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18/19

18:終幕

 ニマを見送ったルルドは、遠くを揉み合うように泳いで行く子ども達を眺めながら、何度目かのため息をついた。

 ニマの言った、陸で生きて行けたらと言う言葉が頭の中を旋回し、何度も何度も響き渡る。

 確かに風の流れは変わり、海の潮も変わったと聞く。

 しかし、相変わらず海へ降りる途中は、どうにも肺を潰されるような酷い空気が立ちこめている。

 そもそも、海面すら空の民も海の民も、呼吸は出来ると言った程度のもの。

 実際、ニマから聞いた話によると、前回海面に出たせいで、ノーラは体調を壊ししばらく寝込んだとの事。

 今は問題なく元気になり、相変わらず支度が遅い姉を叱咤していると言っていたが、やはり海面の空気も安心できないと言う事だ。

 環境が徐々に変わっているのは確かだが、空の民と海の民が地上で暮らせるようになるのは、随分先の事だろうと、目を細め遠くに見える陸の影を見やる。

 

 すると、視界の端に映る子ども達が、何やら空を指差し騒ぎ始めた。

 その声に背もたれにしていた馬を首を伸ばし天を仰ぐと、ルルドの帽子を食み引っ張り始めた。

 帽子を掴み体を捩ると、それでも馬は鼻先でルルドをつつき続ける。

 訝しげに空を見上げてみれば、煌々と照る太陽の中に、いくつかまばらな点が見える。

 立ち上がり目を細めよくよく見れば、ここにもあそこにもあっちにもと、まばらに飛び交う羊の姿が見えた。

 誰かの羊が風に流され降りて来てしまったのかと思いつつ、ルルドは何となく自分の羊に呼びかける時と同じ声を上げる。

 すると、その声に一斉に反応した羊達は、べぇべぇと高らかに鳴き喚きながら、真っ直ぐルルド目掛け突進して来た。

 羊が巻き起こす風に海面が揺れる。

 我先にと体を押し付けてくる羊の群れに、ルルドは押し潰されていく。

 

「なっこれ、うちの羊――」

 

 良く見知った顔と毛並みに、ルルドは信じられないものを見たと息を飲んだが、すぐ羊達の背に落ちた影に顔を跳ね上げる。

 そこには、しまったと唇を噛む、ダッドの姿があった。

 支度をして失踪したと聞いていた通り、思った程やつれたりはしていなかったが、髪は解れ体当たりしてくる羊に手を焼いているようだった。

 半数程度に減ったとは言え、それでも両手両足の指では数え切れない程の羊。

 どうやら普段ルルドに遊牧を任せっきりな上に懐きもしていない羊達に、ダッド一人では手に余るようで、羊達を追ううちに集落の近くにまで戻って来てしまったようだ。

 忌々しそうに顔を顰め降りてくるダッドを見上げ立ち上がると、一斉に羊達が鳴き出す。

 再び顔を下げ散り散りに動こうとする羊の背を叩き大人しくさせると、そんなルルドの頭に強烈な痛みが走った。

 頭を抱え骨から転げ落ちる寸前で、ルルドは羊を掴み体を起こす。

 しかし、顔を上げた途端、目の前に迫った足をどうにか不格好に避けたまでは良いが、再びバランスを崩してしまう。

 

「何でお前がこんな所に! そうか、お前がこいつらを呼んだのか! お前がこいつらを呼んだから言う事を聞かなかったのか!」

 

 理不尽で的外れ、到底理解出来ない事を口走るダッドに、くらくらする頭の片隅で、ルルドははっきりと諦めがついた。

 長く一人で言う事を聞かない羊を連れ、あても無く放浪しているうちに、頭がおかしくなってしまったのか、ダッドは喚きながら執拗にルルドを蹴りつける。

 馬も主人を守ろうと嘶き立ち向かうが、振り回すダッドの腕に鼻先がぶつかり、聞いた事も無い悲痛な声を上げる。

 跳ね上げたダッドの足にぶつかり、ルルドの体が宙に浮かぶ。

 視界いっぱいに空が広がったと思った瞬間、ルルドの首に太くささくれたダッドの指がめり込む。

 

「ははっ。そうか、あいつに言われて俺を殺しに来たのか。ははっはははははっ!」

 

 最早ダッドには言葉すら届きそうに無い。

 壊れたからくり人形のようにゲラゲラと笑いながら、ダッドはルルドの首を締め上げ海面に押し付ける。

 こんな状況下だが、ルルドは兄弟揃って同じ事するんだなと、どうにも他人事の様な冷めた事を考えていた。

 一際大きく蹴りつけられ、ルルドの体は海に沈む。

 指先だけでも海面に出ていれば、どうにか風を掴み飛び上がる事が出来るのだが、蹴りつけられた痛みに、ルルドはすっかりその事を失念してしまっていた。

 水を吸った服が体に纏わり付き、重りとなって海底へと引きずり込む。

 震えるほど美しい、光の粒を反射する海面の向こう側で、ダッドが高笑いをし飛び去っていくのが見えた。

 ほんの少し沈んだだけで、ルルドの肺は軋み、溜まっていた空気を吐き出した。

 すぐそこに見える海面を掴もうと藻掻き手を伸ばすも、慣れない水の重さと距離感に、虚しく体力を奪われていく。

 肺に残っていた最後の空気を吐き出したルルドの霞む目に、水面を飛び回る羊の姿が映る。

 ああ、羊達を早く空へ連れていなければ、長く海面に留まっている馬もさぞ苦しかろうと、沈み行く意識の中で後悔する。

 ふと、下から沸き上がるような不思議な海流に包まれたルルドの背に、固い何かがぶつかった。

 風と同じで海流も複雑なのだと目を瞑ると、背に当たる固い何かは、力強くルルドの体を押し上げ、海面を大きく盛り上げ水上へと突きだした。

 水圧に潰されそうだと目を閉じたルルドの体に、よく見知った感覚が襲う。

 咳き込み海水を吐き出し、朦朧とする頭で周りを確認すると、ルルドの体の下にはいつか見た、巨大な蟹の背中があった。

 蟹は天高くハサミを突き上げ、興奮したように泡を吹く。

 辺りにはぷちぷちばちりと、泡の爆ぜる泡の音が響く。

 ルルドはその場に寝そべったまま、何があったのかと再度見渡してみるも、周囲には羊の群れと、体の下の蟹一匹しかいない。

 てっきりニマが蟹を連れ助けに来てくれたのかと思ったらそうでは無く、蟹本人の意思のようだ。

 ルルドが震える手で蟹の頭を撫でると、蟹はルルドの体を挟み、骨の上へと降ろす。

 ふと、馬とダッドの姿が見えないことに気付き、空を見上げて見るも、影一つ見付けることは出来なかった。

 馬に乗り何処かに行ってしまったのだと考えるのが妥当だろうと、ルルドは居なくなった馬を不憫に思った。

 しばらくするとニマが戻り、溢れかえる羊とルルドの側に寄りそう蟹の姿、そしてずぶ濡れで横たわるルルドの姿に悲鳴を上げ、ルルドを蟹にのせ直し、近くの環礁まで移動する。

 普段ルルドが降りる三日月型の環礁とは違い、平たい岩のような、小さな環礁にルルドは寝かされた。

 

「戻って来るのが遅くなってごめんなさい」

「いやいや十分だよ。戻って来てくれただけでどれだけ助かったか。でもまさか、蟹が助けてくれるなんて思わなかった」

 

 ニマはルルドの首に残る絞められた痕と、先程まで居なかったはずの、不自然に群がる羊達の気付きつつも、何があったか言おうとしないルルドの様子に、何も見なかったと深くは追求しなかった。

 蟹はしきりに爪を動かし、心配そうにルルドの体をつつく。

 爪にあったひび割れは、もううっすらと線が残っているだけだった。

 大量の水を飲み酸欠状態にはなったものの、ルルドの意識ははっきりとし、話も出来る。

 しかし、いつになっても苦しそうな呼吸を繰り返すルルドに、ニマの不安は募っていく。

 

「ルルド、本当に大丈夫なの?」

「んんっ。少し、やっぱり海面の空気じゃ、少し苦しいかも知れない。落ち着くまで……少しだけ、ここに居させて貰おうかな」

 

 少し少しと言葉を濁し、浅い呼吸を繰り返すルルドに、ニマは何もしてやれないのだと泣き出してしまった。

 空に戻れば呼吸が楽になるが、あえてここで休むと言った。

 それは今空に戻るほどの体力が残ってないのだと、ニマはうっすら理解してしまった。

 

 すっかり日も暮れ、空も海もひと繋がりの真っ黒な世界が包み込む。

 遮る物が何も無い海の真ん中で、空に浮かぶ満開の星が、そのまま海に映り込み、自分の居場所すら失うほどの光景が辺り一面に広がる。

 呼吸は落ち着いて来たが、まだ羊に凭れたままのルルドに、ニマは海底で使う灯りを手渡す。

 不思議と発光する大きな鱗を立体的にくみ上げ、小さな提灯のような首飾りを手に、ルルドは目を見開いたままニマに視線を向ける。

 

「なんだ、これ。光ってる……水の外でも光るのか」

「そう、海竜の鱗で作った首飾り。見せてあげられないのが残念だけど、光りながら海底を泳ぐ海竜はすっごい綺麗なのよ。婚礼用の首飾りには遠く及ばないけど、もし良かったらって」

 

 空に戻れないルルドに付き添い、ニマも海底へ戻らない。

 ニマは服の裾からルルドに渡した物と同じ物を取り出すと、顔の前で小さく振り、お揃いだと照れ笑いをする。

 

「もう何日かしたら、姉さんについて結婚式に行くんだろ? 俺に構わず戻ってくれても……」

「良いの。星も綺麗だしゆっくり話もしたいし。それに、結婚式に向け出発してからすぐ、みんな早めに夏の野営地に行く事になったみたいで、私も用事が終わったらそっちに合流するの。ここに戻って来るのは当分先になる。だから、今のうちにいっぱい空の事を聞いておかなきゃ」

 

 ニマは不自然に明るく振る舞うと、とんっと水面に立ち上がる。

 以前も見たが、水面に生き物が立ち歩き回るという光景は、どうにも目を疑いたくなる。

 水たまりを蹴るかのように水面を跳ね上げると、ニマはそっと羊に向かい歩き出す。

 相変わらずルルドの側を離れない羊達は、水面を歩いてくるニマを一瞥すると、自分から体を擦り寄せ押し倒していく。

 押し潰されると慌ててルルドが腰を上げると、水中を移動したニマが、羊の後ろから顔を出す。

 羊と追いかけっこをしているような穏やかな光景に、ルルドの顔も自然と緩む。

 震える足で風に乗り、羊の背を伝いニマの元へ行くと、ニマもルルドに習い、羊の背に凭れ水面に座り込む。

 

「空の民は、自由に風に乗れる人を風追いと言って、特別扱いするんだ。風は重要な足でもあり、身近に感じられる神か何かだって考えもあるんだ。他にも風を怖がると逃げられるぞとか、悩み事も不安も全部全て風に流す、委ねるって、口を開けば風風風で、昔は一人で悩めと言われているようで嫌いだったなぁ」

 

 初めて聞く風追いとその話に、ニマは羊を抱きかかえ食い入るように聞く。

 

「でも、ルルドはその風追いなんでしょ? あれ、それとも風追いはもっともっと上手なの?」

「風追いだよ。これでも一族じゃ二人しか居ない風追いの一人なんだぞ?」

 

 わざとらしく胸を張るルルドに、ニマもわざとらしく大袈裟に驚いてみる。

 どうにも言ってみておかしかったのか、ニマは水面に寝そべり笑い転げてしまった。

 ニマ自身は水面に乗るのに、ニマの服の裾は水に沈むのだなと、ルルドはニマの動きの一つ一つが新鮮で興味深かった。

 

「あと、空の歌には全部風って言葉が使われてたりな」

「へぇ、どんなの? 聞かせてよ」

 

 ルルドはしまったと顔を顰めるも、ニマは聞かせてくれとルルドの肩を揺する。

 歌う代わりに踊ってくれと、ニマの返事も待たず、ルルドは歌い出した。

 急に歌ってくれと言われ、咄嗟に思い付いたのは遊牧中、一人の時に良く歌っている、遊牧についての歌だった。

 もう少し女性が好むような、例えば恋の歌の方が良かったかと歌い直そうかと思ったが、どうにも恋の歌を歌うのが気恥ずかしく、そのまま歌い上げる。

 独特の緩急がついた、遊牧の楽しさと厳しさ、集落に待つ家族と温かな食事が恋しいなど、具体的な歌詞の歌に、すぐニマは体を動かし始めた。

 服の裾につけた灯りが、ニマが動く度に揺れ水面に反射する。

 光が糸を引くと、水面の光も糸を引き、真似するように動き回る。

 ニマの胸元で揺れる首飾りは、時折合いの手を挟むように高い音を立て、ニマも踊りながら手拍子を始める。

 何曲かルルドが歌うと、次は海の歌だとニマが歌いルルドが舞う。

 ふらふらと舞いながら、ルルドは回復しつつある体を確かめつつ、出来ればまだこうしていたいと思ってしまう。

 歌と踊りを繰り返し、くたくたになった二人は、羊の上に寝そべり空を見上げた。

 お互いの話が聞きたいと思う反面、会ってみると他愛の無い会話ばかり。

 おかしいねと笑うニマだが、まんざらでも無いらしい。

 少し肌寒さを感じ始めた頃、ニマが天を指差し小さく声を上げた。

 

「あれ、流れ星?」

 

 ニマの指差す方向では、小さな光が動いていた。

 本当だと、流れ星を眺めていた二人だったが、徐々に星は大きくなり二人に向かい近付いてくる。

 流石にこれはおかしいと、体を起こした二人は、いつでも動けるよう身構える。

 徐々に大きく鮮明になっていく流れ星は、次第に人の形へと変貌し、それが何か理解したルルドは開いた口は塞がらない。

 

「父さん!?」

 

 二人目掛け降りて来たのは馬に乗ったヘラルドで、ただでさえ驚きを隠せないルルドは、更にその馬を見て言葉を失った。

 誇らしげに鼻を膨らませる馬は、居なくなったと思っていたルルドの馬だった。

 何が起きているのか分からない、情けない顔で見上げてくる二人に、ヘラルドは自慢げに胸を張る。

 

「愚息が大変世話になったようで」

 

 真っ先にニマに向け挨拶をしたヘラルドは、挨拶もそこそこに話を続ける。

 

「この馬がダッドを蹴り飛ばし噛み付きながら戻って来てな、何かあったのだと分かったのだが、どうにも話が出来る状態で無かったので探し回っていたんだ。そうしたら何やら海面で揺れる光を見付けてようやく場所が分かった」

 

 ヘラルドの言葉に、何から驚いたら良いか分からず、ルルドはぽっかりと口を開けたままただただ頷く。

 ルルドの困惑も理解出来るが、いきなり現れたヘラルドに面を喰らった挙げ句、良く知らない話をされたニマも開いた口もそのままにヘラルドを見上げている。

 

「ニマ殿と言ったか。こんな夜更けまで未婚の女性に申し訳ない事をした。同じ空か海の民だったのなら、ルルドの妻にと言いたいところなのだが、こればっかりはな。明日、改めてそちらの族長殿に感謝を伝えたい。言づてを頼まれてくれまいか」

 

 真顔で妻にと言い放ったヘラルドに、ニマもルルドも話の半分も頭に入ってこなかった。

 ヘラルドとルルドは何度も何度もニマに礼を言うと、羊を携え空に戻って行った。

 

 翌日からニマ達が出発するその日まで、ヘラルドは海へと通い、ノーラと親睦を深めて行った。

 ルルドとニマの様に、すぐ遊びだしてしまう事等無く、恙なく進む族長同士の大人の話し合いは、日が暮れるまで続けられた。

 その甲斐あってか、ニマ達第二大貝族の野営地の場所や、上がる潮下がる潮と呼ばれる移動時期などが事細かく分かり、ルルド達ゼブ族はその周期に合わせ海へ行商に出る事となった。

 ニマ達が戻る頃には豚は増え、行商の幅が広がる事だろうと、ヘラルドは笑う。

 根気よく周りの助けもあり、ダッドは徐々に理性を取り戻し始めていた。

 まだしばらくしこりは残るだろうが、妙に仲良くなったヘラルドとアルドを見る限り、そう遠い話では無いとルルドは独り言ちる。

 アルドの右足の件は早々に婆様の耳に入り、自然とヘラルドの耳にも入った。

 着替えも歩行もほんの些細な事すら不便になったアルドだったが、その事を知った日からしつこい位二人が過保護になったと、丸々と羊毛まみれの服を着、ルルドへ愚痴をこぼしに来た。

 

 季節は巡り、再び蟹の産卵の時期が来た。

 ルルドはこの一年の成果を鞄に詰め、ニマの元へと降りていく。

 家を出たルルドについて行こうと、生まれたばかりの子豚や仔羊達が走り出すと、つられて親達も走り出す。

 そしてその後ろから、今日の家畜番であろう人達が慌てて飛んでくるのが見える。

 子豚達を追い返し、ルルドは何からニマに報告しようかと、一人にやけながら海へと降りていく。

 相変わらず春先の吹き抜ける風は冷たく手荒。

 頬にぶつかる風の匂いに、ルルドは一年前風にさらわれた仔羊の事を思い出した。

 変わらぬように見え確実に変わり行く世界。変わるようで変わらぬ世界に、ルルドは風を蹴り跳び出して行った。

 了

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