プロローグ
遡ること二百数年。
大国マトリカリア全土を震撼させる出来事が起こった。
──始まりは、王都に位置する神殿の神官達のざわめきから。
神官達は時折夢を介して女神様の言葉を聴くことがあったが、その日は神殿勤めの神官全員が同じ言葉を告げられた。
“さようなら”
女神様のお告げは元来神官だからといって全員に告げられるものではなく、また、聴こえたとしてもはっきりとは聴き取れないもの、意味の判別がつかないものも多々あった。
しかし、別れを告げるその声だけは、その朝神官全員がはっきりと聴き、一様に訳も分からぬまま涙を流して飛び起きた。夢に温度や色はないはずなのに、暗く冷たい場所で聴く、哀しげな響きだったと口々に言う。
これはただ事ではないと、永く女神様が住むと伝えられる霊峰クラスペディアへ早急に調査騎士団が派遣されることとなったが、事態の究明は叶わなかった。美しく静謐でどこまでも穏やかに佇んでいたはずの霊峰はすっかり様子を変え、あるところは荒れ狂う風、あるところは隙間なく生い茂る樹木、あるところは永遠と燃える炎に阻まれて何人の立ち入りも許さなかったからだ。
国の必死の緘口措置も虚しく、事態はすぐに国民の知るところとなった。
人々は口々に様々な憶測を飛び交わし、怯え、そして、久しく口にしてはいなかった女神様への祈りを熱心に唱えるようになる。
かつてはどの国よりも女神信仰の厚かったマトリカリアは、しかし文明の進化や歴史を積み重ねていく内、神殿組織へ不信感を募らせ、また、信仰心をなくしていったのだった。
思い出したようにどれだけ祈り、許しを請うても、それが叶うことはなかった。
霊峰が人間を拒んでから数日。
近辺の探索を続けていた調査騎士団は黒い体毛、黒い瞳を昏く光らせた獣と遭遇することとなる。その隣には同様の色彩をもち奇妙な形に蠢く植物。後に魔獣、魔物と称され、永遠の恐怖へ人々を陥れたモノである。その爪や牙は野生の獣よりもはるかに鋭く、巨大な植物は触手のように蔦を蠢かせ、例外なく獰猛で見境なく人間を襲った。
瞬く間に世界は様変わりし、失われた命は数知れず。
そうして魔獣魔物に怯え、戦いながらいくらか経った折。
ついにフルラの花が奴らに有効であることが判明し、人々はひとまずかりそめの安穏を手に入れた。フルラの花で香を焚き街を囲み、堅牢な境界を作ることに躍起になった。
しかしいくら討伐しても魔のモノは姿を消すことはなく。
どうやらクラスペディアの麓に生息していた動物や植物が変容したものらしいということまでは突き止めたものの、何がそうさせるのか、どうしたら元の世界を取り戻せるのか、答えは出ぬまま長い時が流れた。
いつしか人は、魔獣魔物がはびこる世界にも慣れ、たまに起こる魔獣被害に翻弄されることはあれど、天災に巻き込まれたようなものだと諦めを伴うようになった。
“境界の中は安全。どれだけ辛くとも、恐くとも、仕様がない。もう、女神様はいらっしゃらない。終わることのない罰を残して去って行かれた”。
人々はまた女神様に祈ることをやめ、作った境界の内での安全な生活を続けた。
いつまでこのかりそめの平穏が続くかは、誰にも分からない。今にもフルラの花が効かない魔獣が生まれ来るかもしれない。魔物がその数を増し、遂には境界を破られるときがくるかもしれない。
口には出さずとも誰もが暗澹たる不安を抱きながら、表向きはそれぞれの生活を変わらず送っている。
――そんな折。
“白銀の髪と金の瞳が約束の印。あの子に託して私は眠ります”
“間もなく旧き友の訪れあり。共に私の元へ会いに来て。有るべき世界を望むなら”
二百年の時を経て、聖なる声がもう一度――。




