第209話 片田舎のおっさん、大聖堂に臨む
「おぉー……」
拝廊手前の教会騎士に愛剣を預け、サン・グラジェ大聖堂の建物内に一歩入った先。最初に出てきたのは、感嘆の溜め息。
まず天井がとんでもなく高い。そりゃ外観から背の高い建物だというのは分かり切っていたことなのだが、それでも外目から見るのと実際に中に入って見上げるのとでは、文字通り天と地の差がある。
まともに見上げれば首が痛くなるほどの高さ。しかもただ高いだけではなく、内壁の一つひとつが緻密な計算のもとに積み上げられているんだろうなと、芸術や建築に学のない俺でもなんとなく分かるくらいだ。
とても手が届きそうにない場所に規則正しく並んでいる採光窓もその一つ。あんな場所にどうやって窓を設置したのか、素人の俺ではそもそもその方法すら分からない。けれど、今日の天気も相まってそこから室内に差し込む光は、月並みな言葉ではあるがとても神秘的に見える。
総じて、極めて高い技術と芸術性に裏付けされた、大聖堂の名に相応しい建物。一歩足を踏み入れてまず漏れ出たのは、そんな感想であった。
「これほどとは……素晴らしいですね」
「ああ、まったくだよ」
どうやらアリューシアも俺と大体同じような感想を抱いたらしい。まあ片やその神秘さに触れつつも平静を崩さない麗しき騎士団長、片や情けなく口を開けて呆けているおっさんという、見た目的な差は酷いものがあるけれど。
「入ろうと思えば何人でも収容出来そうだ」
俺たちが今立ち入ったのは身廊のまだ入り口部分。しかしこの時点で既に相当な幅と奥行きがある。無論、このような神聖な場所で人がごった返す事態はあまりないだろうが、それでもギチギチに詰めたら一体何人の人間が入れるんだという広さである。
視線を奥の方にやると、とてつもない長さの身廊の末にクワイヤがあり、その奥にやや段差のあるスペースがある。めちゃくちゃ失礼な表現をすれば、物凄く上品なお立ち台みたいなやつ。きっとあそこが、この教会におけるサンクチュアリなのだろう。
あの場所できっとグレン王子とサラキア王女は夫婦としての契りを交わす。その光景は想像するだけでも実に神聖的だ。
別に俺自身が特別王子や王女に思い入れがあるわけではないにしろ、いざそのシーンを迎えると感極まってしまいそうな雰囲気すら感じるね。それ程までに、このサン・グラジェ大聖堂という空間は良い意味で異質であった。
「剣は……ちゃんとあるようだね」
「ええ。ひとまずは安心といったところでしょうか」
身廊の方から視線をずらすと、これまた広い側廊が目に入る。とは言っても本通りとなる身廊よりは天井も低く幅も狭い場所だが、基準がそもそもバカでかいので側廊もめっちゃ大きい。なんだかこの空間に居るだけで脳みそがバカになってしまいそうだ。
そしてその側廊には、入場者からお預かりしたであろう剣が小奇麗な台の上に載せられていた。
てっきり樽みたいなものにがさっとまとめて入れられるんだろうなと思っていたのだが、これは少々意外というか、想像よりも大分丁寧に扱っていただいている印象である。まるで小ぢんまりした武器の展示会のような様相を醸し出していた。
その台の両端には、入り口の教会騎士が言っていたように武器の監視を務める騎士が二名、配置されている。
単純にあそこに近寄って武器を手にすることは出来るだろう。だが、側廊は普通にここからでもばっちり見える場所である。あの騎士二名のみならず、衆人環視の中で誰にも見つからずにあそこから盗みを働くのは至難の業だ。
時間と状況が許されるのなら、他の皆がどんな武器を愛用しているのかじっくり見学と洒落込みたいところ。まあ間違ってもそれが出来る状況ではないので、遠目にちらりと見るに留めておくけれども。
「どこに座るのかは自由なのかな?」
「そのようですね。特に指定もありませんでしたし」
気を取り直して視線を戻す。身廊には中央の通り道を開けて、左右に長椅子が配置されていた。
これが元から礼拝用に配置されている椅子なのか、王子王女の結婚式のために準備された物なのかは分からない。どちらにせよ座り心地はともかくとして、高級そうだなあとやや間抜けな感想が思い浮かぶ程度には、しっかりした椅子という印象だった。
「団長、ベリル殿。おはようございます」
「ええ、おはようございます」
「やあ、おはよう」
最前列に座るのもちょっと気が引けるし、さりとて後ろの方に陣取るのもなんだかな……と妙な葛藤を抱えていると、ヘンブリッツ君から声を掛けられる。彼とはこの遠征中は結構別行動が多かったから、なんだかんだとゆっくり話すのは久しぶりな感覚だ。
そして彼も、普段愛用している長剣は俺たちと同じように預けている様子だった。軽く見回してみても、教会騎士以外に武器を持っている人間は居ない。その意味では、彼らはしっかり務めを全うしていると言ってもいいのだろう。
「ヘンブリッツ、他は変わりありませんか」
「はい、万事問題なく」
アリューシアが隊の様子に軽く触れるが、問題はなさそうで何より。まあこの時点で問題があったらそれはそれで困るんだけれど。
本来ならアリューシアはヘンブリッツ君と動くべきなのだろうとは思う。しかしながら、彼女はわざわざ当日に俺が寝泊まりしているところにやってきて、ともに大聖堂まで繰り出した。
そこには彼女の色々な思惑があるのだろう。それに対して俺は何かを返すべきなのか、その答えは未だに分からないままだ。
きっと今のこの関係と距離感が、一番安心出来るものとして俺も捉えているのかもしれない。最近そういうことを昔よりは意識するようになったから、どうにも事あるごとに気を揉む。少し前にシュステから告白を受けたこともあって、何が正解か分からなくなっている。
今まではこんなに悩むことはなかった。どうせ俺なんかがという諦観も大いにあったし、アリューシアにしても一時の気の迷いだろうと高を括っていた。
だが自己の意識にかかわらず、俺を取り巻く環境は確実に変わってきている。別に剣の道への決意が揺らぐことはないにしろ、どうにも極まりが悪い感覚が憑りついているな。
「……ベリル殿?」
「ん、ああ、ごめん。少し考え事をしていた」
ヘンブリッツ君に声をかけられて、はっと意識が戻った。いかんいかん、思考が些か変な方向に飛んでしまっている。
考えるべきことではあるのだろうが、今この場で考えることでもない。さりとて、いつどこで考えるのが正解かと問われるとそれもまた難しい。半分以上は身から出た錆と言えども、中々に取り組みにくい難題であった。
「そろそろ座りましょうか」
「そうだね」
入口の方に軽く視線を流すと、ぞろぞろと他の参列者も大聖堂の中に入ってきている。
立ち見をしなければならないほどの人数は流石に入らないにしても、さっさと座れそうな場所を陣取っておいた方がまあ楽ではあるだろう。いつまでも突っ立っているわけにもいかないしね。
さて、座るにしてもどこに座ろうかなと考えていたら、すたすたとアリューシアが前の方に進んでいってしまった。そのことに疑問や質問を差し込む暇もなく、ヘンブリッツ君も当然と言った様相で付いていく。
あれ、これやっぱり前の方に座る流れ? そりゃまあ後ろよりはいいのかもしれないが、どうにも緊張してしまうのは平民の性だろうか。それで言えばアリューシアも平民の出なはずなんだけどさ。
立場と肩書は人を変える、良くも悪くも。そんなことを実感した瞬間であった。
「……色んな人が居るねえ」
前方の席に向かいながら、既に着席している者、今先ほど大聖堂に入ってきた者などを観察する。
呟いた通り、様々な人がやってきているだろうことは容易に想像が付いた。明らかに上物の衣類に袖を通している上位者……多分貴族とか商会の会長とかそこらへんだろう。そういう人たちが結構な割合を占め、他にはイブロイのようにローブを羽織っている者も多い。この辺りは恐らくスフェン教関係者かな。
更には教会騎士ではない、鎧などを着込んだ者たち。他国の騎士とか、貴族お抱えの騎士とかだろうか。ウォーレンのところのサハトのような立ち位置かな。
というか、仮にも王族の結婚式に鎧姿で出てくるってありなんだろうか。まあ誰も何も言わないということは大丈夫なんだろうね、多分。そういうものとして納得するしかあるまい。
そしてそれらの要素を超えて一層びっくりしたのは、なんと仮面を着けている者まで居ることであった。あれ大丈夫なんだろうか、主に防犯的な理由で。
体格的には女性だろう。武器は流石に入り口で預けたのか、丸腰ではある。しかし堅牢なブレストプレートと機能的なスカートアーマーに身を包み、顔の上半分を仮面で隠している姿は、正直この場ではかなり浮いているように見えた。
「……?」
「――ッ」
物珍しい恰好をしていたもので、ついつい視線がそちらに吸い寄せられてしまう。俺の視線に気づいたのか、女性がこちらに振り向いたのでちょっと慌てて目を逸らす羽目になってしまった。
珍しいと言えば珍しい。が、教会騎士やら周りの人やらが何も言っていないということは、あれはあれで許されているということなのだろう。もしかしたらスフェンドヤードバニア独特の文化かもしれないし、不用意に見つめてしまったのは悪手だったな。
「先生、どうされましたか?」
「ああ、いや……なんでもないよ」
若干挙動不審に陥ったところをアリューシアに見つかってしまった。そりゃ隣に居るんだから気付くよなという話である。
少し知り合いに雰囲気が似ていた気もしなくはないが、まあその線はないだろう。あんな恰好をする子じゃないし、そもそもこんなところに居るわけがない。顔も見えてないことだしね。
「……この辺りにしようか」
「そうですか? それでは」
気を取り直してというか、やや現状に即した話題にするために、俺は長椅子の一つに手を添える。
前から数えて五列目あたりだろうか。最前列でもなければ、後ろ過ぎて姿を見れないわけでもない、俺としては割とギリギリな位置。というかこれ以上前は辛い。やっぱり緊張しちゃうからさ。
その提案にアリューシアも頷いてくれたようで、ヘンブリッツ君と合わせて三人で一列に座ることにする。端から順に俺、アリューシア、ヘンブリッツ君という形だ。
俺はスフェンドヤードバニアの作法どころか、一般的な結婚式の作法にすら詳しくない。せいぜいが新郎新婦の誕生を祝う慶事であり、また神聖なものであるという認識を持っている程度である。
ただ、フルームヴェルク領での夜会と違って、その辺りの所作のようなものは前回よりも細かくは言われていない。これは今回の主役が間違っても俺ではないという部分も大いに関係しているだろう。護衛として付いてきてはいるものの、本質としてはただの一ゲストである。場を乱さないように大人しくしていればいい、というのは結構気が楽だね。
「……お」
「おや」
三人で席に着き、時々ちらっと人の流れを観察しながら待つことしばし。
カラーン、カラーンと、音量は大きいがあまり重苦しくない、清涼な鐘の響きが耳に入る。その音色に合わせて側廊から老齢の人物が一人、正面までゆっくりとした歩みで近付いていた。
恐らく王子と王女の婚姻を祝う司祭の方だろう。いや、国のトップが結婚するんだし、もっと上位の人が出てきてもおかしくないかもしれない。司教様とか、もしかすると大司教様とか来られるんだろうか。俺は顔も名前も知らないが。
「――皆様。この好き日にお集まりいただき、誠にありがとうございます。本日の進行は僭越ながら私、大司教の座を預かっております、ダートレス・カイマンが務めさせていただきます」
鐘の音にあわせてしんと静まり返った大聖堂に、ダートレスと名乗った大司教様の静かな声が響き渡る。
おお、やっぱりかなりのお偉いさんだった。司教と大司教がどれくらい違うのかなんて全然知ったこっちゃないけれども、とにかく凄い人なんだろう。別に俺が直接かかわることなんてないだろうしね。
「……妙ですね」
「ん?」
ダートレス大司教の挨拶の後、ぱらぱらと拍手が刻まれる隙間に、アリューシアがぼそりと呟いた。
先ほどの言葉に何かおかしいところでもあったのだろうか。
「王子と王女の婚姻ですよ。本来はモーリス教皇が出てくる予定だったはずですが……」
「……ふむ」
今回の挙式はサラキア王女殿下が嫁ぐ側なので、スフェンドヤードバニアの文化に則って行われる。そして結婚する相手はこの国の第一王子だ。
便宜上スフェンドヤードバニアの全国民はスフェン教の信徒ではあるが、その最高位と言っても過言ではない人物の婚姻に、宗教の長が出てこないのは確かにどうなんだという気はする。当初は出てくる予定だったというのなら尚更。
しかも王族同士の結婚となれば、かなり綿密な計画を持って迎えられる。昨日今日決めましたという話では断じてない。教皇様のご予定もここに合わせられるはずなのだ。
加えて年明け早々というスケジュールは、スフェン教が祝いの日と定める日取り。どちらかと言えばグレン王子とサラキア王女がスフェン教に寄り添った形だというのに、そのトップが出てこないとなると、言われてみれば確かに、やや腑に落ちない点であった。ただの体調不良とかなら何も考えなくていいんだけど、どうだろうね。
「それでは、本日夫婦の契りを交わすお二方にご入場頂きましょう」
アリューシアの疑問や俺の考えを挟む余地もなく、婚姻の儀は粛々と進められた。まあ当然っちゃ当然で、この場面でわざわざ「教皇はどうした」なんて声を上げるのはただの阿呆のやることである。
「グレン・タスマカン・グディル殿下、サラキア・アスフォード・エル・レベリス殿下のご入場です」
大司教の淑やかな所作の後、拝廊から聞こえる二人の登場を告げる言葉。
神聖かつ厳かな雰囲気の中、微かな疑念を抱きながら。祝福された二人の婚姻の儀が始まろうとしていた。




