第163話 片田舎のおっさん、壁を超える
「付き合えって、どういうことさ」
「お前、剣士二人が道場に来たらやることなんざ一つしかねーだろうが」
おやじ殿の意図が読めない。意味は分かるんだよ。その意図が分からん。
そんな俺の困惑を他所に、おやじ殿は道場の壁に立て掛けてあった木剣を二本手に取り、片方を俺の方へと投げ渡した。
「ようやく重い腰を上げて都会に出て行った倅の実力を確かめたい……っつーのは不自然なことか?」
「いや……」
一応、言葉の筋は通る。めちゃくちゃを言っているわけではない。
ただ、それなら俺がビデン村に戻ってきてからいくらでも機会があっただろうし、今このタイミングであえてという意図はやっぱり読めないままだ。村に受け入れられたと言えど、ミュイを独りぼっちにしておくのもあまりよろしくない。いやこれは過保護かもしれないが。
しかしながら、別に無理を言っているわけでもないから断りにくいというのも事実。
まあ、この人の考えなんて考察するだけ無駄か。どうせいつもの気まぐれだとかなんとなくだとか、そういう感じかもしれん。
それに、おやじ殿と手合わせをするというのも思い返せば随分と久しぶりだ。
若い頃はそれこそほぼ毎日打ち合っていたんだけど、俺が道場の看板を継いでからその頻度は急激に落ち込んでいった。仮にも現道場主を叩きのめすわけにもいかないだろうし、単純におやじ殿が加齢に逆らえなくなったという事情もあるだろう。
腰が痛い腰が痛いとぼやく様は情けなく映ったりもしたが、俺だって腰の重要性は理解しているつもりだ。
人の身体は多少の個人差はあれど、ピークを越えたら後は衰えるだけ。頑張って現状維持がやっと。それも年を重ねるごとに難しくなるのは俺自身が重々承知している。そんな俺よりも遥かに年上のおやじ殿であれば、相応に苦労しているだろうなというのは分かるのだ。
それを理解出来るようになったのは、皮肉にも俺も年を重ねたからだけどね。若い頃はマジで身体の不調とかなかったからなあ。
しかしそれだけの事情を知っていながらなお、俺はおやじ殿に勝てる気が微塵もしていない。というか実際、今まで碌に勝ったことがない。良いように弄ばれてボコボコにされて終わりだった。
若い頃に比べれば多少技術の向上は感じているものの、それでも絶対的な苦手意識は根付いたままである。
「おっし、納得もしたところでやるか」
「いや、納得したわけじゃ……」
マジで聞く耳持たねえなこのおやじ。
俺の反論を馬耳東風の如く流し、おやじ殿は木剣を中段に構えた。うちの道場の基本的な構えだ。まあ大体の剣術は中段が基本だけどさ。
「はあ……分かったよ」
どうせ俺が何言っても聞かないのはいつものことだ。だったら素直に従った方がいい。
相手は老人だし手を抜こうとか、そういう感情はない。大体手を抜ける相手でもないしね。そんな舐めた戦い方をすれば今まで通りボコボコにされるだけである。
誰も見ていないとは言えども、無様に負けるような事態はなんとか回避したい。俺にも一応意地があるからな。
「っしゃ!」
「――ッ!」
俺が構えを見せた途端、おやじ殿の足が地を蹴った。開始の合図とかないのかよ! マジでいきなりきやがったな。
おやじ殿が初手として繰り出したのは、相手の動向を窺うためであろう突き。剣撃の中で一番予備動作が少なく、同時に隙も少ない一手。
防ぐか躱すか。一瞬にも満たない逡巡の結果、俺は半身をずらす回避を選択。
躱しざま、順手に持った木剣で下段からの切り上げ。タイミング的にはほぼ完璧だったはずの反撃は、素早く木剣を引き戻したおやじ殿に防がれる。
「そりゃりゃあっ!」
木剣を弾いた勢いそのまま、おやじ殿は更に踏み込み連撃を仕掛けてきた。
中段横薙ぎ、突き、切り上げ、切り落とし、手前を変えてまた横薙ぎ、返し、突き――。
「ふっ!」
そのすべてを返す。
おやじ殿の剣は、速くて流麗だ。いくら衰えようとも今まで培ってきた技術は消えない。
そしてきっと、俺の見えないところでその技術の灯を消さないように努力もしてきたのだろう。ただ腰痛に嘆いて長年剣を置いたままの人間の剣筋ではなかった。
多分だけど、アリューシアよりはほんの少し遅いくらいの――……
「せいぃっ!」
「…………」
そう。
おやじ殿は強い。間違いなく強い。並の剣士が相手ならとっくに終わっているであろう打ち合いだ。
でも、俺には全部見えている。
躱せている。
返せている。
アリューシアより少し遅い程度の見える攻撃だと、脳が判断出来ている。してしまっている。
「……ッ!!」
俺は今まで、おやじ殿の剣筋をまともに見ることが出来ていなかった。単純に目は俺の方がいいはずなんだけど、この人は意識の隙間を縫ってくる攻撃が異様に上手いのである。
確かに剣先の速度は重要だが、ただ速いだけの攻撃であれば割と簡単に見切れる。つまり、おやじ殿の強さの肝は単純な速さではないはずなのだ。
「じゃっ!!」
おやじ殿が気勢とともに踏み込む。余計な動作を削ぎ落した見事な入り。
でも、見えている。余裕こそないが、対応出来ている。
「おやじ、腰は――」
「てめぇ、そりゃ俺への侮辱か!?」
「っ!」
おやじ殿の顔にはやはり衰えによる体力の低下こそ現れていたが、別にバテている様子でもなかった。腰痛に悩まされている様子でもない。
まだまだ打ち合い始めてしばらく、くらいの時間である。この段階で早くもバテるようでは剣士としては失格もいいところ。
分かっている。分かっているんだ。
おやじ殿の、モルデア・ガーデナントの体調は悪くない。少なくとも今は何も不調なんてない。見れば分かる。彼は今持ち得るすべての力でもって、ベリル・ガーデナントの相手をしている。
そして俺は。ベリル・ガーデナントは。
モルデア・ガーデナントに、勝てる。
「しぃっ!」
「ッ!」
おやじ殿の突き出した木剣を弾き、踏み込んでこちらの木剣を滑らせる。
手加減なんてまるでしていない。今俺が持ち得る全力で木剣を振る。
その切っ先は、寸分違わずおやじ殿の首元へと吸い込まれ。
首の薄皮一枚に触れるか触れないかといったところで、俺の剣は止まった。
「……かーっ! 勝てんかったかー!」
「……おやじ……」
俺の剣の行先を見送ったおやじ殿は、からからと声を上げながら木剣を静かに床へと置いた。
寸止めを首の皮で受け止めたおやじ殿に、悲壮感などはどこにも感じなかった。まあ負けて当然だよなくらいの心持ちでいるような、まるで最初から勝つことを望んでいなかったかのような、そんな感覚すら覚える。
「おやじ……俺は……」
この気持ちは、どう説明すべきなのだろう。
おやじ殿に勝てて嬉しいという感情は確かにある。長年見切ることさえ出来なかった彼の剣撃を、すべてこの目で捉えられた。恐ろしいほどに上出来だ。最高の結果と言っても過言ではない。これが嬉しくなくて一体なんであろうか。
「あん? お前勝ったくせに何か文句でもあんのか」
「あ、いや……」
けれども、俺の胸に去来したのは。
漠然とした、寂しいという感情だった。
「……手合わせ、ありがとうございました」
「おう。……強くなったな、ベリル」
「……ッ!」
おかしいだろ。なんで俺が泣きそうになるんだよ。長年目標にしてきたおやじ殿に文句の付け所なく勝ったんだぞ。普段から飄々として時にムカついて、けど馬鹿みたいに強いあのモルデア・ガーデナントに勝ったんだ。嬉しいはずだろ。もっとはしゃいでもいいだろ。今まで散々小馬鹿にしてきやがってとか、恨み節の一つぐらい調子に乗ってぶつけても誰も文句は言わないだろ。俺が勝ったんだから。大体おやじ殿もおやじ殿だ。自分の息子に負けて悔しいとかそういうのはないのか。今までずっと勝ってたんだぞ。
「……俺ぁよ、確かに衰えはしたぜ? 体力も筋力も落ちた」
「……」
おやじ殿が随分と軽い口調で語り始める。まるで憑き物が落ちたかのような、そんな軽妙な語り口だった。間違ってもその声色に、息子に負けて悔しいだとかそういう感情はない。
顔色は分からない。腰を折ったまま顔を上げられなかったから。今自分がどんな表情をしているのか、ちょっと想像するのも嫌だった。
「だが、剣士としての格が落ちたとは生涯一度も思ったことはねえ」
「……!」
つまりおやじ殿は、やろうと思えば今でも現役で動けるということ。しかし彼はそれを由としなかった。俺という後進にその身を譲った。当時はただの若輩者だった俺にだ。
今でこそ模擬戦で勝利を収めることが出来たが、若かりし頃の俺が彼に勝てるとはやっぱり思えなかった。というか負けていた。
「お前、俺が単純に衰えを感じたから看板譲ったと思ってんだろ」
「……違うのか?」
「ちげえよボケ」
自分の声が少し震えているのが分かる。けれど、おやじ殿はそれを突っ込んできたりはしなかった。普段なら喜んで弄り倒してきそうなのに。
しかし今この場で重要なのは、俺が長年思っていた彼の勇退の理由がどうにも衰えではなかったということ。じゃあその理由は一体なんだったのか。
「お前が俺より強えと思っちまったからだ。それ以外に看板譲る理由なんてねえよ。まあ、それをお前に伝える機会は随分遠くなっちまったけどな」
「……」
俺が、おやじ殿より、強い。
そんなことさっさと伝えておけよ、なんて不満は出なかった。
きっと、言葉で何を言われても当時の俺は納得しなかっただろう。そんな馬鹿なとかまたまた御冗談をとか、そうやってのらりくらりと躱して、躱したつもりになって。まともに取り合わなかったに違いない。
おやじ殿の性格というのもあったのだと思う。この人のことだ、自分の息子に対して素直にお前は強いんだぞなんて、中々口にしづらかったのもあるだろう。
結果として、そんな俺たち親子の奇妙なすれ違いは長いこと続いてしまったわけだ。
なんともなしに、情けなさがこみ上げてくる。
「ベリル」
ぽん、と。下げたままの俺の頭に、不意に何かが触れた。
「強くなった。お前は、確かに強くなったんだ。誇れ。胸を張れ」
「……ゔぁい……!」
もう、駄目だった。
剣ダコでゴツゴツになった、岩みたいな手で乱暴に撫でられて。何と言うか、俺の中の何かが決壊してしまった。
この日。俺は、ベリル・ガーデナントは。
やっと本当の意味で、先代からの想いを受け継ぎ。
積年の、いっそ呪縛とも言い換えられる精神的拘束から、確かに解放されたのだ。
これにて第五章閉幕となります。お付き合い頂きありがとうございます。
なろうに投稿している分だけでも問題なく読めるようにはしていますが、書籍の方では幕間と巻末の物語を書き下ろしており、そちらもご覧いただくとより楽しめるものにしているつもりです。
ご興味を持たれた方は、是非書籍の方にも手を伸ばして頂けると幸いです。
ベリルの物語がこれからどう紡がれていくのか、これからもお付き合いのほど、何卒よろしくお願いいたします。




