若者Aの場合
「なんだかよくわからねぇな」
「そうか」
それは笑っているのかなんなのか、すこし弾んだ声で言った気がした。
だがもう、どうだっていい。
結局、手の中には何もなかった。
でも欲しかったものだけは手に入った気がした。
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下着の上に保温パンツを重ねて履く。
シャツも二枚重ねて着た上に厚手の生地のパーカーを羽織る。
その上からサウナスーツを着る。
それと同時にウンザリした気持ちまで着込んだ気分になる。
深いため息でそれをどうにか押し退けてランニングシューズを履く。
深夜と明け方のすき間にある中途半端な時間であれば走りやすい。
コンビニに納品するトラックの他には、なんの仕事をしているのか想像もつかない人間たちが運転する乗用車が少しいるばかりで、多少の信号無視をしたところで誰に咎められるでもない。
軽い屈伸をしてから走り出す。
足元に絡みつく怠けたい気持ちを蹴り飛ばす。
足のタイミングにあわせて二回吸って、同じように二回吐く。
走るリズムに併せて呼吸するのは、ジムの若手には古い呼吸法だと笑われた。
だがこれ以外の呼吸法を知らない。
身体に馴染んだ呼吸だ。
すでにサウナスーツの中に着たシャツは大量の汗を含んで重くなっている。手足の裾から汗が迸る。目深に被った帽子のツバからも汗が滴っている。
ウンザリした気持ちが全身にまとわりついていた。
それは公園の先にある墓地だか霊園だかにいるらしい。
都市伝説みたいなものだろう。
信じるも信じないもない。
神頼みや百度参りくらいならとっくに終えている。
そうじゃない何かがあるなら、そう思った。
駄目で元々だ。
理由が欲しい。
もう終わりにしたかった。
しかし挫けた、投げ出したと思われるのもイヤだった。
終わりにする理由が欲しかった。
世間体を気にしてそんなものを探している自分に腹が立つ。
厭に明るい月が無神経に見えて腹立たしい。
事故にあえば辞めるのも仕方ないと考えた事もある。
上手いこと車に轢かれる、それでいい。
事故に死ぬのはまだいいと思っている。
しかし片輪になって生きていくのはごめんだ。
轢いた奴がちゃんと死ぬまで轢き直してくれるとは限らない。
深夜と明け方のすき間。
自分だったら轢いたとしても逃げる。
路上に転がった死体。サウナスーツを着ていたら冷えるまで時間がかかるだろうか。
本来は運動なんて嫌いだった。
今はもう走るのを厭だとも思わない。
だが疲れている。ウンザリしている。
投げ出すことがいやだ、その一点だけで走り続けている。
戦う前に逃げたと思われるのがいやだ、その一点だけで練習を続けている。
ストイックだとか精神が強いと言うがそうは思わない。
単に見栄っ張りで、止める決心すら付けられない意気地なしなだけだ。
強くなりたいんじゃない。
それに強さと言うのが何かわからない。
単に腕力が強い事なのか、挫けない精神なのか、それら全てであったり、または別の何かであったり。
坂を駆け降りて長い直線に入る。
間隔の広い街灯に照らされてジジイが現れた時にはギョッとした。
早起きの散歩か、徘徊か。
関係が無い、そう思って無視した。
坂を駆け上がり墓地だか霊園だかに入る。
薄気味悪い。ここでさっきみたいなジジイがいたら驚いて声を出してしまうだろう。
噂に聞いた場所に近づく。
巨大な木の生えた四つ角。
果たしてそれはそこにいた。
こちらに背を向けて月を見ているようだった。
ゆっくりと速度を下げて歩く。
全身から汗が噴き出す。着ているシャツはもはや汗を吸わずサウナスーツの中で身体が泳いでいるような感覚だった。
同じ方向を見てみるが、不愉快な月が浮かんでいるだけだった。
「最強になってどうする」
それは背を向けたまま聞いた。
「見えてるのかよ」
驚いてヘンな声を上げたなかった自分を褒めたい。
「あぁ、そっちを見ているからな」
「は?」
「お前がこちらを見ているのなら、こちらもお前が見えている」
「よくワカんねぇわ」
首に巻いたタオルを絞って顔の汗を拭う。
それが存在していたことも、こうして話していることも当たり前に受け入れていることに気づいた。
それなら、こちらを見ているというのもそうなんだろう。
「でもさっきの質問、最強になってどうするってのは」
再びタオルを絞る。
絞られて地面に落ちていく汗は月あかりに照らされて銀色に光っている様に見えた。
「それもワカんねぇ。金とか女とか権力とか名声とかそりゃあ色々あるのかも知れないけど。復讐とかもそうなのかな」
何に対する復讐だろうか。
今まで自分をバカにしてきた全てと言うのなら、取り返しのつかない過去のせいだ。
「それは最強の副産物でしかないな」
それは突き放すでも、諭すでもない口調で言った。
「ワカんねぇけど、最強になりてぇんだよ」
「その歳になってか」
「この歳だからじゃねぇかな。色々あんだよ」
いまになって欲しいものが子どもっぽいものであるのが可笑しくなってきた。
「もうチャンピオン目指すって歳でもねぇからこそ、な」
帽子を外して被り直す。
そう、最強になりたかった。最強になってみたかった。
その景色。そしてそれを失う恐怖。
最強にしか許されないことを体験してみたかった。
唾も上手く飲み込めなくなっている口で続ける。
「それに」
サウナスーツの中で汗が冷えていく。
「こういうのって、代償みたいなのあんでしょ。寿命とか」
「寿命は結果でしかない」
「なんつーの、ほら、魂とかっていうじゃん」
「あぁ、それを頂く」
「時間とか日時みたいなの決めんの」
「もう決まっている」
「え」
「お前は最強だ」
交差点には誰もいなかった。
月だけが不愉快に輝いていた。
最強以外はみんな雑魚だ。
同じジム生は全員雑魚になった。
ジムの会長すら雑魚に感じた。
当たれば倒せる右ストレートでガードを崩す。
間髪を入れずに叩き込む左フックで昏倒させる。
それだけだった。
相手の動きが全て見えた。
フェイントはフェイントとして見えた。
打ち込む気のあるパンチは止まって見えた。
全てが簡単だった。
他のジムに出向いても同じだった。
道場破りを鼻で笑った4回戦ボーイも倒した。そのジムに所属する現役プロも倒した。
OPBFも大したことが無かった。
世界チャンピオンのいるジムでスパークリングもしたが面白くなかった。
夜中に走るのをやめた。
街に出てはハンチクのグリンゴを殴った。半グレの小僧を殴った。金バッヂを殴った。雑魚を殴った。
いくらでも殴れた。
サンドバッグを叩かなくなった。
街のケンカ自慢を殴った。
噂を聞き及んで出張ったプロモーターも格闘技ジム関連の人間も殴った。
警察官も自衛隊も米海兵隊員も殴った。
それをスマホで録画してる人間も殴った。
スマホを叩き壊した。
走って逃げる奴も捕まえて殴った。
あるいは探し出して殴った。
興行で日本に来ていた外国人格闘家も殴った。
SPも含めてすべて殴った。
殴って殴って殴った。
その日も誰かを何かの理由で殴った帰り道だった。
いやに眩しくて夜空を見上げると満月が輝いていた。
あぁ綺麗だなと思った。2年前は不愉快に感じていたのにと自嘲した。
その時、背後から久しぶりの声が聞こえた。
「迎えにきたぞ」
やっとやめられる、そう思った。




