第266話 片田舎のおっさん、想起する
「よし、行こう」
「はい!」
互いに最終の意思確認を取り、いざ洞穴の外へ。
やはり来た時と同じように、気配は感じない。その姿を消せるモンスターのみならず、他の生物の気配もとんと見当たらない状況に、変わりはなかった。
ただ来た時と違い、この気配のなさの要因が確定したのでその時以上に油断は出来ないけれどね。どこかから気配が生えてきたならば、十中八九そのモンスターである。警戒を厳として進むしかない。
「改めて思うと、本当に不気味だね……」
「私も気付くまでに時間を要しました。……なまじ気配がない分、探索役がやられたとも言えます」
「確かに……」
探索役というと、ポルタのチームではサリカッツが担当していたのだったか。文字通りチームの安全確保のため、周辺の探索や偵察を行う役割の冒険者。
サリカッツの場合、気配の数によって光り方が変わる魔装具を補助として使っていたけれど、それにこいつが反応するかはちょっと怪しい。相手も魔法を使うのなら、その影響から逃れる手段もあるべきと考える方が自然だろう。
そしてそんなやつが居るなんて想定は、普通しない。生物である以上、どう頑張っても微小な気配は漏れるものだ。探索役としてそれを熟知しているからこそ、逆に虚を突かれてやられてしまったともいえる。
「パウファード……気張れよ……!」
陣形としては俺が先頭を進み、スレナが後方警戒。真ん中にパウファードを背負ったピスケスを挟む形だ。というか、これ以外の陣形を取りようがないとも言う。一番守られるべき人は一番中央に据えなきゃいけない。
そのピスケスは、既に意識を失っているパウファードを相手に時折呼びかけながら、俺の後ろに付いている。
先ほど渡したポーションは彼にも使われたが、まあポーション一つで快復するのなら重傷者とは呼ばない。命はなんとか繋がれているものの……といった感じ。
むしろ碌な道具もない中で、パウファードもよく粘っている方だと思う。この辺りの単純な生命力の強さという点においても、彼もまた優秀な冒険者なのだろう。ますます死なせるわけにはいかないね。
「俺が来た道をそのまま戻る。さっき通ったばかりだから道も覚えているし、目立った外敵は排除しながら来たから」
「ええ、お願いします」
結果的に、襲い掛かってきた小物をしばき倒しながら進んできたのは正解だったな。余計な相手に気を取られずに済む。
洞穴を出てすぐに襲われる気配がなかったことから、恐らくテリトリーを抜ける間際で襲撃を受けることが予想される。
しかし気配である程度分かるとはいえ、縄張りの境目は目で見えるものじゃない。つまり、今はまだ安全だねと気を抜くことなんてもっての外。どんなイレギュラーが起こるか分からない以上、一瞬たりとも気は抜けない。
「一応聞くけど、そいつの見た目は分かるかな」
「黒くて大きい、ということくらいです」
「黒くてデカい、ね……」
情報としてはひどく乏しいが、まあ普段から消えているのなら見る機会なんてそうそうないだろう。攻撃を受けた瞬間に分かる相手の輪郭といえば、色とサイズくらいではある。
ただ、デカいというのは予測出来ていたはいたものの厄介だ。百歩譲って消える能力を持つモノが居たとして、普通は外敵に見つからず生き延びるため、とか考えるだろ。デカくて強くて消えるって、やっぱり大分ずるい気がするよ。
「……」
アフラタ山脈は少なくとも俺が目にした限りでは、どこでもそう景色は変わらない。平原ほど視界が広いわけでもなければ、森ほど鬱蒼としているわけでもない。日は傾いてこそいるが、まだ出ている。
つまり、黒くてデカいやつが出てくれば一瞬で分かるし、何なら多少遠くに居ても分かる。それが本当に見つからないということは、本当に消えているんだよな。
スレナが嘘を吐くわけがないと分かり切っているとはいえ、やっぱり直接接敵してみないことには、いまいち実感が湧かない。
「――! ピスケス! 伏せろ!!」
「っ!?」
そんな、少々呑気なところにまで考えが及んだ瞬間。俺の五感は幸いながら、まだギリギリのところで健在だった。
強烈な違和感を感知した直後、危機回避のために叫ぶ。後ろを振り返る間もないが、彼が俺の言葉を受けて、ほぼ反射に近い速度で動いたのは分かった。やはりピスケスも優秀だ。
「ゴアアッ!!」
違和感を覚えた方角に向けて、剣を翳す。
すると目の前に広がる山肌から、本当に何の前触れもなく。黒くてデカいモンスターが、突如として姿を現し。
その鉤爪が振り回される瞬間を、俺の目が確かに捉えた。
「くおっ……!?」
見えた刹那には、既に横から薙いでいる。当然そんなものを躱して、あまつさえ反撃を差し挟むような暇はない。眼前に迫った脅威から身を守るために、剣を添えるのがやっと。
赫々の剣は確かに、そいつの攻撃を受け止めてくれた。しかし、その衝撃に俺の身体が耐えられるかどうかというのはまた別の問題である。
もとより膂力という面で敵うとは考えていなかったが、それでも想定より遥かに重たい一撃は、俺の身体を容赦なく地から浮かせた。
「っとぉ!」
吹っ飛ばされた力に逆らわず空中でひねりを加え、なんとか着地を取るものの。空と地面を視界に収めた直後、そいつが本来居たはずである場所には、何の跡もなく。
ただ微かに生じた気配の残滓のみが、その存在を強烈に知らしめているにとどまっていた。
「……一撃で退いた……?」
連撃を仕掛けられたらどうしようかと思ったが、幸いそうはならず。大急ぎで態勢を整えた後に、向こうからの追撃が飛んでくることはなく。
攻撃を受ける一瞬だけ確かに見えた姿と感じられた気配は、忽然と消えてしまっていた。
「……あんた、よく分かったな。助かったよ」
伏せた姿勢から起き上がったピスケスが、驚愕と謝意を伝えてくる。
俺は別に襲われる直前に気配を察したわけじゃない。正確に言えば、気配を感じるちょっと前から、その存在に気付いていた。まあ結果的にただの勘が当たったみたいな感じにはなったけれどね。
「音がね、したんだ」
「音……?」
音。つまり、やつが飛び掛かってくる前に地を蹴った音が俺の耳に届いていた。
ここにきて、分かったことが一つある。
やつは、気配と姿を消せる。それは間違いないだろう。実際、俺も攻撃の瞬間まで気配を感じられなかった。別に俺が最高峰の剣士だとまでは言わないが、俺やスレナで感じ取ることが出来ないとなれば、それはもう消えていると言っても過言ではないと思う。
ただし。こいつは姿と気配を消せるだけであって、存在そのものがこの世界から消えているわけではない。地を蹴ればその衝撃は伝わるし、なんなら草原や森の中を歩いていたら足音だって立つだろう。
こいつが何故、アフラタ山脈という場所に棲んでいるのか、その理由の一端が見えた気がした。硬い山肌の上でなら、歩くだけで存在を気取られることはあまりないだろうから。
更に、消えたままでは攻撃が出来ないということも、恐らく確定事項として捉えてよいものだと考えられる。
ずっと姿を消すことが出来るのなら、そのまま不意打ちすればそいつは即ち無敵である。でもそうしないからには、攻撃と隠密を両立出来ない何かがあるはずだ。さっきの攻撃を躱せた理由にしても、音で前兆を感じ取れたのは勿論だが、攻撃が当たる直前にギリギリ視認出来たというのが大きい。
「先生、大丈夫でしたか」
「ああ、今回はね。ただ……ずっと凌ぐのは難しそうだ」
スレナが心配というより、確認といった形で話しかけてくる。
今回は無事に凌げた。明らかに俺が態勢を崩していたのに追撃してこなかった理由ははっきりとしないが、凌げたことには変わりない。
他方、一回防げたから次も大丈夫だよね、とはならないのが戦闘の難しいところ。向こうにもし知性があれば、何故防がれたのかを考えるはず。別の攻撃手段を持っている可能性だってある。
「……」
「……先生?」
「あ、ああ。すまない。先を急ごう」
敵方の戦力分析を進めている間、どうしても引っ掛かりを覚えて、思わず黙りこくってしまった。今は頭も身体も止めている余裕はない。考えながら動かねば。
攻撃の刹那で僅かに、しかしはっきりと視界に捉えた巨躯。
スレナの言う通り、かなりのサイズはあった。ざっくりだけどゼノ・グレイブルと同じくらいか、それよりももう一息、横にデカい感じがする。全長は大差ないが、より筋肉質な印象を受ける体躯であった。
色もまた漆黒。ただし全身真っ黒というわけではなく、爪や翼などの一部は赤味を帯びた色合いを持っていた。黒をベースに赤を差し色とした、まあ割と禍々しい見た目である。
「……まさか、ね」
見れたのは一瞬。如何に俺の目が優れていたとしても、その瞬間だけで相手の全貌を見渡すのは難しい。
けれど、どうにもちらつくのだ。記憶の片隅に追いやった過去の苦い記憶と、先程奇襲を仕掛けてきたモンスターとが。
「今更だけど、あいつは……特別討伐指定個体なのかな」
「はい。イド・インヴィシウス……神出鬼没の特別討伐指定個体として、存在自体は確認されていましたが……今まで碌な目撃情報もなく」
「そうか……」
イド・インヴィシウス。当然ながら、名前に聞き覚えはない。
普通はあんなもんが闊歩していたら、一瞬で発見されるし一瞬で注目される。それが今まで碌な目撃情報もなかったということは、やっぱり普段から消えているんだろうな、あいつは。
「ふぅー……」
嫌な結び付きを感じ、思わず長い吐息が漏れる。
あの頃の俺は何処に何が居て、どういう相手や環境が危険なのか。そんな情報すら得ず、いたずらにどこまで戦えるのかを考えていただけだった。まさしく若気の至りというやつだ。
まあその結果ボコボコにされてというか、這う這うの体で逃げ戻ってきたんだけどね。
今思えば随分な無茶をしていた。事前の下調べもせず、随伴も付けず、ただ己の剣のみを過信して、アフラタ山脈へと足を踏み入れた。剣術の腕前も、当時は今と比べて随分と未熟であったにもかかわらず。
まったく、よく生きて帰ってこれたものだ。掛け値なしに運が良かったとしか言えない。
「多分、あいつは……ずっとアフラタ山脈を縄張りとしているんだろうね」
「そう考えられてはいますが……詳しいですね」
「なに、当てずっぽうなただの予想さ」
一度記憶と紐づいてしまえば、それ以上考えるなという方が難しい。
俺はやつと、イド・インヴィシウスと邂逅したことがある。それも、随分と若い頃に。




