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18,0 童咋沼の河童 Kappa(第惨蒐・終・前編)


 真っ白な廊下に少年は立っていた。

 立ち尽くしていた。

 眼の前には白く頑強な扉がある。

 鍵はかかっていない。

 ただ手を伸ばして、扉を開いて、一歩踏み出せば部屋の中に入ることができる。

 それでも少年は動かなかった。

 動けなかったのだ。


「……」


 何度目だろう。何十回か、それとももう何百回目か。

 こうして扉の前で何時間も立ち止まって。

 迷って。

 やっぱりダメだ。無理だって踵を返す。

 扉に背を向け、少年は歩き始める――その時だった。


「待ちなさい」

「……はい?」


 突然声をかけられ、少年は返事をする。

 白衣の中年男性が早足で少年に近寄ってきた。

 もちろん彼のことは知っている。

 服装通り、その男性は医者だ。

 扉の向こうにいる人物の主治医なのだから。


「久しぶりだね、こうして話すのは」

「話すことなんてないですから」


 白衣の男性に対し、どこかぶっきらぼうに少年が返す。

 男性は困ったような顔をして、「あるさ」と言った。

 彼は続ける、


「積もる話がたくさんある。私だけではないよ、”彼女”もだ」

「……話せる状態じゃないでしょう」

「いいや、随分と回復したんだよ。君と話したがっている。毎日ね。だからこうして面会許可を出したんじゃないか」

「患者の精神状態に悪影響が出ない保証はないですよね」

「”患者”じゃないさ、私にとってはそうだが――」


 白衣の男性はふぅ、とため息をついて続けた。


「――母親、だろう。君にとっては」

「母親……?」


 少年は、医師に背を向けて答えた。


「俺のことを覚えてるかどうかも怪しいのに?」

「思い出しているさ。毎日君に会いたいと、謝りたいと訴えている。疾患そのものはすでに完治していると言っていいんだ。しかし……君と再会しなければ、きっかけが無ければ彼女は前に進めない。事態はそういう段階に来ているんだよ」

「そんなセンチメンタルな医療があっていいんですか? そもそも家族だからって、他人が想像しているような”(キズナ)”ってヤツがあるとは限りませんよ、先生。しょせんは距離が近いだけの他人だ」


 そう吐き捨てる少年の表情は、医師からは見えなかった。

 ただその声色が年齢に見合わぬ諦念に満ちているのはわかった。


「先生は40代で医者。この病院で院長まで務めている、社会的地位も年収も持っている。家庭も……そうだな、奥さんは専業主婦で子どもは二人ってトコか。妻子との関係は心底良好で、家に帰れば温かい家庭が待っている。だから心の余裕があって、精神に問題を抱えた患者とその家族にも親身に接することができる。仕事が忙しいことにも家族の理解があるから、夜遅く帰ったりなんなら朝帰りしても疑われることはない」

「疑われる、とは? 何を疑われるというのだね」

「とぼけないでくださいよ。シャツの襟に口紅がついてます」


 少年がそこまで言うと、医師の眉がピクりと動いた。

 視線が襟元を向く。口紅の跡は――ついていない。思わずホッと息をついた。

 その様子は少年からは見えてない。

 にもかかわらず、少年は「当たってたみたいですね」と続けた。


「なぜ、そんなことまで……わかるのかね」

「べつに先生の”ストレス解消(おんなあそび)”を責めようってんじゃあないんです。先生の臨床家としての能力は高く評価していますよ。ただ言いたかったのは、家族だって互いの心を全て理解しているわけじゃあないってコトです。先生は家族を愛していて、決して裏切っているつもりじゃあない。そうでしょう?」

「それは……そうだが。しかしそんな”わかり方”をしてしまう君は……」

「そう、俺はこういうくだらない人間ってことです。生まれつきなのかなんなのか……”推理”する能力がある。ある人はそれを俺の”才能”だと言った。だけど俺はやっぱり今でも……これは”呪い”なんじゃないのかって思ってるんです」

「呪い?」

「”あの人”の心が壊れたのはたぶん、俺のせいだから。俺が生まれつきこうだったから」

「それがわかっているなら、なおさら君は彼女に会うべきだ」

「無理ですよ。言ったでしょ、”推理”できても結局他人の心はわからない。家族って言ったって結局は他人だって。また会っても、どうせ傷つけるだけだ。”推理”なんてできても、なんの役にも立たない。結局俺は……誰も救えない。生きているだけで他人を傷つける」


 少年はうつむいて、医師に背を向けたまま歩き始める。

 扉は小さくなってゆく。その先にいる人物から――少年の”母親”からも、少しずつ遠ざかってゆく。


「本当の謎は――人の心だ」


 ぽつりと呟いた少年の最後の言葉は。

 誰にも届かないまま、かき消えた。




   ”どうか Kappa と発音して下さい。”

         ――芥川龍之介『河童』




 

   ΦOLKLORE:第惨蒐最終話・前編 18 ”童咋沼(どうがみぬま)河童(かっぱ) Kappa”


遅くなりました。お久しぶりです。

今回から第惨蒐最終話・前編となります。

そして第惨蒐でこの連載自体が終了になる予定です。

どうぞ最後までお楽しみください。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  更新感謝です!    これは"せんぱい"の‥‥‥?  やはりどこか「壊れた」感じの印象を受けたのは間違いではなかったのか‥‥‥。  もちろんただの偏屈者とは思ってなかったが。  彼も彼女…
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