2. 日常の終
銅鑼が鳴った後には、いつも村中がとても慌ただしくなる。まずは魔獣が現れた区画の調査と対策が急務となり、続いて村をぐるりと囲むように咲くフルラの花に異常がないか、綿密な確認作業。そうして境界の安全を確保した後には、村中でフルラの香を焚いて魔の気配を祓わなければならない。この村は『北の砦』のすぐ傍に位置するけれど、砦の役目はあくまで北の国境の守護。砦の騎士達の助けは借りられないため、これらすべてを村人の手だけでまかなわなければならない。
今回の魔獣の出現は、南口のフルラの花がいくつか枯れかけていたことが最たる原因であるとされ、フルラの花の植え増しが行われた。鳥型の魔獣は四足獣の魔獣よりも嗅覚が鈍いため、魔除けの効能が効きづらく、またタイミング悪く通りかかった行商の気配を感じて境界を知覚されてしまったのだろうと、村の自警団の調査で結論が打ち出された。
ともあれ、一連の対応が済んでようやっと一息がつけた私は、セレスとともに村のはずれの泉へ再び足を向けていた。というのも、今日の討伐をしたのは私。魔獣魔物の討伐を行った者は、村はずれの泉で身を清め瘴気を祓わなければならないというのもこの村の厳しい決まりだ。泉で身を清める間は、誰もほとりに立ち入ってはならない。というか、これは決まりじゃなくても、誰か入って来られると普通に困る、こちとら自警団に名を連ねていても一応うら若き一村娘なのだから。なんて考えている私のために、私が討伐にあたった日には、こうしてセレスが泉の番に来てくれる。
「ちゃんと誰も入らせないから、ゆっくりしておいでね」
安心させるように微笑むセレスに、なんだかまた無性に泣きたくなるような気持ちが湧き起こり、気づかれないようにと私は急ぎ足で泉へと向かった。
衣服を取り払い、つま先から泉に浸かる。夕暮れが近づいてきたものの、陽の光で幾分暖められていた水温は程よく冷たく、屈んで肩まで浸かってしまえば、あまりの心地よさに思わず声が漏れた。
「……気持ちいい」
そのまま手近な岩に腰掛けると、セレスの言葉に甘えて、少しだけぼんやりと水面を眺めていた。小鳥のさえずりが聞こえる。虫のささやきが聞こえる。蛙の声、木々の揺れる音。――全部の生命が、正しく平穏であればいいのに。手のひらに魔獣を斬ったときの感覚が蘇りそうになって、ざばりと頭から泉に潜った。この泉は精霊の泉と呼ばれる。身の内の汚いモノをすべて洗い落としてくれるような、そんな静謐さが確かにある。
水面から顔を上げると、幾分気持ちが晴れやかになっているのを感じた。憑き物が落ちたような心地に、この泉での清めの儀はあながち形ばかりのものでもないのかなと、いつも少しばかり感動してしまう。身も心もさっぱりして泉をあとにする頃には、村を包む空が茜色に染まり始めていた。
泉への入道で待っていてくれたセレスが、お疲れ様、と濡れた私の髪に一輪、フルラの花を挿し入れた。私は自分の小麦色の髪があんまり好きではないけれど、フルラの白銀の色がよく映えるところは少しだけ気に入っている。白銀はセレスの髪の色。お揃いみたいで何だか嬉しい。
「ありがとう。……遅くなっちゃったから砦には行けそうにないね」
「楽しみはまた明日にとっておいて、今日は美味しい野菜のスープを楽しみましょ」
こうしてセレスが笑って明るい場所へ手を引いてくれるから、私はこの村での日常を好きでいられるんだと思う。守りたい、と思う。そうだね、と笑って頷くと、夕暮れの光に照らされながら並んで帰途へと着いた。
西高くそびえるかつての霊峰は、どこよりも早く西に落ちる陽の光を飲み込む。だからこの村では夜が訪れるのも早い。夕食を終え、身を清めて落ち着く頃にはあたりはすっかり暗く静けさに満ちていた。自室で書き物をしていると、軽いノックの音が響き、ひょっこりとセレスが顔を覗かせた。
「今日すごい満月なの。見に行かない?」
セレスの誘いを私が断るわけもなく。二つ返事で了承すると、二人して平屋の屋根の上へとあがった。危なっかしいセレスに手を貸しながら、屋根の上に腰を落ち着けると、見上げて思わず息を呑む。セレスの言う通り、それはとても、見事な満月だった。村には、空からの魔獣の侵入を防ぐため、上空にもフルラの花を張り巡らせている。儚げに揺れる白銀が月の光に照らされて、夢のように綺麗で、けれども何だか心がザワザワと騒いだ。
「ノアは、やりたいこととかないの?」
二人の間を、ざあっと一つ風が吹き抜けた。
「えっ、何、急にどうしたの」
唐突なセレスの問いかけに、驚いて彼女の方を見遣る。セレスの視線は月を見ているようで、どこかもっと遠くを見ているようでもあった。見上げた瞳の中で金色が揺らめいている。綺麗だなあと思う。月も、それを映すセレスの瞳も。
「私達、来年には十八になるでしょう。……ノアは、この村を出てみたいとか、色んな世界を見てみたいとか、思わない?」
不意に合った眼に、投げかけられた言葉に驚いて何も返せなかった。だって本当に、考えたこともなかったのだ、私は。この村に拾われ、育ち、生きてきた。もし村を出たら? 村長もいない、村の皆も、砦の皆もいない場所。こうしてセレスと将来の話をすることって、思えばあまりなかったなと感じて、はたと考えてみる。
「出たくない訳じゃない、かな。色んなものを見るのは、きっと楽しい、と思う。でもまあ私は……どっちでもいいかなあ」
考えながら言葉を零してセレスの方を向けば、見るからに不服です、といった表情があって思わず苦笑してしまう。別に適当に答えたわけじゃなくって。
「セレスがいれば、私はきっとどこでも生きられる」
頬を撫でた風に誘われるように、また月を見上げた。想像をしてみた。村長がいない、村の皆も砦の皆もいない、どこか違う町で暮らす自分。そこは別の村かもしれないし、もしかしたら王都かもしれない。ひょっとしたら隣の国かも。色んな自分を想像するけれど、その景色には、必ず隣にセレスがいた。セレスがいる場所に、私も行きたい。ちょっと重いかなあなんて恥ずかしくなって、言葉には出せなかったけど、そう思う。
「セレスは、行きたいところがあるの? 見たい景色がある?」
誤魔化すように問い返すと、私の優しい親友は困ったように眉を下げて微笑んだ。
「私はこんなだから、他の場所だとかあんまり、想像もできないかも」
こんな、と言いながらセレスは月光に照らされ銀に輝く自身の髪を摘まみ、金色揺らめく瞳を細めてみせた。
「セレスの髪は綺麗だよ。セレスの瞳は、恐くなんてないよ」
現にこの村の誰も、セレスのことを嫌ったり、気味悪がったりしてないじゃん。大丈夫だよ、どこにだって行けるよ。――そう続けたかったけど、やめた。私は外の世界をよく知らないけど、人は往々にして、自分と違うモノを厭う、恐れる、遠ざける。そういうことは、悲しいけれどきっとたしかにあるんだろうとも思ってしまうから。
セレスもこの村に拾われた子。森の中で泣いているところを見つけられたと聞いている。誰も本当のところなんて分からないけど、少なくともセレス自身は自分の纏う色のせいだと思っているのだろう。セレスは何にも悪くないのに。悪いのは不寛容な世界なのに。セレスを除け者にする、そんな世界ってあんまりだ。うまく言葉にできない自分が情けなくて項垂れてしまいそうな私の頭を、セレスがのんびりと撫でた。
「ごめん、ノアがそんな顔する必要ないよ。ごめんね、ありがとう」
月の光にあてられてちょっと感傷的になっちゃった、と、笑うセレスティアは本当に綺麗だ。女神様が本当にいるなら、こういう姿じゃないかななんて。親友の贔屓目抜きにそう感じた。髪の色とか瞳の色とか、そんなものは問題じゃない。何色だって、セレスはセレス。大事な私の、家族みたいな姉妹みたいな、大好きな親友。
「じゃあいつか、二人で旅でもしよう? そうだなあ……馬を借りて、ずっと南に向かって、海を見るための旅。陽が昇るところを眺めて、村長や村の皆に綺麗だったよって、自慢できるような旅!」
勝手に沈んでしまった私を元気づけるように、セレスが明るい声を上げた。その優しさに甘えて、私も言葉を乗せる。
「いいね、それ。すっごく楽しそう、約束だよ!」
本当に、叶うといい。一瞬見せた憂いは露のように消え、私のために笑ってくれる優しい子。私はセレスに一等幸せになってほしい。楽しい未来が待っていてほしい。二人で笑い合いながら、私はまた、姿なき女神にそっと祈った。
その日は、そろそろ戻ろうかと屋根を下り、暖かい飲み物で暖をとってからそれぞれ眠りについた。何だか長い一日だったように感じるのは、討伐で慌ただしかったからか、将来のことだなんて慣れない話をしたからか。でも、こんな日常がこれからも続いていって、もしかしたら本当にたまに旅に出かけるようになったりもして。そうして私とセレスはこの村で今まで通り生きていくんだろうと、このときの私は信じて疑わなかった。
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――翌朝。いつもより少し早い時間に目が覚めた。まだ少し夜の気配が残るような、陽の光が目覚める前の時間。
何だろう、予感がする。何かが決定的に変わってしまうような、終わってしまうような予感。違和感に戸惑いながら身を起こして気づく。いつもと違う気配がする。普段ならまだ寝静まっているはずの村の気配。そっと薄く窓を開くと、微かに聞こえてくる幾つかの足音。魔物や動物の類ではない、人間の足音。
「こんな時間に……?」
村の誰かだろうか、それとも砦の……? 杞憂ならいい。ただ、素直に顔を覗かせることは戸惑われて、そっと寝台から抜け出ると、音を立てないように隣室へと向かった。ひとまずセレスを起こしておいた方がよさそうだと、扉を開く。すると予想に反して彼女はすでに寝台から身を起こしていて。
「――セレス? 泣いてるの……?」
ぼんやりと遠くを望むようなその瞳から、静かに雫が流れ落ちていた。どうしたの、と慌てて駆け寄ってその身を揺すると、はっと今まさに目が覚めたかのようにセレスが身じろぎした。濡れた瞳が焦点を結ぶ。
「夢を、見ていて――。」
微かに震える唇が言葉を紡いだそのとき。ゴンゴンッ、と玄関の扉が来客を知らせた。セレスと二人、思わず身を寄せて固まる。――予感が、する。扉を開けたら、終わってしまう。
どのくらいの時間か、おそらくそんなに長い時間ではないのだろうけれど、二人で動けずにいると、痺れを切らしたように扉が再度打ち鳴らされた。このまま、というわけにもいかないだろう。セレスと一度目を合わせ、頷きあうと、玄関へゆっくりと歩みを進めた。愛刀を素早く手に納めると、セレスを庇うように扉の前に立つ。気配は――、五人かな。ごくり、と喉が鳴る。ドアノブに手をかけようとしたとき。
「セレス! ノア! 寝てるのか?」
聞き知った声が扉の向こうで空気を揺らした。この声は、村の自警団のひとり。彼は村の南口や櫓の物見番を持ち回りで勤めている。ほっと緊張が少し緩んだ。もしかしたら村の警備に何か不具合があって、補強なんかを依頼しにきたのかも。とにかく扉の向こうの正体が分かった安心感から、扉を押し開ける。朝の時間の流れは早いもので、あたりはうっすらと明るくなっていた。
「おはよう、何か――え、」
ところが、扉を開けたその先、眼前の景色は想像と違っていた。見知った自警団の面々が並んでいると思っていたそこには、暗色の外套を纏った四人の人影。目深に被ったフードで顔は見えないが、背格好から恐らく男――そして、この村の人間ではない。腰には剣を携えている。視界の端に、居づらそうに身じろぎした自警団のおじさんの姿がちらりと映るが、今は状況を確認する余裕なんてない。
「セレス、中に……ッ」
セレスを後ろに隠し、咄嗟に扉を閉めようと強く引くが、すかさず扉の隙間にひとりの男の手がかかり、阻まれた。思わず舌打ちが出そうになりながら、次の行動を瞬時に模索しようとする――が、弾みでフードが外れ顕わになった男の姿に一瞬意識を奪われた。こちらを射貫く黒々とした瞳、風に揺れた漆黒の髪。黒色を持つ人を、私は初めて見た。彼は扉にかけた手をそのままに、薄い唇で弧を描いて見せた。
「此度の突然の訪問、御無礼をどうかお許しください」
「用件は知りませんがどうぞお引き取りを!」
いや、こんなに言動がかみ合わない人を、私は初めて見た。柔和に作った表情と丁寧に紡がれた言葉とは裏腹に、扉にかかった手は頑として引く様子はない。焦って言い返すも、だんだんと大きくなっていく扉の隙間に為す術はなく。脅すだけでも、と傍らの愛刀に片手を伸ばしかけたそのとき。
「ユーク。良い、退きなさい」
傍らに立っていたもう一人が、黒髪の男に静かに言葉を投げた。決して大きな声ではなかったのに、その声は穏やかでいてどこか重厚な響きを持っている。ユークと呼ばれた男は、素直にその声に従って扉から離れると、傍らの男の半歩後ろへ下がり、小さく頭を垂れた。また一転した状況に行動を決めかねて、セレスの手を握って扉の隙間から窺っていると、上司、あるいは主らしいその男は地に片膝をついて指を組むと、深く頭を垂れた。従うように後ろに控えていた三人の男も続く。この国の儀礼で執られる最敬礼の姿勢。
「我々は貴女方を脅かしに来たのではない。どうか、話を聞いては頂けないだろうか」
落ち着いたその声音は、されどどこか懇願の響きをもっていて。私はすっかり戸惑ってしまって、隣に立ったセレスと思わず顔を見合わせた。まったくどういうことなのか、さっぱり状況が掴めない。同意を求めるように首を傾げてみせた私に、けれどセレスは困ったようにもしかして、と言葉を漏らした。……え?
「セレス? 何か分かったの……?」
「私もまだ混乱してて、でも、少しだけ思い当たる節が……」
見知らぬ四人が深く礼を尽くしているこの状況に、何が思い当たるというのだろう。余計に状況が分からなくなった私とは対照的に、セレスはどこか覚悟を決めたようにひとつ息をついた。
「このままってわけにも、いかないものね」
いつもみたいに、安心させるように私に笑いかけるその表情はどこか苦しそうで、寂しそうで、心がざわついた。――ああ、終わってしまう、始まってしまう。訳も分からず、ただそう思った。セレスが扉を押し開けると、先頭で礼をとっていた男がゆっくりとその頭を上げた。パサリと落としたそのフードの下には、金に輝く髪と、深い青色の瞳。広い空みたいな、深い泉みたいなその瞳はセレスの姿を捉えると、ただ静かに大粒の雫を流した。地に落ちる涙はそのままに、茫然と夢見るように彼は呟いた。
「やっと見つけた……生きていた、この世界の聖女」




