第173話 片田舎のおっさん、旅に慣れる
「おはようございます、先生」
「ああ、おはよう」
首都バルトレーンを発ってから幾日か経った後。旅程の途中に立ち寄った村や町で宿を取りながら日程を消化し、毎日違う場所で寝ることにも慣れてきた頃合い。
普段と全く違う景色で夜を過ごした翌朝、この地を治める貴族が持つ別館内。その一階で待ち合わせたアリューシアと朝の挨拶を交わす。
道中に関しては、まったくもって平和と言っていい旅であった。
幸いながら天候にも恵まれ、スケジュールに遅延が起きることもなくここまでやってきている。今は王国のどの辺りに居るのかという地理に関して俺はいまいち分からないままだったが、その辺りは騎士や守備隊が都度、地図と睨めっこしながら確認していたので大丈夫だと思いたい。
「順調にいけば、今日中にはフルームヴェルク領に入れるかと」
「それはよかった」
アリューシアから齎された情報に、素直に安堵の言葉を返した。
別に道中に不満があるとか、そういうわけじゃない。わけじゃないが、旅が順調に進んでいて目的地が近いと言うだけで、それはとても喜ばしいことである。強いて言えば、アリューシアに加えてヴェスパーとフラーウに囲まれた馬車の中は空間的にはともかく、精神的にはやや狭かったくらいか。
あの二人は俺にべったりだというわけでもなく、宿場町に寄った時なども適切な距離感は保ってくれていたと思う。けれどまあ、馬車の中だとどうしても物理的な距離は近くなってしまう。
そりゃ勿論、嫌われるよりも好かれる方がありがたいのは確かだが、至近距離で好意的な視線を長時間受け止め続けるのもしんどいものがあるなという、新たな知見を得てしまった。別に知りたくなかったけども。
「アリューシアはしっかり休めているかい?」
「はい、問題ありません。お気遣い頂きありがとうございます」
「そうか。無理はしないようにね。とは言っても、俺が代わることは出来ないけど……」
「いえ、お心遣いだけで十分です」
会話を交わしながら彼女の顔色も確認してみるが、本人の申告通りそこまで疲労しているということもなさそうだった。少なくとも、夜の休息は十分に取れているらしい。
ただ引っ付いてきた俺と違って、アリューシアには色々と仕事がある。この部隊の全体指揮もそうだし、町や村に着いた後も現地の権力者やら領地を管轄している貴族とのやり取りだとか、今回の密命に関わる話し合いなんかもそうだ。目的地に着いたらすぐに休めるわけでは断じてない。
自然と一日の中で気を張る時間も増えているし、馬車の中であってもヴェスパーとフラーウという部下がいる以上、だらけたりは出来ないだろう。少なくとも彼女はそのような姿勢を良しとしないからな。
結果として、彼女が人目を気にせずに休めるタイミングというのは極限られてくる。それが一日二日だけならともかく、今回の旅程ではほぼ毎日がそんな感じで進む。
毎日違う偉い人、しかも知らん人と顔を突き合わせながら今後の根回しや確認をしていく作業。とてもじゃないが俺には耐えられない。レベリオ騎士団長という肩書には、相応の責任と重圧があるのだなと改めて感じ入るばかりであった。
一方の俺はと言えば、そりゃ挨拶回りなんかは多少したけれども、アリューシアと比べると拘束時間は大分短い。気楽とまでは言わないが、彼女の重責に比べれば随分と軽いものだ。
それよりも俺としては、宿ではなく貴族やら現地のお偉いさんの館に泊まることの方がしんどいけどね。てっきり普通に宿を取るものだと思っていたら、どうやらそうでもないらしく。持て成されているのは分かるんだけど、それを有難がることが出来ない肝っ玉の小ささがちょっと悲しい。
「それに、本番はこれからですから」
「ああ、確かにそうかもね……」
続いた言葉に、俺は苦笑しながら頷いた。
今まで移動中に立ち寄った町や村はあくまで旅程の都合上立ち寄っただけであって、言ってしまえば一晩だけのお付き合いである。ちょっとしたご挨拶や食事なんかは勿論あったが、貴族の夜会のような豪勢なパーティに参加したわけではない。
フルームヴェルク領に入れば本番の夜会が待っている。既に結構気が滅入りつつある俺と違い、彼女の事もなげな言葉にはやはり頼もしさと場数の違いを感じさせるね。
「おはようございます皆様。よければこちらをどうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「頂戴します」
そうやってアリューシアと会話を重ねていると、この屋敷の侍女と思わしき壮齢の女性が飲み物を持ってきてくれた。
出されたのは乳白色の液体。つまりはミルクである。
「……おお、美味しいねこれ」
「あら、美味しい」
「お気に召して頂き、感謝致します」
俺と同じくミルクに口を付けたアリューシアが、短くその感想を漏らす。バルトレーンで飲むものも美味しいが、産地直送の新鮮な乳というのは実に舌触りがよろしい。
どうやらこの周辺は畜産、特に酪農が盛んらしく、牛乳や乳製品は日頃から食事として提供されるだけでなく、国内外問わず特産品として積極的に輸出されているらしい。
このような、地方地域で育まれた恵みが首都バルトレーンに集約されていると考えると、バルトレーンの豊富な物資状況にも納得がいくというもの。
ちなみに、チーズなどの乳製品はともかくとして、乳そのものは足が早い。それでもバルトレーンその他への輸出が成り立っているのは偏に魔術師の存在が大きいそうだ。
ルーシーが俺に戦いを吹っ掛けた時も、氷を生み出して攻撃に転用していた。同じ理屈で、魔法で生み出した氷を使った氷室の生成と維持も重要な仕事の一つらしい。
まあでも流石に長距離を輸送すると品質の劣化は免れないから、こういう地産のミルクの方が美味しいんだけどね。これを口に出来ただけでも、今回の長旅に幾ばくかの満足感を得られるくらいには。
それらの生産拠点や交易路が外敵に脅かされないために、騎士団や王国守備隊、魔法師団、そして冒険者などは忙しなく各地を飛び回っている。
各々領分としている範囲は少しずつ異なるが、それでも国家と人民の安全を確保するという意味では向かっている方向は同じだ。それには勿論、直接民を守るだけに留まらず、このような交通の保安も含まれる。本当に頭が下がる思いである。
「騎士団長殿、こちら準備が整いました」
「ありがとうございます」
そうやって朝のひと時を過ごしていると、忙しい時間はすぐにやってきた。
声を掛けてきたのは守備隊長であるゼド、ではなく、騎士とも守備隊とも違う装備を身に纏った青年であった。一言で言えば、貴族の私兵だ。
俺は知らなかったんだけど、たとえ同じ王国内の人間であったとしても、まとまった集団が素通りするのは治安的にも外聞的にもあまりよろしくないらしい。問題を起こされるのも困るし、その集団が逆に襲われでもしたらもっと困る。領内の治安はどうなっているんだと難癖を付けられかねないからだ。それはレベリオ騎士団が相手であっても変わらない。
特に今回は辺境伯の招待に応じて、普段はバルトレーンに居るレベリオ騎士団の騎士団長が出張ってきている。騎士団が自発的に問題を起こす可能性は低いが、問題を起こされる側に回る可能性はゼロではない。
なのでその地を治めている領主らは、王族への忠誠と自身の抱える武力を示すため、また領内で問題が起こらないよう護衛するために、領内を動く間は自前の兵を持ち出す。
まあ、貴族の面子やら沽券やら意地やら政治やらが絡んでくるわけだな。だからこうして騎士や守備隊ではない人間が道中ご一緒することとなる。
俺は移動中基本的に馬車の中に居るから彼らと話す機会はほとんどないんだけど、これ守備隊の人とか大変だろうなあと思う。性格も練度も不明な集団と足色を合わせるというのは存外難しい。
無論、それらが問題視されるような出来事に遭遇しないのが一番いいんだけどね。
そして恐らく、そのような問題に俺たちが遭遇しないために、スレナのような冒険者が今回の遠征に先だって、ルート付近の山賊の掃討だとか魔物の掃討、巡回なんかをやっているはずである。
以前ミュイを連れてシャルキュトリで会った時も、スフェンドヤードバニア使節団の来訪が近いから忙しいと言っていたしな。色々な人の力を借りた上に、今回の遠征が成り立っているということだ。
「では先生、参りましょうか」
「そうだね」
さて、移動の準備が整ったということは俺たちものんびりはしていられない。護衛の方々を待たせてしまうのは本意ではないし、そんなことで余計な悪印象を抱かれても困る。
片田舎でのんびり剣を振っていた時と違い、俺の一挙手一投足が多少なり周りから見られるようになった。それは好意的な視線は勿論、猜疑的な視線も含む。今回の場合は行先も出会う人々も重要なので、一層厳しい視線に晒されているはずだ。
俺なりに身の振舞い方は気を付けているつもりだけれども、そんな嗜みなんてほとんどしてこなかった俺にとっては中々にいばらの道である。まあでも、その辺りに精通しているであろうアリューシアから何も突っ込まれていないので、今のところは大丈夫だと信じたいところ。
いやでも、彼女は俺に対して妙に甘いところがあるからな……。それも過信するのは良くないかもしれない。うーん、悩ましい。
「ハンベックさん。全隊揃っておりますか」
「ええ、問題ありませんよ。いつでも出られます」
いつもの馬車に乗り込む前に、守備隊長であるゼドと最終確認。流石に抜かりはないらしく、既に全員が出立出来る様子であった。
見てて思うんだけど、ゼドは勿論のこと、今回の旅程に同行する守備隊の面々はどうにもこういう遠征や行軍に慣れている気がする。長距離の護衛任務に部下を引き連れ、隊の士気も十分に保ちながら指揮することは、少なくとも俺には出来ない。
恐らく守備隊の中でも、指折りの精鋭が選ばれているのだろうなと感じる。そしてこれはまったくの推論だが、以前グラディオ陛下が仰っていたサラキア王女殿下のロイヤルガード。その候補が彼らではないかとも思うのだ。
つまり、今回の夜会への遠征は守備隊の予行演習も兼ねているということだな。グレン王子の下へ嫁ぐことになれば、今度はサラキア王女を連れて同じ道のりを往かねばならない。そうなると当然、そのルートを経験したことがある者の方がスムーズである。
まあそれをいちいち聞いたりはしないけどね。多分そうなんだろうなあ、と考える程度だ。聞いても詮無いことだし、俺の行動に何か変化が生まれるわけでもない。要らんことに無闇に首を突っ込むと己の寿命を縮める羽目になるからな。分相応が大事である。
「団長、ベリルさん。お待たせしました」
アリューシアがゼドとの確認を終えた直後、ヴェスパーとフラーウが装備を整えてやってきた。
彼ら二人も、貴族や権力者との会合にはアリューシアの従士のような形で帯同している。疲労感を覚えてもなんらおかしくない頃合いだが、流石に慣れているのか少なくとも表情には出ていない。
「いえ、問題ありません。では行きますよ」
「はっ」
アリューシアの声掛けで隊が動き出す。
さて、今日中にフルームヴェルク領に入ることが出来れば今回の往路はそれで大方終わりなのだが、着いたら着いたで馬車の中の空気より苦手な夜会が待っている。呼ばれた以上仕方がないこととは言え、やっぱり気乗りはするもんじゃないね。
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