第186話 片田舎のおっさん、警戒する
「――先生、起きてください先生」
「……ん」
馬車の揺れとはまた違った人為的な揺れと声を感じて、微睡んでいた意識が少しずつ浮上してくる。
薄く目を開けると、こちらを覗き込むアリューシアの表情が間近に映った。
「……すまん、どれくらい寝ていたかな」
「そこまで長くは。ただ、もう少しでフルームヴェルク領を抜けますので」
「そうか、分かった」
アリューシアとの問答を終え、両の頬を軽く叩く。よし、目覚めた。
いやしかし、随分あっさりと眠ってしまっていたな。それほど疲れていた自覚はないんだが、まあ色々あったと言えば色々あったので、精神的な疲労がやや大きかったと見るべきか。
「うおぉ……座ったまま眠りこけるもんじゃないね……」
目覚めの運動がてら腰や肩、背中をググっと伸ばす。バキボキゴリ、と、あまり聞きたくない音をいくつか響かせながら、睡眠で硬直した身体が強制的に解されていく。
ちゃんとしたところで寝ないとすぐに筋肉が変な形で硬直してしまうのが良くない。昔は雑魚寝だろうが何であろうが問題なかったんだけど、加齢による肉体の衰えにはどう頑張ったって勝てないんだもんな。
この辺りは同じ剣士と言えど、アリューシアやヴェスパー、フラーウたちとはきっと共感出来ない部分だろう。彼らはまだ肉体も十二分に若いからね。三十の半ばを過ぎたあたりから段々とキツくなってくるんだこれが。
「失礼、騎士団長殿」
ぐるぐると肩を回しているところで、馬車の扉が掛け声とともにノックされる。外から顔を覗かせたのは王国守備隊の隊長を務めるゼドであった。
ギリギリではあったが起きられてよかった。眠り込んでいるところを見られるのは、あまり良い印象を抱かれないだろうから。
「間もなくフルームヴェルク領を抜けます。関所で護衛が交代するものと」
「分かりました」
どうやら本当に領土を抜ける直前だったらしい。しっかり眠らせてもらったので、外の目があるところではしゃっきりとしたいところである。
往路で何回も経験したからか、この辺りは流石にもう慣れた。領土を跨ぐ時にそれまで護衛してくれていた領の兵が、次の領土の兵に護衛の引継ぎと申し送りをする例のあれだ。この段階でお偉いさんが出張ってくることはまずないし、交わす会話も極めて事務的なものである。道中に問題がなかったのなら尚のこと簡潔に済む。
で、こういう時は団体様がいきなり集団で行くのではなく、普通は向かう側から先触れを出す。そいつが事情を説明して、向こうさんも出張ってくるというわけだ。
とは言っても、これだけの集団が移動していたら遠目にも分かるわけで。俺たちの移動ルートも事前に知らされているはずだから、仕事としては本当に形式的なやり取りをただ眺めるのみになる。
「復路の無事をお祈りしております。それでは失礼を」
「ああ、ここまでありがとう」
関所の前で一応の顔を出し、二言三言交わしたところでサハト率いるフルームヴェルク領の私兵軍が引き上げる。ここから先はウォーレンの治める領地ではないから、書状かあるいは特別な事情がないと関所を越えられない。
後はバルトレーンに着くまでずっとこれの繰り返しだ。本当に行きと同じである。
「……やや雲が出てまいりましたな。少し急がせるとしましょう」
「ええ、お願いします」
引継ぎも終わり、隣領の兵士が護衛団に加わるタイミングで、ゼドがふと呟いた。
見上げてみると、ここ数日快晴だった空模様に少しばかり暗い雲がちらほらと差し掛かっている。
「うーん、降るかどうかは微妙なところだね……」
すぐに降り出すってことはないだろうし、この雲量のままなら天気が大崩れするとも思えない。むしろこの程度の陰りならいい感じに気温の上昇が抑えられて、歩く守備隊としては好都合のようにも捉えられるくらいだ。
ただ何にせよ、天気が下り坂に差し掛かったのなら急ぐに越したことはないけどね。それに、運動するのに丁度いいコンディションのうちに歩を進めておきたい気持ちも分かる。
ここで安易に楽観的な見方をせず、粛々と先を急ぐ判断を下せるゼドはやはり優秀なのだと思う。
アフラタ山脈に突っ込んだ時のヘンブリッツ君やランドリドのように、状況が変化した時に下す判断の速さは流石の一言だ。彼も相応の経験を積んでいることは間違いないと見ていいだろう。
そして、そんな精鋭に囲まれながらの移動であれば、こちらが心配することも少なくて済む。出来ることなら、他の馬車に積んだ野営装備などが今後も出る幕がないことを祈りたいところだ。
「では、出発します」
関所で入れ替わった護衛団とともに、再び馬車が動き出す。
ちなみにだが、領地を越えるごとに変わる護衛団。その土地を治めている貴族様方が出しているのは共通なんだけど、その数には結構なバラつきがあったりする。
治めている領地が広いとか、強い権力を持っているとかの理由がそのまま護衛の数に比例していない、というのもまた面白い一面であった。一概に領主と言っても、平和的に街を治めて最低限の兵力しか持っていない者も居れば、狭い領土でも軍拡に励んでいる者も居る。
貴族には当然面子があるから、護衛を出さないという選択肢は最初からない。しかしながら、どの程度の余剰兵力を護衛に割くのかは結構シビアな問題でもある。例で言えばウォーレンはサハトを筆頭に十数人出してきたけれど、これが三十人のところもあれば、数人のところもあるという感じ。
ただし、その数だけでは判断が付かないというのが更にややこしさに拍車をかけている。狭い領土を持つ貴族が渾身の力で送り出した精鋭数人かもしれないし、大貴族が片手間に送り込んだ雑兵三十人かもしれない。
アリューシアは、各領主からのそういう反応も含めて今回の感触を確かめているそうだ。裏を返せば、今の王家にどれだけの忠誠を捧げているかの指標にもなるんだってさ。
まあ実際サラキア王女の輿入れとなればこの数倍、あるいは数十倍の規模の兵隊を寄越す貴族がほとんどだろう、というのはアリューシアの言である。
騎士団の遠征と王女の嫁入りでは明らかにイベントの規模も重要性も違うからな。今回の件で言えば貴族たちが張るのは主に面子だが、王室が絡むとそれに加えて見栄も張ることになる。多分その領地が出せる限界まで、護衛のための兵力を絞り出すはずだ。そうしないと他の領に舐められる恐れがあるんだと。
いやはや、本当に事情を知れば知るほど面倒臭い世界である。
教養的な面で言えば俺も初めて学ぶことが多くてそれなりに新鮮ではあるものの、やっぱりこんな世界に首を突っ込みたくない、という印象は変わらない。むしろ知れば知るほど、その思いは強くなるばかりであった。
「……大変だね、アリューシアも」
「? そうですか?」
「ああいや、本人がそう思っていないならいいんだけどさ……」
思わず零した呟きも、彼女にとっては取るに足らない内容だったらしい。
本当にアリューシアは凄い。彼女は商人の家の出身だから、多少はそのような世界に触れていてもおかしくはないが、それにしたってこういう付き合いが表面化したのは比較的最近のことだろう。
俺の道場で十六の歳まで剣を学び、レベリオ騎士団に入ったのは確実にその後。すぐさま騎士団長になれるわけもないので、そこから下積みの期間もあったはず。
そう考えると、彼女がこういう世界に首を突っ込み始めたのは、どれだけ長く見積もっても十年程度。
十年もあれば慣れるのかもしれないけれど、この若さでここまで多方面に精通した人物になるには、それなり以上の才覚が要る。
間違いなくアリューシアは、王国の歴史に名を遺す一線級の傑物だ。そんな子が十数年前にあんな片田舎の道場で剣を学んでいたのだから、世の中分からないものである。
「立派になったなあ、と思ってね」
「ふふ、ありがとうございます。先生の教えあってこそです」
「ははは……剣以外を教えたつもりはないんだけどな……」
真正面からぶつけられる大きな感情というのは、やっぱりちょっと気恥ずかしい。しかもこの狭い空間にはヴェスパーとフラーウも居るのである。彼ら二人は相変わらず空気に徹しているけども。
けれどまあ、今まではただ謙遜するだけだったけれど、こういった称賛に正面から立ち向かう気概は少しずつ出てきたとは思う。それはやっぱり、おやじ殿との立ち合いを制したからに他ならない。
俺の剣はいったいどこまで通用するのか。自信が付いたとはまだ言えないし、見える景色がすぐさま一変するわけでもなかったが、改めて剣の道が開かれたようにも感じる。その道がどこへ向かっているのか、また終着点がどこになるのか、少し先も全然見通せないままではあるが。
「……あれ?」
「おや」
そんなやり取りを経てしばらく。少し急ぐとゼドが言っていた通り、気持ち速めに馬車も動いていたはずなのだが。
今は逆にその速度を落として、今にも止まりそうなほどにスピードを緩めていた。
「失礼します」
馬車から齎される振動が完全に停止した直後、扉がノックされ再びゼドが顔を覗かせる。
「どうしましたか?」
「前方に身動きの取れなくなった馬車がおるようです。恐らく車輪が壊れたか、あるいは轍を外れたものかと……」
「ふむ……」
どうやら別の馬車が前方で立ち往生してしまっているらしい。
まあ、こういう事態は時々起こる。道とは言っても、王国内を走る全ての道が舗装されているわけではまったくない。今俺たちが移動している道も、ただ雑草を刈って土を踏みしめただけのものだ。石畳で舗装されている道の方が国全体で見れば貴重だからね。
一方、たかが土道されど土道。道の脇に一歩逸れてしまえば、そこは手入れも何もされていない草原だったり岩肌だったりする。歩きなら問題ないが、馬車を通すとなると途端に一苦労だ。馬は走れても、重量と体積のある馬車がにっちもさっちも進まなくなってしまう。
「轍を外れているだけなら、手伝ってあげてください。壊れているなら申し訳ないですが、道を譲ってもらうようにと」
「承知しました」
状況を予測したアリューシアが指示を飛ばす。
馬車は確かにデカいし重いが、この人数ならちょっと動かすくらいは出来る。轍に戻すか、動ける見込みがないのなら道の脇に移動させるか、といったところだろう。
「ヴェスパー、フラーウ。前方の確認を」
「はっ」
ここでアリューシアが追加の指示として、騎士二人を向かわせる判断を下した。
まあ馬車が転がっているということは、当然ながらその馬車に乗っていた人間が居るはずである。まさか全てを放棄して歩いてどこかに行ったわけではあるまい。
もしかしたら助けを呼びに行っている可能性もなくはないが、馬車である以上は何かしら積み荷があるはず。普通は荷物の見張りに一人は置いておくものだ。その場に人が居たなら、レベリオの騎士が居た方が何かと話は早いだろうからね。
「……俺たちも外に出ようか?」
「……そう、ですね。すぐには動かせないでしょうし」
別に俺とアリューシアが働く必要はないと思うんだけど、ここは気分転換も兼ねて一度外に出てみようと提案する。先程まで眠っていたのもあって、どうにも少し身体を動かしたい欲に駆られていた。
「ふぅ……ッ」
馬車からのそのそと這い出た後、腰に手を当ててグイっと一伸び。うおお、背中の筋肉が伸びていく感覚が実に気持ちいい。やはり座ったままだと全身を動かすのは難しいからな。
「さて、と」
身体を解すのもそこそこに、馬車の進行方向である前方に目を向ける。どうやら何人かが集まって馬車を動かそうとしているようだ。
にしても、馬車の傍には誰も残ってなかったのだろうか。どうにも会話をしているような雰囲気ではなく、ゼドが早く除けろとやや語気を強めて言い放っている声くらいしか耳に届いてこない。
「……誰も居ないってのも妙な話だね」
「そうですね……」
隣のアリューシアに話を振ると、彼女も少しばかり怪訝そうな顔をしていた。
馬車を使っていた者たちが積み荷を全て持ち運んだという線も考えにくい。そもそも、人の手で物が運べないから馬車を使うのである。残された可能性としては、積み荷を乗せておらず人だけだったパターンくらいか。
それにしたって、馬すら見当たらないのはちょっと妙だな。馬はそこそこ高価だし、みすみす逃がすようなことはしないはずだが。
「……ん?」
さりとて、前方にある馬車を片付けないことには俺たちの馬車が動かせない。これはしばらく立往生かなあ、なんて考えていたところ、突如として視界に違和感を覚えた。
「……霧……?」
「――! 総員、警戒!!」
俺の疑問の声とほぼ同時にアリューシアが叫び、一気に警戒ラインを引き上げる。その怒声に半ば引きずられるようにして、周囲の空気が一変した。
おかしい。今は初秋の時期で今日の気温は朝から安定している。やや雲は出てきているものの、雨は降っていない。近くに林や森、大きな川があるわけでもない。
――つまり、何の前兆もなくいきなり霧が発生するのはあり得ない。
「……何か居るね」
「はい。先生も警戒を」
「勿論」
すっかり愛用となった赤鞘の剣に、自然と手が伸びる。
さて、出てくるのは人か魔物かはたまたそれ以外か。出来れば魔物がいいな。容赦なく切り捨てられるから。




