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1. 北の果ての村

 カーテンの隙間から射し込む光を感じ、朝の訪れを知る。

 

 ゆっくりと目をしばたたきながら、使い慣れた寝台から身を起こした。

 朝は好きだ。何もかもが始まる時間。眠っていたすべてが目を覚まし、ゆっくりと動き出す気配。


 壁際に寄って窓を開けると、朝の少し冷えた風がカーテンの端を揺らした。本日も快晴、ほんのりと明るく照らされた村の様子に思わず笑みが零れる。少しずつ、村の皆が起き出している気配。

 今日も一日が始まったなと、西高くそびえる山へ向かって、良い一日となりますよう、短く祈りを捧げた。


 私はよく知らないけれど、村長が言うにはあの山はかつてそれはそれは綺麗な霊峰で、頂上には女神様がいらっしゃったのだという。村長が生まれるまだずっと前のお話。今は麓をいつも荒れた風が吹きすさんで、魔物魔獣が巣くう、誰も立ち入れない何だかとても恐い山。

 もう女神様はいないのだと大人たちは寂しそうに言うけれど、女神様の話を初めて耳にしたもっとずっと幼い頃の私は、何だかムキになってしまって「戻ってくるかもしれないじゃん!」と泣いて困らせたのを覚えている。

 特段信心深いつもりはないのだけど、もしも本当に女神様というのがいるのであれば、もういらっしゃらないのだ、と誰もが信じ祈ることをやめてしまうことこそ寂しいじゃないかと思う。以来、何とはなしに毎朝霊峰へ一日の安寧祈願をすることが習慣づいてしまった。


 早朝の気持ちの良い風と光に頭が冴えてくると、もう一つの朝の習慣を果たしに隣室へ向かう。

 ノックをするが、いつもの如く返事がないので気にせずドアノブを回す。部屋のカーテンを引き開けると、容赦なく射し込む光に、こんもりと盛り上がった布団が小さく蠢いた。

 しかし居心地悪そうに身じろぎをしてまた動かなくなった塊に近づくと、盾のようにくるまっている布団を剥ぎ取り、大きく揺すった。


「朝だよーセレス!! 起きて! 」


「ん……あさ、……って……?」


「朝は朝! 起きる時間! おはよう!! 」


 ゆっくりと上がった瞼が再度降りていくのを見過ごす訳はなく。ぐい、と引っ張り起こすと、彼女はぼんやりと目を擦りながらも素直に身を起こした。けれどもそのまま動き出す気配はなく、ぼーっと一点を見つめたまま。

 まあセレスはこの状態にさえなってしまえばあとは時間が経てば自分で起きてくるので、気にせず自分の支度へ戻る。


 同じ屋根の下で暮らしてはいるけれども、私達は血の繋がった家族ではない。


 この村に拾われた者どうし、共に育って一緒に暮らす、私の親友。セレスティアは普段はしっかりしてるのに、朝だけは滅法弱い。動き出すまでに時間がかかるから、自然と私の朝いちばんの仕事はセレスを起こしにかかることとなっている。引っ張り起こせばあとは自然と起きてくるのだからかわいいものだし苦ではないからいいのだけれど。


 そんなことを思いながら着替えを済ませ、手早く朝食の用意を済ませていると、ようやく自室からセレスが顔を出した。


「おはようノア。いつもありがとね」


「いえいえ! 丁度朝ごはんできたよー」


 照れたように笑って言うセレスに着席をすすめながら、食卓に朝食を並べていく。小さく辺鄙な村だから、便利な市場なんてないけれど、畑でとれた新鮮な野菜に産みたての卵、焼き立てのパンは十分に空腹を満たしてくれる。朝食は私、昼食はセレス、夕食はできる方が用意する。十七の娘の二人暮らしにしてはうまくやってるよねとセレスと一緒に笑い合う。もちろん、家族みたいに気にかけてくれる村長をはじめ村の皆のおかげも多大にあるのだけれど。こんな穏やかな日々がずっと続けばいいなあ。考えていると、パンを口に運びながらセレスが問いかけてくる。


「ノア、今日は何して過ごすの?」


「うーん、まずは畑の手入れするでしょ。それで村長のところ行って卵と換えてもらってー、あ、今日は行商来る日だから買い出しもしなきゃね。時間があったら北の砦にも行きたいかも」


「大忙しねえ。じゃあ今日はお昼お弁当にして届けに行くから! 銅鑼が鳴らないといいのだけど」


 言いながら、食事を終えた私達は食器を片し、お互いに出掛ける支度を始めた。村人の朝は早いのである。セレスはというと、村の薬師見習いといった形で薬草等の手入れで日々忙しい。特に魔除けとなるフルラの花の栽培と加工は、魔物蠢く霊峰近くのこの村では重大業務である。


「あ、今日は行商来るんだから、ちゃんと念の為フード被っておくんだよ」


 分かってるよ、と応えながら丁度セレスがフード付きの外套に袖を通すところだった。セレスの髪色は珍しい。髪だけじゃなく瞳も。とても綺麗で、隠してしまうのは勿体無いと常々思うのだけど、他と違うものに畏怖を抱き嫌悪したり、あまつさえ良からぬことを企む人間もいるのだと、いつの日か珍しく真剣な様子で村長は私達に説いた。以来、セレスの髪や瞳は余所者の目にかからないようにしなさい、との教えを私達は守り続けている。こんな綺麗な色を嫌うなんて心底どうかしていると思うけど、セレスの色はこの村の秘密なのだと、宝物を皆でひとり占めしているみたいで少し嬉しくもあった。


「それじゃあ、行ってきます」


 お互いに声をかけ合って、それぞれの仕事をこなしに家を出る。私はまずは泉に水を汲みに行かなければならないので森へ向かって歩いていると、道すがら村の皆が声をかけてくれる。


「ノアおはよう。セレスはちゃんと起きたのかい?」

「ノアリス! 今日も銅鑼が鳴ったらよろしく頼むよ」

「また足りないものがあったら交換しにおいでね」


 ここは森に囲まれた辺鄙な土地で、私やセレスみたいに森に捨てられていたところを拾われて居着いた人や、生活に窮してひとり流れてきたような人も少なくない。だけれど村の皆あたたかくて、別々に暮らしていても皆が家族みたいに助け合って生きている。不便はあるが不満なんてない、そんな日常。


 掛けられる声に返事を返しながら、目的地の泉へと向かっていく。泉のあたりで魔物や魔獣に遭遇したことは今のところないけれど、村の端、ずっと森に近いところになるから毎度警戒は怠れない。危険な気配がないか探りつつ分け入っていくと、泉のほとりにふたつの気配。


「あれ、リンさんにホークさん!」


「あらノアちゃんおはよう。ちょっと薬草を摘みにお邪魔させていただいてるわ」


「ノアちゃん、あんまり森の近くをひとりでうろちょろするもんじゃないって、いつも言ってるだろ」


 先客としていたのは『北の砦』に務める常駐薬師のリンさんと騎士のホークさん。国に仕える役人たちにあまり良い印象はないけれど、『北の砦』で働く人たちは気さくであたたかい気質な人が多い。ばったり会えたことが嬉しくなって駆け寄りつつ言葉を返す。


「これくらいひとりで大丈夫! ねえ今日砦にお邪魔しようと思ってたんだけど良いかなあ」


 言うとホークさんもぱっと顔を輝かせて応えてくれる。


「おー! 最近随分とノアちゃんが顔出さないから団長落ち込んでたよ! ぜひ来てやって」


 クスクスと笑いながらリンさんも続ける。


「そうね、アルフォント団長ったらノアちゃんのことすっかり娘みたいに可愛がってるものね。きっと喜ぶわ」


 ふたりして生温かく見守るような視線に何だか照れ臭くなってしまって、いたたまれない思いそのままにバタバタと水を汲んでくるりと背を向けた私。


「えっと、じゃあ、今日たぶんお邪魔するので!」


 駆け出す私の姿を、クスクスと笑うふたりの声が追いかけた。この村じゃいつまで経っても子供扱いなんだから、とむくれながらも、どうしようもなく居心地のよさを感じて私もまたひっそりと笑みを溢したのだった。


 泉を後にした私はそれはもうせっせと働いた。郵便鳥が運んでくる新聞に時折『長閑な村であなたもスローライフ』なんて謳い文句が出ているけれど、村人の生活のどこがスローなもんか。


 午前中いっぱいは畑の手入れで時間が潰れた。水をやり草を刈り土を耕し、必要な分だけを選び分け収穫する。畑とは言っても私とセレスは自分の土地を持っていないため、村民共有の広い土地を他の村人と共同で管理している形で、収穫分を働きに応じて分配するようになっている。共生意識あってこそ成り立つ制度だけれど、用事で畑の手入れが出来ない日があっても他の村民の手が入ることで畑は維持できるしまったく不満はない。


「ノアが手入れした野菜はすくすく育つ気がするよ」

「若い人手があるとやっぱり助かるなあ」


 おまけに他の村人と声を掛け合いながらで退屈もしない。心地よい疲労に包まれながら、ひとまず必要な作業を終えて休憩にしようとした時分、昼食用のお弁当を携えたセレスがやって来る姿が見え、丁度いいやと、ふたりで手近な木陰の岩に腰掛け昼休憩をとることにする。


「今季の畑の収穫はどう?」


「そろそろ雨が降ってくれると嬉しいけど、皆が食べる分には困らないと思う。今日は良い野菜がとれたから夕飯でスープにしたいなあ。セレスの方は?」


 昼食を食べながら問い返せば、セレスは眉根を寄せて微妙な表情を作った。


「薬草の方は順調なのだけど……フルラの花がなかなか種を作らなくて。売れそうな薬をいくつか作ってきたから、行商がフルラの苗を持ってきてたら買い取っておいてくれる?」


「そっか……。分かった、買えるだけ買ってくるし、足りない分は他の人にもお願いしてみるよ」


 フルラの花は魔除けの印。この村が瘴気にまかれた山の麓でもなんとか生きているのは、ひとえに周囲をぐるりと囲むように咲き乱れているフルラの花のおかげだ。魔の者はフルラの香りを嫌い、時に幻覚にまかれるという。魔物魔獣が村に入ってこないのは、フルラの香りが奴らを遠ざけ、また、幻覚を見せて村の存在自体を覆い隠しているから。フルラの枯渇が進めばこの村だって無事ではすまない、まさに死活問題なのだ。幾分暗くなってしまった雰囲気を盛り上げるため、明るい調子で私は続けた。


「そうだ! 行商との取引が終わったらセレスも一緒に北の砦行かない? リンさんに良い方法ないか一緒に考えてもらおうよ」


「名案ね! 丁度薬草のことでも聞きたいことがあったし、そうしようかしら」


 私の意を汲んだかのようにセレスも明るく返してくれ、午後の予定が決定した。薬師のリンさんは薬草となる植物に関する知識が豊富で、セレスも師のように慕っている。暗い影の消えたセレスの表情に嬉しくなって私もにっこり笑うと、掛けていた岩から腰を起こした。


「そうと決まればさっさと用事を済ませてくるよ!」


「私も残った手入れを済ませてくる! お互い終わったら櫓に集合ね」


 セレスと約束を交わして分かれると、傍らに置いていた荷を背中に回し、セレスの薬を持って、そろそろ来訪するであろう行商の元へと足早に向かった。取引が行われる村の南口へ向かうと、丁度到着したらしい行商達が荷卸しを始めており、数人の村人が準備が整うのを待っているところだった。


「よかった、間に合った~」


 行商は1時間ほど滞留するのでまだまだ時間はあるが、早めに来ないと目当ての物が売り切れてしまうこともあるので、今日はとても良いタイミングで来ることができたと思う。少し上機嫌になりながら、傍らに立つ勘定担当の行商にセレスから預かった薬を先に売って貨幣に換えておく。村では物々交換が基本であまり貨幣は流通しないが、行商とは貨幣を用いた取引になる。そのため定期的に貨幣に換えられる物品を持ってきて売るところから取引は始まるのだ。


 フルラの苗があれば買えるだけ買う。あとは加工肉もそろそろ買っておきたいな。行商の用意が整うのを待ちながら、今日の購入予定を考えているとそのとき。




――大きく、銅鑼の音が鳴り響いた。




 行商を含め、辺りにいた人が皆ビクリと肩を揺らした。不安げな気配が周囲に広まるなか、私は急いで隣に立つ村人に貨幣を預けて早口で取引を依頼すると、村の出口の方角へ駆け出した。背中にあたる硬い質感を確かめて気を引き締める。銅鑼の音は続く。


「銅鑼の音は3回、南の方角……私が一番近いかな」


 呟きながら止まることなく駆けていくと、村と森の境界へと行き着いた。森の中はよく晴れた昼間だというのに木々に囲まれて陰気で暗い。立ち止まり目を凝らすと、黒い影が闇の中蠢く様子が感じられた。――魔獣だ。


 村に響く銅鑼の音は、櫓の物見番が告げる魔物魔獣襲来の合図。


『一度鳴れば東、二度なら西、三度の音は南に向かえ』


 それは長く続くこの村を守るための絶対の掟。銅鑼の音を聞いた闘える者は、皆その方角へ向かえ。自ら闘って村を守るのだ。村長の言葉が脳裏をよぎり、私は背中から愛刀を降ろしてひとつ息をつくと、そっと目を閉じた。


 昔から私は、気配を探ることが得意だった。少し冷たく乾いた空気を肌で感じる。村と森との境界で、探るように土を踏む魔獣の気配と時折強く揺らぐ空気に、恐らく翼を持つ鳥型の魔獣だとあたりをつける。幸いなのは相手が群れを成していないこと。村の自警団が駆けつけてくる気配も感じるけれど、魔獣が村を認知して飛び行ってくるほうが早いかもしれない。


「一対一だ」


 自分自身に言い聞かせるように言葉を落とすと、手は刀の柄に添えたまま、ふっと全身の力を抜いた。限界まで自分の気配を薄める。闘い方は全部、グラン村長とアル団長に教わった。――大丈夫、気配は捉えている。相手が飛び込んでくるその瞬間、狙うは首、一撃で落とす。


 ふっと、空気が動く気配。


 瞳を開けて前を見据えた。視界の端に大きな暗い影を捉えるより先に、身体が動いていた。視覚だけに頼るな、全身で感じろ。これはアル団長の教え。抜刀して一太刀、刃は吸い寄せられるように魔獣の首元へ。


 確かな手応えの残る手の平を握り、音を立てて崩れ落ちた魔獣の姿を一瞥する。自警団の足音がもうすぐそこまで来ていた。研ぎ澄ませていた感覚が弛緩して、音が、空気が、体温が戻ってくる。


 この村では時折こういうことが起こる。魔物や魔獣から自分たちを守るには、闘うしかない。そのために闘う術を請い、こうして実際に刀を振るうのももう何度目だろう。周りの反対を押し切って自警団に入ってからもう随分となる気がする。


 魔獣のもとは、森で暮らすただの動物だ。瘴気さえなければ、この子と私は争う必要なんてなかった、もしかしたら仲良くだってなれたかもしれない。


 瘴気の滲む魔獣の遺骸の傍らへ膝をつくと、私はいつも、ただ届くことのないだろう祈りを小さく落とす。


「どうか、女神様。全ての魂の安穏を祈ります」


 その後すぐに駆け付けた自警団が的確に指示を交わす声で、あたりはにわかに騒がしくなった。よくやったと私を褒める声、賞賛の拍手に、応えた顔はちゃんと笑えていただろうか。


 ――ああ、すごくセレスに会いたい。


 討伐のあとには、いつも無性にそう思う。遠くに見えた揺れる白銀の髪に、泣きたくなった日のこと。これが私の、私たちのどうしようもない日常だった。


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