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「私は……私は違う」


 それは、欠如していたと思っていたはずの勇気から出た言葉なのか。それとも、この異様な流れを断ち切りたくて、咄嗟に出た考えなしの発言だったのか。私には分からなかった。ただ分からないなりに、何かを口にしなければという切迫感だけがあった。


「私には、捨てたいものなんて、ない」


「そうですか。今は(・・)そうかもしれませんが、でも、あなたもまた、そうなる運命を背負っているんですよ?」


「でたらめを言うな」


 膝の上で、爪が食い込むほど両手を握り締める。


「家で、家で妻が帰りを待っているんだ。それに原稿だって、仕事だってあるんだ。必ずここから抜け出してやるんだ」


「そう、抜け出すことが大事です。しかし、ウロボロスの腹の中から抜け出すのに、出口を間違えてはいけませんよ。決して間違ってはいけません。間違えたら、あなたはずっと、大蛇の円環を彷徨い続けることになる。正しい出口をどうしたら見つけられるか、その答えを導き出せるのは、あなたしかいないんです。あなたも早く抜け出して、案山子になってしまったほうがいい。全ての人間が、そうあるべきなのです」


「さっきから何をわけのわからないことを!」


 もう我慢の限界だった。


 体の中で爆発した憤怒に押され、顔を上げて拳を振り上げかけたところで、私はまたもや、信じられぬものを見た。反射的に腰を引いて窓際に後ずさった。動いた拍子に股に挟んでいたカメラが音を立てて床に落ちたが、拾う気になどなれなかった。


「あなた、その眼は……」


 驚きのあまり硬直した私を面白がるように、にたりと、老人が笑みを浮かべた。


 三日月に歪んだ老人の瞳。そのかたちが、明らかに人間のそれと異なっていた。


 縦に鋭く長い瞳孔に、濁った黄金色の虹彩。


 それは爬虫類の眼だった。


 蛇の、眼差しだった。


「ご心配なく。昔話よろしく、人を取って喰らおうだなんてしませんよ」


「い、いったい私を、どうする気だ……」


「ですから、貴方を襲う気なんて全くございませんよ。私はずいぶん前から、ずっとこうなりたくて仕方がなかったんです。自分が本当に捨てたいものに、ようやく気づけたんです。それが今の結果なんです。これが、私の最後の乗車になるでしょう」


「何を……何を言っているんだ……」


「そうですか……まだ混乱なされているということは、あなたはもう何回か、このバスに乗って、己を見つめ直す必要がありそうですね」


 老人が寂しげに眉根を下げたところで、バスが急停車した。


 乗降口のドアが、そっけなく開いた。


「お忘れ物はございませんかぁ?」


「それではお先に。一足早く、案山子たちの仲間入りをしてきます」


 蛇の眼をした老人は軽く会釈をすると、頬が裂けるかと思うほど口角を歪めて笑みをつくり、連なる座席の背に手を掛けながら、じりじりと乗降口へ向かっていく。 


 老人が手にしていたはずの杖は、座席近くの窓へ立て掛けられたままだった。


「ああ、そうだ」


 乗降口の手前で、老人がふと口にした。


「今度バスに乗る時は、ちゃんと靴を履いてきた方がいいですよ」

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