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「え?」


 思わぬ指摘に、私は自分の足下を見た。


 白っぽいサンダルが、私の両足をすっぽりと覆っている。


「どうして……」


 視線を少し手前に引く。ズボンが目に入った。白と水色のスプライトが入った、薄っぺらい生地。どこからどうみても、病院服のそれだった。慌ててコートのチャックを開いて確認すると、上に着ているのも、ズボンと同じ色合いのシャツだった。


 乗降口のドアが閉まり、案山子のようにぽつねんと立つ老人を置き去りにして、バスは発車した。だが私の思考は停止したままで、理解が追いつくことはなかった。


 なぜ病院服を着ているのか。なぜサンダルを履いているのか。そのことに、どうして今のいままで気づかなかったのか。本気で頭がどうかしてしまったのか。


 一人残された車内。


 肌が粟立つ。寒さのせいだけではなかった。


 コートのチャックを元に戻し、ポケットに手を突っ込む。


 握り締めたカイロの熱さが、刺さるように痛かった。


 老人の言葉が、動き出した思考を侵していく。


 あと何回か、このバスに乗る必要があると、彼は忠告していた。


 私は以前にも、このバスに乗って、同じような経験をしたことがあるのか?


 あの案山子を見た時に覚えた既視感は、勘違いではなかったのか?


 だがいくら記憶の引き出しを開けても、確証に結びつくものはなにもなかった。


 また眩暈がした。こめかみの辺りに、鈍痛が奔った。


「お願いします。もう降ろしてください」


 震える声のまま、必死に懇願する。


 だが運転士は何も答えず、バックミラー越しに、こちらへ視線を送ることさえなかった。


「お願いします。どこでもいいから、早く降ろしてください! 妻が帰りを待っているんだ! 仕事だってまだたくさん残っているんだ!」


 怒りのままにぶちまける。だが反応は全くなかった。


 バスの低いエンジン音だけが鼓膜を揺らし、ときおりかかる振動が、私の体を弄ぶ。


「お願いだ……お願いします……家に、家に帰らせて……」


 喉奥を絞る。これは夢だ。悪い夢を見ているんだと思いたくても、手の平を伝わるカイロの熱が、これが現実であることを否応なく突きつけてくる。


「お願いします……どうか、どうか……」


 半ば駄目だと分かっていても、口に出さずにはいられなかった。


 絶望一色に染まった私の精神へ、とどめを刺すかのように、バスが停まった。


 いよいよその時がきてしまった。


 乗降口のドアが、そっけなく開いた。


「お忘れ物はございませんかぁ?」


 今度は私の番だ。


 叫びたくても、恐怖のあまり叫べなかった。


 喉の筋肉が強張り、口の中がカラカラに乾いていく。


 呼吸を繰り返すが、肺に届いているかどうかも怪しかった。


「お忘れ物はございませんかぁ?」


 急かす様に運転士が告げる。


 車内は凍えるように寒い。それなのに、背中を伝うこの汗はなんだろうか。


「お忘れ物はございませんかぁ?」


 忘れ物。私の忘れ物。


 私が一番気がかりにしていること。


 私が一番大事にしているもの。


 恐怖に追われ、疲弊しきった頭で捻り出そうとする。


 答えは出なかった。


 ひときわ酷い眩暈がした。


 緊張のあまり、胃液が食道付近まで逆流するのが感覚された。


 目の前の風景が、ぐらりと傾いた。


 頭から倒れ込む。少ない段差を転げ落ち、床に激突する。


 老婆の歯茎から流れた血と、胎児の死臭が混ざり合い、猛烈な勢いで鼻腔に流れ込んだ。


 たまらない不快感が横隔膜を蹴り上げ、胃の奥が痙攣するのが分かった。


 堪えかねて、色味の薄い吐瀉物を吐き出す。


 夢であってほしい。だが夢ではない。


「お忘れ物はございませんかぁ?」


 次第に、目の前が明るくなってきた。


 何十という蒼白い光が、夜光虫のように、バスの周囲を取り巻いている。


 目に入った窓越しに、鬼火を体内で明滅させる案山子の群れが、びっしりとへばりついている。


 十字の枯木。その一方に挿されたその顔は、どこからどうみても人間の顔だった。


 青紫色の唇、その隙間から、先の割れた真緑の細長い舌をチロチロと覗かせている。


 私は、目を見開いた。


 無数の蛇の眼が、実に無感動な様子で、車内で悶える私を見下ろしている。


「お忘れ物はございませんかぁ?」


 そこでぷっつりと、私の意識は途切れた。


 絶叫を上げる間もなかった。

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