老人Aの場合
「もう決まっているんだ」
「そうか」
それは背を向けたままだった。
明日か明後日あたりには満ちるであろう月を見上げる。
早かったり下手くそだったり遅すぎたりとする人生だったなと思うが、それは後悔と少し違った。
月が綺麗だと言っても、もう聞いてくれる人はいないと思い、泣いた。
✳︎✳︎✳︎
それは公園の先にある霊園にいると聞いた。
若い頃に流行った、いわゆる都市伝説だとか怪談みたいなものだろう。
馬鹿馬鹿しいと思っていたが、縋れるのなら神でも仏でも悪魔でも良いと思った
駄目で元々なのだ。
いなかったら、その時は帰ればいいだけだ。
杖をつきながら暗い夜道を歩く。
郊外の道は街灯の間隔が広く足元が暗い。
満月に近い夜だが、その月は雲に隠れてあまり明るさは感じなかった。
通過する車のヘッドライトが束の間行く先を照らす。
そしてすぐに赤いテールライトになって遠ざかった。
後ろから荒い息遣いが聞こえたと思うと、振り返る間もなくジャージを着た若者が傍らを駆け抜けていった。
いつの時代でも走ると言う行為は廃れない。
ジムに通う必要も無く、時間さえあれば誰にでも無料できる。
自分にもそんな時代があったけれど、いまはもう三本目の足が無い事にはどこにも行けない。
いや、二本の足だってろくに使えなかったのだ。若かろうと、たとえ翼があろうとどこかへ行けるというのは幻想だ。
耳にうるさいほどの静けさのなか、公園を通り過ぎて大きな墓地のある坂を、ゆっくりと歩いていく。
昔は何となく怖いと思っていた真夜中の墓地も、そろそろ入るのだと思うとあまり怖くない。
もしかしたらそれは自分と言う存在が希薄になっていっているからかも知れない。
いま終わってしまっても、それは終焉と言う読点の誤差範囲内だろう。
街明かりの数だけそこに物語があるように、墓石の数だけそこに物語がある。
そんなことを考えながらひっそりと静まり返った墓地を進む。
四つ角にある、群青色の空に真っ黒な枝を伸ばす大きな樹の下に、それはいた。
安堵と興奮の入り混じった気持ちで歩を進める。
月が雲間から鋭い光を落としていた。
だがそれはその月明かりから外れて、ぼんやりとした黒い影みたいに見えた。
それは樹の下に転がっている石に腰かけているようだった。
興奮。感動。動揺。焦燥。
久しぶりの感覚に身を焼かれる。三本の足で向かう。杖をつく音が弾む。引きずる足音が響く。
それはとうに気付いているだろう。だがこちらを見ようともしない。
それも月を見ているようだった。
曖昧な影のような雰囲気なのでそうとしか言いようがないが、こちらに背を向けて月を見上げているようだった。
月が満ちるのを待っているのだろうか、と思った。
「違う」
それはこちらに背を向けたまま言い放った。
突き放すでもなく、語り掛けるでもない独り言のような具合だった。
「無駄足だよ、お前の場合は」
ずしり、と腹が重たくなった。
思わず杖が止まる。
「そうか」
「お前は遅すぎた」
それはぼんやりとした影のままだった。
「願いを聞くには遅すぎる」
杖を持つ手が震えた。
皺だらけで、乾燥した手は骨に皮が張りついたようだった。
「遅過ぎた、か」
「だからお前の願いは聞けないし、お前の女は助からない」
「それは、わかっている」
だからここに来たのだ。
駄目で元々なのだ。
「先延ばしにもできない。意識が戻ることも、何かを思い出す事もない」
「そうか、駄目か」
わかっていたことだ。
わかっていたことだが、駄目で元々だが。
「お前に子や孫でもいれば話は別なんだがな」
月明かりが自分を避けていくように墓石だけを照らしていった。
「わたしには、もう価値が無いか」
「お前の肉体はもちろん、魂にも価値が無い」
歳を取るもんじゃないな、と思った。
歳相応に生きたつもりだった。
もう少し抵抗していれば、なにか違っただろうか。
「お前と同い年でも肥え太った魂の人間はいる。稀だがな」
それはこちらの疑問には答えなかった。
わざとだろう。
それは背を向けたままだったが、その声は良く聞こえた。
不思議と柔らかさのある声は、一面の赤や黄の上に重ねた黒を思わせた。
「もう決まっているんだ」
「そうか」
こちらを見ようともしないそれの背中に語り掛けるのも妙な気分だった。
しかし不思議と厭な気持ではなかった。
かける言葉もかけられる言葉もなくなった。
踵を返すと、月明かりで自分の影が伸びているのが見えた。
三本の足で歩く背の曲がった影は、醜いとは言えないまでも美しいものではなかった。
煙草が吸いたい、と思った。
やめて久しい。
煙草を止める事で少しは長く生きられるならと思ってやめた。
煙草を吸っていたらどれだけ早く死んでいたのか、止めただけの価値がある日々だったのか、それはわからない。
お前に吸わせた煙草が原因でお前の寿命を縮めたのだろうか。
お前と煙草を吸うその時間に価値はあったが、それは未来を、いや今を犠牲にしてまで味わう幸福だったのだろうか。
後悔とは違う何かが心臓を握った。
杖を持つ手が震えていた。
見上げた月はまだ欠けたままだった。
月が綺麗だね。
そう言っても聞いてくれるひとは隣にいない。




