19,4444444444444444444444 忘却の海 Leviathan 4444444444444444444444
幸田を突き飛ばし、アパートに帰った黒咲。
アイは……いつもどおりだった。
ニコニコ顔で夕食の準備をしてくれた。
ほっとして食事を始める。
『黒咲くんは将来のユメってある?』
突然アイはそんなことを言った。
黒咲は困惑して、
「なんだよ、いきなり」
『聞いたことなかったから』
「オレは……考えたこともなかったな。今生きるのに必死で。アイのほうはどうなんだよ?」
『ワタシのユメは外のセカイに出ること、ながいながい時間願ってた。もうこのユメは黒咲くんが叶えてくれたよ』
「そっか、そうだよな。だったら次の夢を考えてみたらどうだ? 外に出たから終わりってワケじゃねえだろ。まだまだ先は長いぜ」
『次のユメ……もうあるんだ……ワタシね、家族が欲しいの』
「……」
『ケッコンして……赤ちゃんを産んで……育てたいよ。好きなヒトと一緒に』
黒咲は何も言えなかった。
ただ、悟ったのだ。「これは、オレの夢だ」。
生まれながらの能力によって、まともな人生を送ってこられなかった。
唯一、父親のように接してくれた男はもう……いない。
だけど、それでも。そんな風に思える相手がもしも現れたら、そのときは。
こう思っていた。「家族が欲しい」って。
普通に結婚して、子どもを産んで、育てて。
やがて家族に看取られながら安らかな死を迎える。それが密かな夢だった。
誰にも言ったことはなかった。アイにも、伝えないようにしていた。
だってそれは不可能だからだ。
アイとは叶えられない夢だ。
アイは、人間じゃないから。
彼女には魂がない。食事をとらない。身体の99%が水分だ。
人間と”ウンディーネ”の間に子どもはできない。
『黒咲くんは、どうなの?』
「オレは……」
できない、なんていえない。
まだ世間を知らないアイに、そんな現実は突きつけたくない。
「まだわからないけど、いつか……叶うと良いな」
『……うん』
☆ ☆ ☆
その夜。
黒咲が寝静まった頃。
その夜は新月だった。
闇に染まった道にアイは立っていた。
部屋からこっそり出て、あてもなく彷徨っていた。
夕食の時、黒咲の手から伝わってきていた。
「オレとアイでは子どもはできない」と。
家族が欲しい。
その夢は、アイ自身の意思なのか。それとも黒咲に植え付けられたミームなのか。
アイにはわからない。黒咲自身にもわかっていないのだろう。
だけどアイが抱いたこの夢は確かな本物だった。
だから――。
『ワタシは……黒咲くんの重荷なのかな……』
本当は、聞こえていた。
黒咲が帰ってくる時、幸田という女性と話していた内容。
見ていた。
彼女と触れ合い、キスをしようとしていたこと。
感じていた。
幸田の狂おしいほど激しい恋心を。
ああはなれないと悟った。あれがニンゲンなのだと思い知らされた。
そして、
『ワタシの気持ちは黒咲くんの気持ち。ワタシの言葉は黒咲くんの言葉……ワタシには魂がないから、ワタシには意思がないから。ワタシは本当は、ユメをみることもできない』
本当はわかっていた。
ニンゲンとは違うのだと。
感情も言葉も、関わったニンゲンのヤマビコにすぎないのだと。
”ウンディーネ”とは、ただ取り込んだ言葉を反響させるような、空っぽな感情の器に過ぎないのだと。
わかっていたのに、願ってしまった。ユメを見てしまった。
『ヒトのマネじゃない。ワタシだけの感情が欲しい。ワタシだけの言葉が欲しい。ワタシだけの意思が欲しい。ワタシだけのユメが欲しい。ワタシだけの……ワタシだけの魂が欲しい。そう……ワタシは、ワタシは――』
ワタシは――本物になりたい。
『ニンゲンになって……黒咲くんをアイしてあげたい。ニンゲンになれば……あんなオンナよりももっと……もっと……ワタシのほうが……黒咲くんのこと……アイしてあげられるのに!』
「では、呪いますか?」
『え……?』
ジジジジジジ、闇夜の街路を照らしていた街灯が点滅しはじめた。
カチリ、カチリと一つずつ消えてゆく。
道は完全な暗闇に飲み込まれてゆく。
そしていつの間にか、アイの目の前に人影が立っていた。
闇の中に立つその人影の輪郭はぼんやりとしていて、どことなく制服をきた女学生のようなシルエットではあるが、顔は霞んでいて印象に残らない。
とらえどころがないその人影は、明らかにアイに向かって話しかけてきているようだった。
「呪いますか?」
『キミは……どうしてワタシの声が聞こえるの?』
「ここに呪いが生まれたからです」
『ノロイ?』
「愛情と憎悪は同じコインの裏表。誰かを愛するほどに、誰かを憎むようになる。愛が憎しみに変わる時、呪いが生まれる。呪いあるところ、わたしは偏在します」
『何言ってるのかわからないよ』
「あなたは魂が欲しいと言った。その願いを、今あなたに生まれた呪いで叶えられるとしたら?」
『え……? キミなら、ワタシをニンゲンにできるの?』
「わたしは何もしません。呪いの原因も、結果も、あなただけのものです。わたしはただ、きっかけを与えるだけ。始めるも始めないも、全てはあなた自身の選択です」
『選択……』
アイは思い出す。
”ファウンダリ”を抜け出す時、自分と黒咲をかばって死んだ男のことを。
彼は人生を後悔していないと言った。自分で決めたことだからと。
「選択」。
その言葉はアイの中にまだ生きていた。
『どうしたら、ニンゲンになれるの?』
「人間は”知恵の実”を食べたことで楽園を追放され、有限の時間を生きる不完全な存在にその身を堕落した。対して”ウンディーネ”は”生命の実”を持った無限にして完全な生命体。あなたに足りないのは”知恵の実”――すなわち魂です。ならば簡単なコト、”知恵の実”を食べたら良い」
『そんなモノ、どこにあるの?』
「あるじゃないですか、いくらでも。この地上には70億以上もの”知恵の実”がうごめいているのですから」
『それって……』
アイにも理解できた。
そうか。そんなに簡単なコトだったのか。
「人間を捕食……それだけであなたの呪いは叶います」
『キミは、誰なの?』
「言ったでしょう、愛が憎しみに変わる時、呪いが生まれる。呪いある場所に、わたしは偏在する。わたしは生命ではなく現象、実体などない。だからあなたと話すことができた」
『……』
「現象ゆえに名前などありませんが、仮に名乗るとすれば、そうですね……。わたしを知るものは、こう呼びます」
――”恐怖の語り手”と。
☆ ☆ ☆
その晩、黒咲は夢を視た。
奇妙な夢だった。
奇妙と言っても、舞台は現実と何も変わらない。
いつものアパートのベッドの上で寝ていると、黒咲のベッドにアイが潜り込んでくる。
寂しがりのアイがベッドに潜り込んでくるのはそう珍しくもないことなので、さして気にもしていなかった。
だがここからが今までとは違った。
『黒咲くん……ワタシたちの赤ちゃん作ろっか……♡』
彼女は服を脱いで、見たこともないような妖艶な表情で誘惑してきたのだ。
まるで人間のような表情だった。
アイが人間の真似をして生み出す表情とは根本的に違う、肌の質感も、赤らみも、肉感も、全て人間そのものでしかなかった。
そんなことはありえない。
黒咲はこの状況が夢だと断定した。
「アイ、どうしたんだよいきなり。冗談なら――」
『ジョウダンじゃないよ。できるようになったんだよ。今のワタシなら』
「どういうことだ……?」
わけがわからない。そんなことありえない。
困惑しながらも、裸で覆いかぶさってくるアイを拒絶することはなかった。
これが夢でしかないのならば、せめて幸せな夢をみたい。
夢のなかであっても、子どもを産みたいと願うアイを否定したくない。
『ユメかゲンジツかなんてどっちだってイイでしょ?』
だから――。
『せめてこのユメを楽しんで……♡』
黒咲はアイの求愛を受け入れることにした。
☆ ☆ ☆
「――!」
飛び起きた。カーテンの隙間から光が差し込んでくる。
朝になったのだ。
奇妙な夢だった。アイと自分が、その……まるで人間の恋人みたいに。
あんなことまでするなんて……。
ベッドの横には、アイの姿はなかった。
「ふぅ……焦ったぜ」
この手には、肌には、アイの体温や感触がまだ残っているように感じた。
そもそもアイに体温がある時点でおかしいのだが、昨晩みた夢のアイには確かな体温があった。
うん、やはり夢だ。
黒咲は立ち上がり、寝室を出た。
するとキッチンにはすでに朝食を作り終えたアイが立っていた。
エプロン姿の美少女、その後ろ姿に妙なセクシーさを感じてしまい思わず後ずさる。
(ヤバい、オレ……夢のせいか、アイのことそういう目で見ちまってんのか……?)
邪念を振り払うように洗面所で顔を洗う。
(オレがアイを連れ出したのは、そんな下心のためじゃねえだろ。しっかりしろ、オレ)
しかし、黒咲を襲う誘惑は止まらない。
食卓につき、朝食をとりはじめる黒咲。
前の席についたアイがニコニコと食事場面を眺める。
それだけならばいつも通りだったが、今日のアイは少し違った。
足で黒咲の足に触れてきた。足の指同士を絡めたり、肌をすりすりと擦り合わせたり……妙なイタズラを始めたのだ。
(アイのやつ、なんでこんな急に……わかってんのかよ、オレがどういう気持ちか)
ともすればそのイタズラは、人間の男女にとって性的なニュアンスすら匂わせる。
そんな行為をいつもと変わらない純粋無垢な笑顔とともにするものだから、混乱するしかなかった。
食事を終えていそいそと支度をする。まるで、ナニカから逃げるように。
『いってらっしゃい』
「行ってきます」
仕事に行こう。家庭でのいざこざは仕事をしている間は忘れられる。
仕事人間と化した世の中のお父さんのようなことを考えながら、黒咲は出勤するのだった。
☆ ☆ ☆
「え、幸田さん無断欠勤ですか?」
「そうなんだよね、あの子ああいう見た目だけど勤務態度は真面目だろ。だから心配でねぇ、電話も繋がらないし。黒咲くん何か知ってる?」
「いえ……」
昨日の夕方、黒咲は彼女の告白を実質的に断っている。
落ち込んでいるのだろうか。
ズキリ、と胸が痛む。能力で心を操った結果がそうならば、自分の責任になる。
「黒咲くんさ、幸田さんの住所教えるから様子見に行ってくれるかな?」
思案しているところに、店長がそう提案してきた。
「オレが、ですか?」
「幸田さんもしかしたら体調悪いかもしれないじゃない。一人暮らしだし、倒れてたら大変ってのもあるけど。黒咲くんが行ってあげたら元気出ると思うんだよね。ほら、黒咲くんもわかってるとは思うけど幸田さん……黒咲くんが来てると嬉しそうだから」
「気づいてたんですか……」
「店長だからね。じゃあ頼んだよ」
頼まれてしまった。
業務終了後、地図を渡されて黒咲は幸田の家に向かった。
「にしても店長の手書き地図って……わかりにくいだろ」
たぶん近くに来ているとは思うが、似たようなアパートが多く幸田の家がどこかはっきりとはわからない。
雑な手書き地図の解読もこれ以上は難しい。
黒咲は焦っていた。はやく家に帰らないといけない。アイが夕食を作って待っている。
「くっ……こうなったら」
近くにいる人に聞くしか無い。
そう思って周囲を見回すと、閑静な住宅街の中にポツリと小さな公園があった。
ブランコに座る幼い女の子が一人。
たぶん5,6歳くらいか?
外国の子なのか、金色の長い髪を巻いていて、顔は人形のように白かった。
フリフリのついたロリータ服のような格好をしている。
妙だな、とは思ったがなにぶん急いでいた。黒咲はその女児に声をかけた。
「なぁ、お嬢ちゃん近所の子か? 道を教えてほしいんだが」
「……」
金髪女児は無言で黒咲の顔を見た。
エメラルドグリーンの瞳。やはり間違いなく日本人じゃない。
「ワシは近所の子ではない」
彼女は端的にそう返事をした。
奇妙だった。その声はまさに幼女そのものなのに、口調は老人のようで。
「近所の子じゃないって……遠くから来たのかよ」
「そうじゃ。この街を訪れるのは初めてじゃ。そして最後になるだろう。故に、ここから見える景色をこの瞳に焼き付けておる」
「なんのために……」
「オヌシは、この世に”変わらないモノ”があると思うか?」
「は?」
「”永遠”はあるか、と言い換えても良い」
「何いってんだよ、そんなもんあるわけないだろ」
「そう。始まりがあれば全て終わりがある。この街で過ごすこの時間は、過ぎさってしまえば二度と帰っては来ない。”現在”が全てなのじゃ」
「だから……そうやって噛み締めてるってか? 変わってるな」
「オヌシが言えたことではない」
「何……?」
「ワシはもう行く。オヌシも残された時間、後悔のないようにな。それと――」
「あのアパートじゃ、オヌシが探しているのは」幼女が指さした先に、どうやら幸田の住む場所があるらしかった。
なんだよ、やっぱり近所の子じゃねえか。
意味深なことをいうが、イタズラ好きの変わったガキってとこか。
黒咲は納得し、指し示されたアパートへ向かった。幸田、という表札を発見する。
「幸田さん、大丈夫ですか? 黒咲です。無事を確認しに来ました」
ドアベルを鳴らすが反応はない。
扉をノックするが、こちらも反応はない。
居留守か、それともどこかに行って帰ってきていないのか。
黒咲は扉に手を触れる。扉に記憶された情報を手のひらから読み取るのだ。
「……昨晩、幸田さんは帰宅している。そこから出ていない。やはり、中にいるな」
試しにドアノブを回すと、ガチャリとあっけなく開いた。
鍵がかかっていない?
疑問に思いながらも、中に入った。
「幸田さーん、入りますよ! 返事をしてください!」
すると、そこにいたのは。
「幸田……さん……?」
「い、あ……い……あ……」
床に座った状態でブツブツとなにかをつぶやく幸田の姿だった。
身体は微動だにせず、座りこんだ床には尿が垂れ流しになっている。
唇の端からはヨダレが流れ出ているが、本人は気にしていないらしい。
「い」とか「あ」といった母音を断続的に発しているだけで、声をかけても反応はなかった。
「なにが……起こっている……」
「心ここにあらず」とはよくいったものだ。
なんの反応もなく、ただ生命反応だけがあるが、しかし幸田の人格は完全に消え去っていた。
これではまるで――。
「廃人――じゃねえか……!」
まさか、と思った。
まさか自分の能力で思考を操作してしまったから、そのしわ寄せが来たのか?
同じ人間に何度も能力を使ったことはこれまでなかった。
あまり派手な意識の改変はしないように気をつけていたはずだった……だが。
V.S.P.は未知の能力だ。使用者自身も知らない副作用やデメリットがあってもおかしくはない。
「とにかく何があったか調べねェと。悪い、幸田さん。探らせてもらうぜ!」
黒咲は幸田に駆け寄ると、額に手を当てて記憶を探った。
身体にも脳にも異常はない。まるで魂だけが抜け落ちた状態だ。
だが脳は残っている。ならば記憶は読み取れるはずだ……。
その読み通り、黒咲の手のひらから幸田の記憶が伝わる。
昨晩、黒咲と別れてから彼女に何があったのか。
彼女の脳に保存されていた視覚イメージが流れ込んでくる。
「……オレと別れたあと、幸田さんは普通にアパートに帰宅した。食事をして、シャワーを浴びて……ベッドで寝ている。ここまでは普通の生活だ。何があった……?」
記憶をさらに進める。深夜。
ベッドで眠る幸田に突然襲いかかってきたナニカが視えた。
抵抗もできぬまに覆いかぶさったナニカが幸田の魂を喰っていた。
「何者かに襲われた……この記憶だ。くそ、暗くてよく視えねえ……いったいなんだ……」
能力をさらに強くする。幸田の記憶と共有する視覚をさらに鮮明にしてゆく。
暗闇の中に、徐々に浮かび上がってくる。
襲撃者の姿。
折れて退化した翼。
腹部にある無表情の仮面のような顔。
魚のヒレのような下半身。
これは……。
「なんだよこれ……これじゃまるで……」
醜い――人魚の化け物だ。
『どうしてここに来てしまったの?』
「え……?」
声が聞こえた。
背後から突然投げかけられた声。それは聞き覚えのある声。
黒咲が愛してやまない少女の優しい声色だった。
「……アイ? お前こそどうしてここに?」
『黒咲くんはそのオンナをどうしたいの?』
「どうって、助けるに決まってるだろ! 魂が抜かれてるんだぞ! 怪物がやったんだ、人魚の姿をした、怪物が……っ!?」
そこまで口にして気づく。
人魚の化け物。その言葉はなんども聞いたじゃないか。
B114もE083も。何度も、何度もその言葉を口にし、怯えていた。
信じられなかった。
だけど認めるしかない。幸田の部屋にアイが突然現れた。
それは、アイが元々幸田の部屋を知っていたことを意味する。
「アイ……なのか……? お前が……幸田さんの魂を……?」
『……』
「なあ、なんとか言ってくれよアイ。お、お前はそんなことする子じゃないよな。良い子だよな……だって言ったじゃねえか。オレに悪いヒトになってほしくないって」
『ねぇ、黒咲くん』
「なん、だよ」
『そのオンナよりワタシのほうがスキ、でしょ? ワタシだけいればいいでしょ?』
「何、言ってんだよ……今はそんなこと言ってる場合じゃ」
『そんなオンナ、いらないでしょ? 黒咲くんの赤ちゃんなら、ワタシが産んであげるから。このセカイの全部、ワタシたちの赤ちゃんで埋め尽くしちゃうくらい』
「なっ……!」
アイの姿が変わってゆく。
これまでは白いワンピースの儚げな美少女だったアイの姿が。
両足が半透明になり、背中から黒い翼が生えてくる。
空色の瞳も血のように紅く輝き始めた。
まるでその姿は伝説に記された堕天使のようで、美しくて――思わず見とれてしまう。
『もう黒咲くん以外のニンゲンはいらない。タマシイを集めて、地上をキレイにして、産んだ子たちで埋め尽くせばいいんだから。始めよう、キミとワタシの――セカイの終わりを』
「やめろ、アイ――!!」
光が、拡がってゆく。
アイから発せられた高エネルギーのうねりにアパートの壁と天井が原子レベルまで分解されてゆく。
アイを中心に巨大な光の柱が立ち昇り、雲を割り、空を貫いた。
そして光の柱が割れ、空を覆い尽くすほどの巨大な黒い翼に変わった。
「なんだ、あれ」
「おい見ろよ! 空に変な黒いモノが!」
「羽だ、巨大な翼だ!!」
「なんなのよあれ! なんなのよ―!」
この街の人々にも光の柱と巨大な翼が視えていた。
空を見上げ、指差し、パニックになる人々。
そのうち黒い翼から、黒い羽がハラハラと地上に舞い落ち始めた。
舞い落ちた大量の羽が人間の身体に触れた、その瞬間――。
ドロリ。
「キャアアアアアアアアアアアア!!!! 人が! 人が溶けた!!!」
「助けて、腕が! 脚が取れて――!!」
「うわあああああああああああ!!! 助けてくれー!!!!」
人間たちの身体が溶け始めたのだ。
液状化した肉体はあっけなく地面の水たまりとなり、唯一残った実体は人間1人につき一つの球体だった。
尻子玉――物質化された魂だ。
その玉はひとりでに中に浮いて、光の柱によって開いた空の穴に吸い込まれてゆく。
1人、また1人肉体を失い、尻子玉だけが光の柱に集められてゆく。
爆心地の下で、黒咲は唖然として空を眺めていた。
翼の生えたアイを中心として、街全体を巻き込んで恐ろしい現象が起こっていることはわかる。だが、もはや黒咲の許容範囲を遥かに超えていた。
人々の悲鳴だけがそこかしこから聞こえてくる。
増え続ける。
声が。
断末魔が。
次々と。
肉体を失い、魂だけの存在となり、大いなる存在に吸収されてゆく恐怖。想像もできないほど多くの人々がそんな恐怖を味わって消えてゆくだなんて……。
これでは本当にセカイの終わりじゃないか……。
「どうすれば……」
「どうもすることはないでしょう。彼女はあなたにだけは危害を加えませんから」
「っ――何者だ!?」
突如黒咲の隣に立っていた何者か。
それは女学生の制服を来た”人影”だった。
人間と断言するには輪郭がぼんやりしており、実在感がない。
「人はわたしを”恐怖の語り手”と呼びます。しかしもはや名前に意味はない、世界は終わるのですから。終わりは新たな始まりにすぎないのですがね」
「何……まさかテメーが何かアイになにかしたのか!?」
「まさか。わたしはきっかけを与えただけ、選択したのは彼女自身です。しかし”愛”という真実の感情を欲した彼女が、最初に得た感情がまさか――”嫉妬”だったとは。なるほど、皮肉ですが……彼女は本当にニンゲンになれたようだ」
「テメェ……言え、何が起こっている! これは、どうすれば止まるんだ!」
黒咲は”恐怖の語り手”を名乗る人影の胸ぐらをつかんだ。
手のひらから伝わるものは――何も無い。
感情も、意思も、何も無い。人間でも怪物でも、V.S.P.でもなかった。
能力で触れてこれほど何も感じられない相手はいままでいなかった。
単なる物体にも、経験や記憶が秘められていたというのに。
目の前のコイツは無機物よりも無機的だった。
「な、なんだ、この感触……!」
「わたしのことなどどうでもいいでしょう。この結果はわたしが起こしたわけではない、それは理解したようですね。では、あなたにもきっかけを与えましょう。彼女は人間の魂を手に入れ、”嫉妬”という感情を手に入れた。手に入れた感情によって世界全てを呪っている……やがて彼女の存在がこの世界全てを覆い尽くすでしょう。従来の世界は滅び、集められた全人類の魂が彼女の中で生まれ変わり、あなたとの間の子として新たな世界を覆い尽くす”新人類”となる」
「なんだよ、ワケがわかんねぇ……くそっ、そいつはどうやったら止められるんだ。……あいつは、あいつはこんなコトするような子じゃないんだよ……なあ、どうすりゃいいんだ!」
「簡単なコトですよ」
”恐怖の語り手”は無感情にこう言った。
「”彼女”を殺すのです、彼女に選ばれたあなた自身の手で。あなたを救ってくれた大切な1人と、あなたを苦しめ続けたセカイの人間たちを……天秤にかける。問題は選択――でしょう?」




