はなかったものの、耐えかねてつい問いかけると、まさか気付かれてないとでも思っていたのか。一瞬驚いたように身体を強張らせると、どこか躊躇いがちに言葉が返ってくる。
「いや……どこかで会ったことはないだろうか、と」
「ないですね」
考えるより先に即答する。だって考えるまでもないのだ、私は物心ついてからこれまで、一度もこの村を出たことはなくって。それに黒髪黒目の人なんてはじめて出会ったのだから。なんだってこんな質問をするんだろうか、と胡乱げに視線を向ければ、同じくこちらに向けられていた視線とぶつかる。フードに半分隠された表情からは何の感情も読み取れず、そうか、という言葉にただはい、とだけ返す。そのまま会話は終わるかと思えば、今度は私の背中に視線が動いた。
「変わった剣を持っているな。細身で少し婉曲している」
漠然と、ああ警戒されているからか、と合点がいく。たしかに、護身用として帯刀の許可をもらって背負ってきたけれど、殿下の後ろを素性もよく知れない、武器を持った人間が歩いていたらそれは気がかりだろう。ましてや私の愛刀は、村に住む元刀鍛冶のおじいさんが私の体躯にあわせて拵えてくれた特注品。“カタナ”という呼び名もおじいさんが言っているだけで一般的ではないだろうし、片刃の剣なんてきっとそう見ない。ただ、素直に説明する謂れもないし、と、端的に伝えたいことだけを言葉にして放った。
「ご心配いただかなくとも、皇族様を斬り付ける度胸も理由も私にはありません」
「そんな心配はしていない」
少し焦ったように、心外だというように追いかけてきた言葉をつい信じそうになるが、この副団長は嘘で取り繕うのが上手い人だと初めの印象を思い起こす。私はその否定の言葉に聞こえないフリを決め込み、ぼんやりと前を見据えた。
どうあっても村長宅に着いてしまえばもう後戻りはできないし、今更できることはきっとない。少し前を行くセレスの後ろ姿を眺めた。私が副団長と会話ともとれない言葉の掛け合いをする最中、彼女の隣を歩く殿下が時折笑い声を上げていたのを聞いていた。殿下の手をとり進んだ先に、セレスの幸せ、安寧があればそれでいいと思う。殿下がセレスを前に流した涙を信じたいと思う。けれどあの瞳は、セレスを通じて遠い女神様の像を見ていたのではないかと不安にもなる。あの子は聖女様。女神の愛し子、女神の意思。でも、そうじゃなくてもあの子を大切に想ってくれる人が王宮にはいる? いてほしい、そうでなければ私は笑ってセレスを送り出せない、と。どうしようもなく祈る。
少しの間閉じた瞳を、昇る朝日のせいにした。




