第185話 片田舎のおっさん、辺境伯領を発つ
「辺境伯閣下、滞在中は大変お世話になりました。改めて御礼申し上げます」
「なに、構わないとも。呼び付けたのはこちらだからな」
私兵軍たちの教練を行った更に二日後。ついにフルームヴェルク領と別れを告げ、バルトレーンに戻る時がやってきた。
本当は昨日出立しても良かったんだろうけど、ウォーレンやシュステのご厚意に甘えて一日のんびりさせてもらった形だ。ちょっとその前に、俺もアリューシアも酒を飲み過ぎてしまってイマイチ体調が上がり切らなかったという裏事情もあるにはあったが。
「十分に羽を伸ばせたかな?」
「それはもう。短い間でしたが、至福の一時でした」
「そうか、それはよかった」
今はウォーレンたち辺境伯家の者に見送られて屋敷を去るところ。例に漏れず外の目があるので、彼ら二人はばっちり外行きの態度である。
十分に羽を伸ばせたというのはあながちお世辞でもない。彼はしっかり俺たちのケアを考えてくれていたし、その待遇は正に貴族の主賓に相応しいものであったと思う。
と言うか、こんな歓待を受けたのは俺の人生では初めてだ。他の基準を知らないから何とも言えないけれど、これ以上の接待となると俺にはちょっと想像が付かん。それくらいには贅沢させてもらった自覚がある。
「サハト。領を出るまではしっかりと頼むぞ」
「はっ! お任せください」
そしてこの場には俺たちの他、サハト率いる私兵軍の者と、フルームヴェルク領に入ってからは完全に別行動だった王国守備隊の面々も揃っている。
彼らは彼らでウォーレンが用意した宿に泊まっていたはずだから、滞在中に何をしていたのかは正直知らない。多分酒場にでも繰り出して、やいのやいのやってたんだろう。もしそうだったとしたらちょっと羨ましい。帰りに機会があったら、どうやって過ごしていたか聞いてみようかな。
「ああ、そうだベリル殿。少しいいか」
「……はっ。何でしょうか」
後は馬車に乗り込んで帰るだけかと少しぼんやりしていたら、ウォーレンから名指しで呼ばれて少し反応が遅れてしまった。彼は俺に声を掛けたと同時に少し移動したから、どうも他に聞かれたくない内容っぽいな。
「……シュステはどうでしたか?」
他の者と少し距離を取ったところで、ウォーレンが小声で訊ねてくる。
どうでしたか、と聞かれてもなあ。俺が答えられる内容なんて既に決まっているようなものだ。
「……凄く良い子だね。お世話になったし、可愛い妹さんじゃないか。大事にしなよ」
内容的にも口振り的にも他に聞かれでもしたら拙いので、こちらも小声で応答。
伝えた通り、凄く良い子だった。教養も愛嬌もあるし気配りも出来る。辺境伯家の長女としてどこに出しても恥ずかしくない、優秀な子という印象は初対面の時からずっと変わらないままだ。むしろ評価という面では日に日に増していったまである。
ウォーレンは彼女のことを婚期を逃した愚妹なんて表現をしていたが、実際そんなことはまったくない。むしろあの気立ての良さで、何故今まで縁談に恵まれなかったのかが疑問なくらいだ。
もしかしたら、かなり位の高いところと結婚させようとして苦戦しているのかもしれない。貴族や王族の婚姻にはそういう要素が多分に含まれると頭では分かっていても、彼女の為人を身近に見てきた者としては、どうか幸せな家庭を築ける相手と結ばれてほしいと思う。
「良かった。……どうです、このまま連れて帰りますか?」
「ばっ! ……馬鹿を言うんじゃないよ」
とんでもない発言をしやがったウォーレンに、思わず最初の第一声が上擦る。馬鹿を言うんじゃないよ本当に。こんなおっさんがバリバリの貴族の御息女を連れ帰ってどうするんだよ。事件の香りしかしないぞ。
……もしかして、ウォーレンはシュステを俺に売りつけたいのだろうか。いやいや、まさかそんなはずは。剣の腕には多少覚えがあるものの、生まれも育ちも辺境の田舎民である俺にそんな市場価値は断じてない。
いや、しかし。先日の夜会ではそういう貴族の娘さんからのアプローチも確かにあった。つまり俺が自覚していないだけで、実は俺の価値が高まっているということもあり得なくはない、のか?
「……ちゃんと彼女に相応しいお相手を見つけてあげてくれ」
「ええ、分かりました。では先生、またいずれ」
「ああ、世話になった。ありがとう」
ダメだ、こういうのは考えても分からん。なのでここはちゃんと彼女の未来を考えてやってくれという、ありきたりな言葉を返すしかない。実際それは本音でもあるわけだし。
シュステは本当に良い子だ。無論、俺たちが兄の主賓ということで気を張っていた場面もあるとは思う。それでも嫌な顔一つせずに、あそこまで歓待に徹底するというのはなかなかに難しい。
もしあれらが全て仮面だったのなら、それはもう微塵も見抜けなかったこちら側の完敗である。それ程の処世術を会得しているのであれば、嫁入り候補の相手に取り入るくらい難なくこなしてしまうだろう。
だからこそ彼女には、二人きりの時は気を抜いても良いような相手に巡り合ってほしい。それは間違いなく俺の望みでもあった。
「それではウォーレン様。お世話になりました」
「ああ、ベリル殿も達者でな」
内緒話もそこそこに切り上げ、フルームヴェルク領辺境伯と特別指南役の顔に戻る。
多分、今後の俺の人生において、ウォーレンと会える機会はそう多くない。単純に距離が遠いのもそうだし、何よりも普段生活を送っている世界が違う。今回のようなことがあれば交わるかもしれないが、そんな機会はそうそうあるもんじゃないだろう。
そう考えるとやはり、一抹の寂しさは感じてしまうな。別に俺の個人的な感情で元弟子たちの人生を縛るつもりはこれっぽっちもないけれど、ひとり心の中で寂寞の念を感じ入ることくらいは、どうか許してほしい。
「では、出発します」
久々に耳にするゼドの号令をもって、王国守備隊と彼らに守られた馬車が動き出す。
さて、帰りは帰りで行きと同じく馬車の旅だ。のんびり観光とはいかないが、往路と大体同じ道を辿るので一度経験している分、バルトレーンを発った時よりはいくらか気楽であった。
「先生、ウォーレンはなんと?」
「ん? ああ……」
馬車が動き出してすぐに、アリューシアから質問が飛んできた。
うーん、これは素直に言ってもいいのかどうか。ちょっと悩みどころである。
「シュステはどうだったかって聞かれたよ。良い子だと伝えておいた」
「……そうですか」
差し障りのない俺の答えに、アリューシアは一拍置いてから反応を返す。
多分、何かしらそれ以外のことを聞かれただろうな、くらいは彼女にも当たりが付いているのかもしれない。ただまあ、それをずけずけと聞いてくるような子でもないしなこの子は。先ほどウォーレンと交わした会話の内容は、必要に迫られなければ墓まで持って行く類の話だ。掘り起こす必要がありそうな場面は特に思いつかないが。
「先生。今回はお付き合い頂いてありがとうございます。まだフルームヴェルク領を出てもいませんが、ひとまずはお疲れ様でした」
「アリューシアこそお疲れ様。帰るまでが任務だろうけど、大役だったね」
「恐れ入ります」
そして後に続く会話と言えば、まあやっぱり夜会とその周辺の話題になるんだろう。
言った通り、まだ無事を祝うには些か早いけれど、それでも大任をこなしたことには違いない。今回の密命においての山場は明らかに超えたので、後は無事に帰るだけだ。
「ヴェスパー、フラーウ。貴方たちもよくやり切りましたね。ご苦労様です」
「はっ、ありがとうございます」
「過分なお言葉です。それが騎士の務めであります」
そして今回の遠征に同行した二人の騎士にも労いの言葉。
彼ら二人は今回の任務において、はっきりと言ってしまえばついでだ。脇役と言ってもいい。職務の内容だけで考えれば、アリューシア単独の力で十分に遂行出来るものだった。
しかし今回の仕事の特性を考慮すると、どうしても供回りが必要になる。表向きは辺境伯からの招待だからね。
そんな仕事にもしっかりと熱意と責任を持ち、事実立派に遂行した二人。決して目立ちはしなかったものの、彼らの働きぶりは素晴らしいものだったように思う。
これが仮にクルニやエヴァンスであったなら、ここまでスムーズに諸々を運べていなかった。そういう意味においても、この人選はしっかりと意味があったものだったのだろう。
必要な時にすっと出てくるし、逆に自分が不要だと思えばすっと気配を消す。やっていることは至極単純だが、それを徹底出来る者は少ない。彼らもまた職務に忠実な、立派な騎士だったということだ。
「! 全隊、止まれ!」
「!?」
馬車に乗り込んでようやく一息、といったタイミングで、鋭い声が響く。
突如停車する馬車からすわ何事かと顔を覗かせてみると、後方から走ってくる一つの影。
……あれ、もしかしてシュステじゃないか? 何をしているんだろう。何か問題でも起きたのだろうか。
「シュステ様! どうかされましたか!?」
事態に気付いた私兵軍のサハトが血相を変えて出迎える。
「はぁ……っ! すみません、ベリル様を」
どうやら用件があるのは俺らしい。実は何か粗相をやらかしていたのだろうかという不安が、一瞬で脳内を走り抜ける。
「……先生、お出になった方がよろしいかと」
「あ、ああ」
流石にフルームヴェルク家の長女に名指しで呼び止められて、出ていかないのはかなりの無礼だ。何を言われるか分かったもんじゃないけれど、腹を括って行くしかない。
降り立った先では若干息を切らせたシュステ。そして周りからの、もっと言えば私兵軍からの視線がヤバい。お前何かやらかしたんじゃないかという猜疑の目線が突き刺さる。
彼らとは一日剣を交えた仲だが、逆に言うとそれだけだ。敬愛する主人の妹とぽっと出のおっさん。彼らがどちらに重きを置くかなんて、最初から分かり切っている。
「シュステ様、どうされましたか?」
ここでは思いっきり周囲の目があるために、二人きりの時のような砕けた対応は出来ない。というか対応を間違ったら私兵軍が敵に回るまである。中々に緊張する瞬間だ。
「すみません、お帰りのところを強引に呼び止めてしまって。こちらをお渡ししたくて」
「これは……」
そう言って彼女は、抱えていた物を俺に手渡した。それは小振りな額縁……に、綺麗に並べられた押し花。
「やっと完成しまして。中庭の花を使ったんです。是非ベリル様にお渡しをと」
「……ありがとうございます」
額縁の中には、シュステと過ごした中庭で見たものと同じような、色とりどりの花が所狭しと並んでいた。しかしそれでも乱雑だとか窮屈だといった印象は持たせず、相当に計算高く敷き詰められていることが分かる。
俺は芸術には疎いし、これが価値のあるものかどうかは分からない。まあシュステも中庭の花を使ったと言っているし、特に資産的価値があるものでもないだろう。
「……しかし、何故これを私に……?」
だが今重要なのは価値なんかではなく、何故わざわざ単身走ってまで俺にこれを手渡したかということだ。
「ふふ。私がこれを作りたくて、そしてベリル様に直接お渡ししたいから、今走って渡しました。それでは不足ですか?」
「……いえ、それで十分です。ありがたく頂戴致します」
「はい。ご自宅のどこかに飾っていただけると嬉しいです」
そう言ってのけた彼女の笑顔は、やはり愛嬌に溢れるものだ。しかしそれ以上に、やりたいことをやり切ったという確かな満足感をその表情からは感じられた。
きっと彼女は、今後はもう少し自分の心に素直に従うことを決めたのだろう。やりたいことをやりたいと思った時にやり切る。言葉にするのは非常に簡単で単純だが、実際行動に起こすのは案外難しい。
勿論、今回の行動で言えば自分で作った押し花を贈るという、ただそれだけのものだ。
けれど彼女からすれば、自分から発揮した我が儘の一つであることには違いない。
きっと、中庭での一幕が彼女の背中を後押ししてしまったのだろうな。でもそれはきっと、良いことだ。少なくとも俺は、そう捉えられる人間でありたいから。
「今後も、周りの迷惑にならない程度に我が儘を発揮してくださいね、シュステ様」
「ええ。そのつもりです。何か言われたらベリル様のせいにしますから、安心してくださいね」
「いやはや、それは些か怖いですね。辺境伯様の威容に恐れながら眠る毎日が続きそうです」
「まあ、うふふ」
そんな会話を交わしていると、シュステが微笑む。
きっとこれから、彼女とウォーレンの間ではちょっとした衝突が増えるだろう。シュステは横暴にならないよう慎重にそして大胆に我が儘を発揮し、それに頭を悩ませるウォーレンの姿が目に浮かぶ。
無論、行き過ぎると辺境伯家として相応しくない振る舞いにも映るだろうが、シュステがその辺りの線引きを誤るとは思えない。きっと今までの生活とはほんの少しだけ色合いが異なる、けれど今までよりほんの少しだけ騒がしい、そんな日常を送っていくんだろうな。
けれど、それでまったく良いのだ。この押し花は彼女が一つの殻を破った証として、我が家で大切に飾らせてもらうとしよう。
「引き留めてしまい申し訳ありません。お帰りの無事を私も祈っております」
「ありがとうございます。シュステ様のお気持ちがあれば百人力でしょう」
最後に改めての挨拶を交わすと、シュステは綺麗な礼を見せて踵を返す。その様子を見て慌てたサハトが、私兵軍の一人を館までの護衛に就けていた。まあどれだけ短い距離であっても、おひとり様で帰すわけにもいかんしね。
今後は私兵軍の皆様も彼女に振り回される機会が増えるかもしれないと思うと、ちょっとご愁傷様という気持ちにもなる。ただそれも立派な職務の一つだと思うので、そこは是非とも頑張っていただきたい。
そして俺はやっぱり私兵軍の皆様から微妙な視線を浴びながら馬車へと舞い戻る羽目になった。
分かるよ。どんな目をして俺を見ればいいのか分からないもんな。俺もどんな態度で接したらいいのか分からない。なのでそそくさと馬車の中に引っ込むしかなかったわけだ。
「……ふう」
「……随分と仲良くなられたようで」
「そ、そうかな……ははは」
馬車に乗り込んですぐ、アリューシアからのお言葉が耳に入った。柔らかな笑顔を見せてはいるものの、なんだかちょっとした圧を感じる気がする。
ヴェスパーとフラーウは触らぬ神に祟りなしみたいな態度で空気に徹しているしさあ。
「そ、そう言えば、帰りのルートは行きと同じなのかな?」
早々に話題を変えた方がいい予感がして、ついでにちょっと気になったことを聞いておく。まあ多分同じなんだろうけど、俺は今回の計画立案には一切かかわっていないので、どこをどう通るのかは知らないままであった。
「概ね変わりません。が、往路の際は時間的に寄れなかった領地に一つ二つ立ち寄る予定ですね」
「なるほどね」
彼女の返答に頷く。
往路には当たり前だが時間的な制限があった。ウォーレンが企画した夜会の開催日に間に合わせないといけなかったからだ。主賓が登場出来ませんでした、では笑い話にもならない。
実際フルームヴェルク領に到着した後、夜会が開かれたのは三日後ではあったものの、それは結果論に過ぎない。遅れないように多少の猶予を取って計画を立てるのは基本中の基本である。
他方、復路に関しては往路よりその制限が緩い。いつまでもバルトレーンに戻らないとそれはそれで問題だが、まさか何週間もずれ込むような予定を立てているわけではないだろう。
サラキア王女のスフェンドヤードバニアへの嫁入りを確実に遂行するため、まだ顔と話を繋いでおかなければならない領主が少ないながら存在する、といったところかな。
「お疲れ様とは言ったけど……まだまだ気は抜けないね」
往路の時には寄れなかったところに寄るということはつまり、また初対面の貴族様と面を合わせなきゃいけないわけだ。流石に多少は慣れてきたとは言え、気持ち的にしんどいことに変わりはなかった。
「ええ。ですが先生も少しは慣れてきたのではないですか?」
「そりゃ最初の頃に比べればだけどね……緊張はするさ、相変わらず」
なにぶんこっちは小市民なもんでね。お偉いさまと会う時はいつだって緊張するのだ。
けれどまあ、それは少なくとも数日は後のことだろう。
今、この馬車の中には四人しか居ない。久しぶりに気を抜ける相手と空間だ。ちょいとばかしのんびりぼんやりさせてもらっても、バチは当たるまい。
「くぁ……」
「ふふ、眠られても大丈夫ですよ」
意識して気を抜いたら、それに合わせて欠伸が一つ漏れ出てしまった。なんかちょっと恥ずかしい。
「うぅん……それじゃあ、お言葉に甘えようかな……」
別館で過ごしていた時にも十分な睡眠はとっていたはずなんだけど、やっぱりどこかでずっと気を張っていたのかもしれない。肝心の領主様たちと会う時に眠くてたまりませんではちょっと困るから、ここはお言葉に甘えて少し仮眠を取らせてもらうとするか。
カッコ、カッコ。ザッ、ザッ。馬の蹄の音と、護衛の皆が歩く音が規則正しく耳に響く。
その音階に揺られながら、俺は徐々に意識を落としていった。




