第255話 片田舎のおっさん、茶を淹れる
「ふぅ、流石に動いた後は暑くなってきたな……」
昼下がりのバルトレーンを歩く。今の季節は春真っただ中、を少しだけ過ぎたあたりだろうか。過ごしやすく温暖な気候が続く時期ではあるが、やはり運動をした後だと少し汗ばむ。
ミュイと一戦交えた後、ルーマイト君をはじめとした幾人とも手合わせを行った。無論負けはしなかったけれど、皆の成長を改めて肌で感じることが出来た、いい機会であったように思う。
ルーマイト君も剣魔法を出すまでの溜めが短くなっていたように感じたし、ネイジアなどは更に剣術に磨きがかかっていた。彼はもうちょっと魔法の方も頑張るべきだとは思うが。
そうして充実した時間を過ごしていると、講義の終了時間まではあっという間だ。めでたく本日のお役御免となった俺はこうして帰り道を呑気に歩いているわけである。
「はあ、風呂が恋しい……」
とぼとぼと歩くわけにはいかないので背筋はしゃんと伸ばしているのだが、内心漏れ出る愚痴ばかりはどうしようもない。徐々に暑くなってきたこの時分、思い出されるのは風呂でさっぱりした後にエールを流し込んだ、フルームヴェルク領での一幕であった。
いやまあ、過ぎた願望であることは重々承知しているんだけれどもね。それでも一度味わってしまった贅沢を思い起こさないようにする、というのはなかなかに無理がある。
うちに新しく風呂を敷設するのは流石に無理だ。空間もお金も足りないしそもそも維持が出来ない。かといって、バルトレーン内に風呂屋があるという噂も聞いたことがない。
正確に言えばあるにはあるのだろうが、俺ごときが個人で利用出来るレベルにはない、ということだな。それこそ貴族や王室の方々が過ごす場所にはあるはずだ。そこに乗り込むわけもいかないし。
まあ蒸し風呂屋が繁盛しているだけでも十分と思うしかない。贅沢を覚えすぎると碌なことにはならんなと、気持ちを新たにさせてもらったよ。
「今日はのんびり過ごすかなあ」
街並みをゆるりと歩きながら、この後の過ごし方について考える。
基本的に学院での講義がある時は騎士団庁舎での仕事はしていない。やろうと思えば出来なくはないのだが、あっちで教えてこっちで教えてってのは案外疲れる。
アリューシアからこの動き方については許可も貰っているし、幸いながら今は無理をしなければいけないタイミングでもない。
先般スフェンドヤードバニアで起きた事件はそりゃ大きかったが、まあ言うなれば他国での出来事だからな。レベリス王国の騎士団が、もっと言えば俺が介入出来る余地というものはほとんどないのだ。
騎士団での鍛錬についても、ヒューゲンバイトへの遠征こそあったものの、その後は概ね通常運転である。アデルやエデルをはじめとした新人騎士たちも少しずつ環境に慣れてきている、といった頃合い。
一つあるとすれば、例年の恒例行事となっているスフェンドヤードバニア使節団の来訪だが、これも現状ではちょっと難しいだろうなと思っている。
向こうは今、内政の立て直しに必死だ。加えて、教会騎士団も再建し切ったとは言い難い。勿論国家間のやり取りだし俺の予想がすべて当たるわけではないにしろ、この状況下で呑気に他国へ外遊となると、ちょっと評判的にはよろしくないんじゃないかなと感じるね。
この辺りは情報が入り次第共有はされるだろう。特にアリューシアやヘンブリッツ君といった騎士団上層部にその情報が流れてこないってのは流石にあり得ない。
俺は前回護衛として参加しているから、除け者にはされないはず。時期的にはそろそろだから何かしらの情報があってもいいとは思うが、今はその情報が降りて来るのを待とう。
なので今俺が出来ることは、明日からも引き続き元気よく皆を指導出来るよう鋭気を養うことと、これから学院の講義を終えて戻ってくるミュイのためにご飯を用意しておくことだ。
ちなみに。季節が巡ったからか、魚は市場から随分とその姿を消した。いやまあ、探せばどこかしらにはあるんだろうけれど、流石にこれからの季節で生鮮食品を求めるのは値が張り過ぎる。この前に西区でちらっと見かけた限りでは、既に冬の時の二倍近くの値が付いていた。
ミュイも魚の味を気に入っているようだし、たまのご褒美で買うくらいは出来なくはない。だが日常的に魚を食卓に並べるのは結構非現実的だ。今後の貯えを一切無視すれば出来るが、そこまでして魚介類に拘る理由はちょっとないからな。
やはり庶民の味方は芋である。あいつは安くて美味くて腹持ちもいい万能食材だ。無論そればかりというわけにはいかないにしろ、うちの食卓は結構な割合で芋に頼ることになっている。俺は芋の味も好きだけどね。
「……っと、あれ?」
さて、それじゃあ今日の飯はどうしようかと考えながら歩いていると、あっという間に我が家だ。
中央区の一つ外れた区域に小ぢんまりと建っている元ルーシーの別宅現我が家。その玄関前に、一人の女性が佇んでいた。
「スレナ?」
「あ、先生。お疲れ様です」
「あ、うん。お疲れ様」
その女性は冒険者ギルドに所属するブラックランク、スレナ・リサンデラ。こちらから声を掛けると、彼女はさっと姿勢を正して挨拶をかけてくれた。
「どうしたんだい、こんなところで」
「先生にご連絡がありお訪ねしたのですが……丁度ご帰宅でしたか」
「うん、見ての通りね。しかし……連絡?」
「はい」
用件を尋ねてみると、どうも俺に連絡事項があるという。
うーん、なんだろう。まさか過去に行った、ポルタたちのような新人冒険者の監督ってわけじゃないだろう。それなら前回のように俺の自宅ではなく騎士団を訪ねるはずだ。アリューシアに話を通した方が色々と早い。
「内容は気になるけど……とりあえずうちに入ろうか」
「ありがとうございます。お邪魔します」
とはいえ折角訪ねてくれたのに、その用件も聞かず追い返してしまうのは良くない。何より、スレナは大切な子だから無下にしたくないのもある。依頼ともお願いとも言わずに連絡といった以上、そう無茶な内容でもあるまい。
しかし一方、スレナからわざわざ連絡を受けなければならないことにはまったく心当たりがないのも事実。
仕事的な意味で言うなら、それこそアリューシアなり騎士団を通した方がいいのだから、恐らく個人的なものだろうということは予測が付く。ただその個人的なあれやそれやにてんで見当がつかない、というのが正直なところ。
「まあ掛けて。……出せるものもこれといってないんだけどさ」
「いえ、お構いなく」
狭くもないが広くもない我が家へスレナを迎え入れ、かといって訪ねてきた客人に何も出さずというのもな……と考え。ひとまずは彼女を席に着かせ、お茶の用意を始める。
お構いなくとは言われたものの、それを真に受けてじゃあ何もなしでいいよね、とまでは流石に思えない。といっても、本当に出せるものは碌にないんだが。
少量の水を手早く沸かせ、茶葉を用意する。
俺はあまり茶を好き好んで飲むわけではないが、流石にずっと白湯だけというのも味気ない。俺一人ならそれでもよかったけれども、ミュイが居るとその辺りにも多少金と手間をかけようと思うようになった。
とはいえ、俺には上等な茶の見分け方も淹れ方も分からない。
ルーシーの家で飲ませてもらった紅茶も美味しかったが、あれはルーシーやハルウィさんといった、ある程度その道を識っている人だからこそ淹れられる物。俺などが背伸びして高級品を買ったところで、無駄にする未来しか見えない。
なので今、俺の家にあるのは西区の店で適当に買った安物なのだが、それでもやっぱりただ水を飲むよりは風情があるね。
独り暮らしなら、こんなもん手間しかないじゃないかと考えていたと思う。事実ひと手間はかかるし、安いとはいえ出費には違いない。
けれど、ミュイへの教育だとか影響だとかを考えれば、そのひと手間も大して負担にならないのだから不思議なものだ。そしてそれは、スレナが相手でも変わらない。
「お待たせ。どうぞ」
「……ありがとうございます。いただきます」
彼女と俺の二人分の茶を拵えて、俺もテーブルへ着く。
思えば、誰かを家に招待した経験ってやつは今まで生きてきてほとんどなかったな。道場の門を叩く者は結構な数居たけれど、別に我が家に招待したわけじゃないし。そもそも頻繁に来客が来るような立地でもなかった。
騎士団の特別指南役としてバルトレーンにやってきてからも、しばらくは宿暮らしだった。そしてルーシーのおさがりとしてこの家を貰った今も、基本的に来客はない。まあこっちに関しては俺があまり家のことを知らせていない、という事情もあるにはあるが。
「随分と暖かくなってきましたね」
「ああ、まったくだ。寒いよりはマシとはいえ、本格的に夏がやってくるとなれば、老身には堪えるね」
「老身などと。先生はまだまだ現役ではないですか」
「ははは、今はそうだけどねえ……」
今日に限って言えば、俺には時間がある。この後の予定なんて日常的な家事くらい。スレナも、そう喫緊で伝えなければならないというわけでもなさそうだ。彼女の性格からして、本当に急ぎなら雑談を挟まずに内容を伝えるはず。
しかし茶を一口含んだ後に紡がれたのは、最近の天候に関すること。つまり俺にもスレナにも今日は時間がある。であるならば折角の機会だ、二人きりでゆっくり話すというのもたまにはいいものだろう。
「それでもいずれ動けなくなる日が来る。うちのおやじのようにね。そしてその時が訪れるのは、確実に君たちよりは早い」
「それはそうですが……」
微妙な答えを返したスレナからは、師の衰えを認めたくないという感情が容易に読み取れた。なぜなら、俺もかつてそう思っていたからである。
おやじ殿はずっと強いものだと完全に思い込んでいたからね、俺は。実際俺はおやじ殿との打ち合いを制したわけだが、じゃあ正確にいつの時点でおやじ殿を追い越していたのかというのは結局分からないままだ。きっと文字通り、いつの間にかというやつなのだろう。
今ではそのことに納得している。俺もおやじ殿も自分で出来る範囲の鍛錬は怠っていなかったが、寄る年波にはどうしても勝てない。
俺もスレナもアリューシアも誰も彼も、いずれいつかは剣を置く。現時点での年齢を考えれば、その未来が一番近いのはどう考えても俺なのだ。
「勿論、出来る限り抗ってやろうとは思っているけどね」
「ええ、是非そうしてください」
「ははは。頑張るよ、それなりには」
スレナから寄せられる信頼は喜ばしくある。一方で、ちょっと重たい。
当然ながら俺とて、今日明日で剣を置くつもりはさらさらない。何なら後十五年くらいは剣を振っていたいと思っている。
とはいえ、俺のおやじ殿が腰痛に倒れたように、俺にもそういう不幸なことが起きないとも限らないのだ。勿論それらを防ぐ努力は続けていくが、先のことがどうなるかなんて分からないからね。
そしてその先行きの不明瞭さは、年齢を重ねるごとに色味を増していく。こればかりは如何ともしがたいこと。
まあその理に真っ向から逆らっているのがルーシー・ダイアモンドという魔術師なのだが、あれはあれで規格外なのでなんの参考にもならん。俺は究極的に言えば、剣に自信があるだけのただの一般人なのでね。
「……そういえば、前回伺った時にも思ったのですが」
「ん?」
「こちらの押し花。良いものですね」
「ああ」
彼女がうちの家を訪ねてきたのは今回で二回目。前回はミュイと一緒に過ごしていたから、二人きりで会うのは結構久しぶりになる。
そんな彼女は我が家で良い意味で異彩を放つ押し花に、しっかりと気付いていた。
いや本当に良い意味で輝いているからなこれは。フルームヴェルク領からの帰り際、シュステから手渡された手製の押し花は、今でも変わらず我が家のリビングを彩っている。
基本的に俺もミュイも実用品以外に興味がないもので、特に美術的な観点でのアイテムはほとんど我が家にない。それで何も不自由がないからだ。
しかし流石にそんな俺といえど、シュステ手ずからの品をおざなりに扱うことは出来ない。資産的価値うんぬんの話ではなく、単純に人道に悖る。
「フルームヴェルク家のご息女に頂いたものでね。我が家の数少ない彩りだよ」
「なるほど……良いものです。花の選定、色使い、置き方……作り手の拘りが見えますね」
「はは。スレナはやっぱり花が好きなんだね」
「え、ええ。お恥ずかしながら……」
「恥ずかしがることなんてないさ。君は花が似合う子だ。今も昔もね」
「あ、ありがとうございます……」
押し花の入手経路を伝えると、何とも彼女らしい感想が飛び出した。
今の強気な態度と立場から周囲には誤解されがちだが、もともとスレナは結構繊細なタイプである。現在でもその繊細さが失われたわけではなく、その上を強固な外骨格が覆っている形。
ブラックランクの冒険者ともなれば、繊細な一面を出すことが許されない場面なんていくらでも想像出来る。それもまた一つの処世術と言えるのだろうな。
ただまあ、どこからの目線だと他人には思われそうだけれど。
二人で語らう時くらい、その殻を脱いでもいいんじゃないかとは思うのだ。実際、今の彼女は和やかな表情と声色だしね。そんな相手と空間が、一つくらいはあった方がいい。
その一つに俺がなれているのであれば、それはやはり、師匠冥利というやつなのだろう。彼女を剣術の弟子と呼ぶかどうかはともかくとしてね。
「そ、それで。今回お訪ねした件ですが」
「おっと、そうだった」
気恥ずかしさからか、スレナは多少ぶった切る形で話題を変えた。まあ元々その話題が本命だったからいいんだが。
「しばらく、長期の依頼に出向きます。……危険度も高く、念のためにお伝えをと」
「……ふむ」
姿勢と声を正したスレナから齎された情報。
そうか、わかった、と。二つ返事で送り出すには、少々気になる空気が漂っていた。




