第282話 片田舎のおっさん、油断する
「ただいま」
「おかえりー」
日が西に傾きかけた頃、ミュイが我が家のドアを開く。そして俺は既に指南を終えて家に戻っており、夕食の仕込みをしながら彼女を迎える。
もはやすっかり日常の一ページとなってしまった一幕だ。魔術師学院の講義がある日は俺が出迎え、休みの日は指南を終えた俺をミュイが出迎える、いい意味で平穏な一日。
実家の道場で過ごしていた頃は、誰かを出迎えたり送り出したりといったことがほとんどなかった。強いて言えば門下生たちを相手にそういうことはやっていたが、それよりも近しい位置に居る人となると、あの頃は両親くらいだったからな。
今まで積み重ねてきた生活とは一風どころか大分様変わりしてしまったけれど、これはこれで悪くない。住めば都……というには少々言葉の使い方が異なるにしても。環境が変わっても、その変わった先が悪いものでなければ人間はいくらでも適応出来る。なんだかそんなことも考えてしまうよ。
「あっちぃ……」
今日も無事の帰宅を済ませた我が家の姫様は、額に小粒の汗をいくつか浮かべていた。
そう。夏である。今年もおじさんには些か厳しい季節が、本格的に訪れようとしていた。
いやまあ、暑い寒いは誰に対しても平等に降り注ぐものではあるけれどね。事象に対する耐性値という意味では、年齢を経るごとに確実に落ちている気がする。
「日も長くなってきたからねえ。水飲む?」
「飲む。ありがと」
まあそんなわけで、俺が暑いと感じているなら当然ミュイも暑いと感じているわけだ。
少しでも暑さを和らげるため、そして水分補給の意味も兼ねて問うと、彼女からの食いつきは上々であった。そりゃここまで暑いと喉も乾くってもんよ。
細かいところだが、ミュイは最近何か人に動いてもらった時、詰まらずにお礼を言えるようになった。
ありがとうとごめんなさいを人に伝えるのは、案外慣れていないと難しい。習慣になっていないと咄嗟に声が出ないというか。
その辺り、ミュイは間違いなく習慣として身に付いてはいなかった。お礼どころか声を荒げて暴れることの方がずっと多かった子である。
それが今や、こうも自然と「ありがとう」を口に出すことが出来ている。大変に良いことだ。
ミュイを見ていると常々思うが、置かれた環境によって人は変わる。それは良くも悪くも。俺自身、アリューシアに呼び出されてバルトレーンに住むようになって、皮肉にも痛感したことでもある。
環境は時として人を殺す。しかし同様に、人を活かす。彼女の変化は今のところは間違いなく後者に転がっているので、とても良いことだと思う。
俺もその環境に活かされた人、になるのかな。今までの環境が悪だったとは間違っても言えないけれど。新たな刺激を受けたという点では、間違いなくプラスにはなるのだろう。
「あー……うめえ」
「ははは」
俺からコップを受け取ったミュイは、ゴクゴクと喉を鳴らして水を流し込む。どうやら思っていたより喉が渇いていたらしい。
「この季節は歩くのちょっとしんどいでしょ」
「ん……まあ、そうなんだけど……自分で決めたし」
ここまで彼女が汗を流し、喉を渇かせているのには理由がある。
単純な話、ミュイは最近馬車での通学をやめたからだ。うちから魔術師学院まで、徒歩で通うようになった。
勿論、もともと歩けない距離ではない。しかし、馬車に乗った方が確実に楽ちんだと感じる距離ではある。それを彼女は歩いている。学院の授業がある日は毎日。
具体的にいつごろからそういうことを考え始めたのかは知らない。知らないが、人間なんてのは大抵そんなもんだ。唐突な思い付きかもしれないし、今までじわじわと積み重なってきたものが発露した瞬間がたまたまその時だった、なんてこともある。
ただ、その理由が少しでも足腰を動かしたい故と聞いた以上、俺から反対することはなかった。つまりそれだけ、彼女が剣を振ることに対して真摯に向き合っているということに他ならないからだ。
曲がりなりにも剣を教える先達としては、これ以上に嬉しいことはない。俺の教えが、剣に対するモチベーションを上げている。
つまり剣の教え方としては間違っていなかったと、幾ばくかの自信と確信を得ることが出来るわけだ。
まあ、父親代わりとしてこれが正しいのかは分かんないままだけどさ。でもそれを言うと俺のおやじ殿だって、父親として正解だったかは結構怪しいと思う。あの人めちゃくちゃ厳しかったからな。
「腹減った」
「はいはい、もう少し待っててね」
「うん」
とはいえ、少しでも日頃の運動量が増えると、当然相応に腹も減る。うちのお姫様は早めの夕餉をご所望であった。
我が家での役割分担は結構はっきりしていて、不測の事態が起きたならともかく、基本的には任された側が一から十までやることになっている。
まあたまに手伝ったり手伝ってもらったりすることはあれど、基本的には一人だ。そして料理については互いに素養も経験もあまりないものだから、結構自由気ままな食卓になる。俺が以前、西区に寄ったついでに魚を発見してそれを飯にした、みたいな感じ。
俺もミュイも、あまり好き嫌いがないのも大きいだろう。特にミュイは食べられるものなら基本的になんでも食べる。別に悪いものを食わせるつもりはないが、好き嫌いがないのは良いことだと思う。
是非このまま好きな食べ物だけを増やして頂きたい。そのための稼ぎはあるからね。稼ぎだけでなく、レシピ自体のレベルを上げないといけない、というのはその通りだけれども。
「よ……っと」
さて、考えるのも程々にして夕飯の準備に取り掛かろう。
肉の塊をドンと置き、包丁を滑らせる。同じ刃物ではあるが、剣と包丁では随分と扱いが違う。ただミュイと暮らすようになってからは、そのスキルも多少は身に付いた。
実家では料理の番は専らお袋の仕事だったからな。この年になってから改めて、そのありがたさを痛感しているよ。
「焼くのと煮るの、どっちがいい?」
「んー……焼いた方」
「分かった」
出来ることと言えば、ミュイとあまり変わらない。焼くか煮るかくらいである。どうやら今日は焼き肉をご所望らしいので、気持ち厚めにスライスしていくとしよう。
「……あ、そういやオッサ――」
「あぃってッ!?」
「ッ!?」
で、肉をショリショリと切り分けていたのだが。
ミュイから話を振られてそっちに意識を持っていった直後。どうやらそれまで見ていた景色と指の感覚が僅かにずれていたようで、少しばかり指の肉に包丁が食い込んでしまった。思わず口を突いて出た声に、ミュイが反応する。
「どしたの」
「いや、指をちょっと切っちゃったかな。おぉ、いてて……」
まあ幸いながらそんなに深く食い込んでもいないし、放置していても一日二日で治る傷だ。俺のお袋だって時たまこういうことがあったんだから、自炊をし始めた中年男にこれが起こらない保証なんてどこにもない。
勿論気を付けてはいるつもりだけれど、人間どうしてもそういうミスはある。それが俺の場合はたまたま今日この時だったというだけだろう。
これでミュイを叱るのも違うしね。あくまでやらかしたのは俺の不注意であって、彼女が話しかけてきたからではない。
「……ごめん」
「大丈夫大丈夫、俺の不注意なんだから」
「そう……」
後ろでミュイがぱたぱたと動き出す気配。ポーションでも探そうとしているのだろうか。
だが本当に軽傷中の軽傷なので、ミュイが気に病む必要はない。ぶっちゃけ剣の訓練や実戦でこれ以上の傷をごまんとこさえてきた身だからな。確かに痛いことには痛いが、流石にこんなちっぽけな切り傷で動揺していては剣士失格である。
でもこういう小さい傷って、割と沁みたり気になったりするんだよなあ。あまり思い出したくないし味わいたくもない感覚だけれど、なっちゃったものはしょうがない。剣を握る感覚が失われなければそれでよいのだ。
「はー……こっちこそごめんよ、叫んじゃって」
「……別に。指切ったら痛えだろ。気にしてない」
「そっか」
とはいえ、情けない声をあげてしまったことと、それをミュイに聞かれたことは若干恥ずかしくもあった。
鍛錬中とか試合中とか戦闘中とか、怪我も已む無しと捉えている時は咄嗟の痛みにも一時的に耐性が付く。
しかし、こういう日常の中で不意に食らう負傷ってのはマジで痛い。思わず叫んでしまうくらいには痛い。そのダメージを身体と心が想定していないから。
「ミュイも料理中は気を付けるんだよ」
「……アタシの方が包丁使うの上手くね?」
「……いや、そうかもしれないけど……気を付けるに越したことはないから……」
一応俺の怪我を他山の石として、ミュイにも注意喚起を行ったところ、存外に鋭い返しが良い角度で入った。
即座に否定出来ないのがまた哀愁を誘う。料理をし始めた頃なんて俺の目から見ても危なっかしかったもんだが、今では結構スイスイと包丁を扱えているからね、ミュイは。
でも大体思わぬ事故が起こるのはそういうタイミングである。少しばかり慣れてきて、俺も案外いけるじゃん、と思い始めた時が一番危ない。それは剣の道でもそうだし料理の道でもきっとそう。魔術は分からないけど多分そうだろう。
その意味で言えば、俺も料理に関してはそんなタイミングだったのかもしれない。包丁で食材を切る日々が身に沁み込んできた頃合いで、小さな事故が起こった。俺自身もこれを一つの経験として、忘れずに過ごしたいところ。
「まあ、アタシも手切りたくないし……気を付ける」
「うん、そうだね」
誰だって不要な怪我は御免だ。そもそも有用な怪我というのもおかしい話だけどさ。なので彼女は彼女でしっかり気を付けてくれることを願う。
しかしまあ、いい歳こいた中年が料理中に指を切るってのは、なかなかに情けない気がしてきたな……。ミュイは俺のだらしないところや恰好悪いところも知っているわけだけれど、そのレパートリーを増やしたくはない。
別段プライベートの空間で気を張る必要はないにしろ、ありのままの姿とダサい姿というのは、厳密にいえば少し違うと思っている。
別にそれだけでミュイが俺に愛想を尽かすとか、そういう話ではない。仮にも父親代わり、そして剣を教える先達としての恰好悪い姿は見せたくないなという、ちっぽけな意地である。
こう思えるようになっただけでも、いくらかは精神の成熟が進んだと言えるのだろうか。その辺りはちょっと分からないままだ。
「さて、気を取り直してっと――」
「……代わろうか?」
「大丈夫だから!」
「ふぅん。じゃあいい」
本当に大した怪我ではないので、料理を再開しようとしたところ。ミュイから交代の申し出が入った。
肉を捌くのに失敗して指を怪我して、ミュイにバトンタッチとかダサすぎるだろ、それは。なのでお気持ちだけありがたく受け取って辞退だ。
それにミュイの方も、本当に代わろうとは思ってないように見えた。何なら目付きがちょっと怪しい。これは俺を揶揄おうとしている顔だなってことくらいは流石に分かる。
俺と暮らすようになって、魔術師学院に通うようになってから。彼女はこういうニクい表情も時たま見せるようになった。これもまた、大変に喜ばしいことだ。
手はじんわりと痛いけれど、また一つミュイとの距離が少し縮まったと考えれば、いうほど悪い成果ではないだろう。いや痛いは痛いんだけどね本当に。
お待たせしました、第十章開幕となります。
更新は今後隔週を予定しております。再びお付き合い頂けますと幸いです。




