17.地獄の上下関係
逸話北高校剣道部は伝統のある部活動だった。
厳しいことで有名だったが、家の近くで剣道の強豪校はそこしかなかった。他県に独り暮らししてもいいんだぞ、と両親からは薦められたが、俺はそうはしなかった。何故なら――
「なあ、黒木。逸話北の剣道部に入ろうぜ! そこだったら俺も剣道続けられるし! スポーツ推薦はもらえなくても、塾に通えば馬鹿な俺でもギリギリ入学できそうだしよ!」
親友だった福永の一声で、俺は進学先を決定した。
より強い高校へ行って己を磨く環境を整えるよりも、俺は親友と一緒にいることを選んだ。迷いはなかった。小学校の時からずっと一緒の福永とはそりが合う。どんな時だってずっと一緒にいて辛いことも楽しいことも経験してきた。だから親に反対されながらも、逸話北高校を選んでよかったと思った。
でも、それは間違いだった。
逸話北高校の剣道部は、想像していたよりずっと苛烈だった。水分補給の禁止から始まり、放課後は夜十時まで毎日やらなければならなかった。特に一年生は辛かった。雑巾がけや道具の準備、片づけなど雑用は全て一年生。上級生が揃うまで放課後は全員正座をして待ち続けなければならない。そして上級生のストレス発散のためのサンドバッグ役をさせられていた。
「オラオラッ! 遅いぞ! 一年!」
「す、すいません!」
その日。
いつものように、一年生は全員、防具をつけたまま体育館を周回させられた。十周でも二十週でも誰かがバテるまで何時間でもやり続ける。遅れている奴や手を抜いた走りをした奴には、先輩からの竹刀の一撃をもらう。防具の間の背中や足などに容赦なく飛んでくるのだ。
そんなことをしていれば、疲労や脱水症状の手前の症状が発生して倒れる奴も出てくる。
そいつは土下座の恰好をさせられ、上に先輩が乗りかかる。
「すいませんでした! すいませんでした! すいませんでした!」
「声が小さい! あと百回っ!」
「すいませんでした! すいませんでした! すいませんでした!」
その百回も先輩のさじ加減。先輩は数えてすらなくて、スマホをいじりながら後輩に躱せたジュースを飲んで笑っていた。
二年三年は常に俺達をしごいていた。
一年の夏休み。
剣道部は学校に泊まり込みで休みのほとんどを体育館の中で過ごしていた。先生が見回りに来ることはない。先生もこの状況を容認しているのだ。時代錯誤なしごきを誰かに言おうものなら、そいつは報復にあう。呼び出されて先輩たちがとりかこんで、竹刀を打ち付ける。そうなることを、俺達はみんな知っている。
だから、部活を辞められた奴は一人もいなかった。
少しでも口答えする者がいたら、全体責任で夕飯抜き。夜、永遠と立たされる。そんなことが本当にあるので、俺達は命懸けだった。ただただ先輩たちのご機嫌取りのためにやっていた。俺達はずっとこの地獄を耐えるしかなかった。
「おい! 福永! お前、今生意気な眼ぇしたなあ! おい!」
「いえ、そんなことは……」
「ほら、土下座しろぉ! 土下座ァ!」
「……はい」
部長が声を荒げながら、いつも通り適当な理由を見つけて福永をしごく。誰でもいいし、理由もどうでもいい。ただ毎日毎日、お前の髪型が気に喰わないなど、今返事が遅れた打の、どうでもいいことで部員をいびる。
土下座させた福永を椅子代わりにして部長が座ると、竹刀で尻を叩く。まるで馬扱いだ。
「ほら、ほら下がってきてるぞお。お前のせいで、また今日もみんな飯抜きかぁ、ああんっ!」
「ぅぐっ」
とうとう福永は泣き始める。みんなが見ている中で、人権を無視され続けたら誰だってそうなる。一年生は顔面蒼白になりながら、みんな顔を逸らす。もしも部長と目が合ったりしたらのなら、次は自分の番なのだ。
誰もが見てみる振りする中、上級生たちは盛り上がっている。お菓子を頬張りながら、手を叩いて爆笑していた。
「はははは! おいおい泣くなよお! これだから最近のゆとりはよお! いや、さとりだったか? どっちにしろお! 俺らが一年の時も同じことを先輩にされたんだ! だからお前達も同じ苦しみを味わうべきなんだよ! 俺達だって辛い! 辛いけどなあ、我ら剣道部がこうして強豪となっているのは、この合宿で鍛えられた精神力によるものなんだ! だから、耐えろ! 耐えて強くなれ!」
福永はこちらをジッと見つめてきた。
涙と鼻水でべったり顔を濡らしながら、声に出さずに口を動かす。
――タスケテ。
その声なき声に、俺はブチンとキレた。薄情にもその親友の声を聴くまでは、俺も目を逸らそうとした。助けてしまったら俺がどうなるか分からない。巻き込まれる。でも、もう我慢できなかった。この数ヶ月間俺達は人間として扱われていない。
「――いい加減にしてください」
おい、やめろっ! と小声で同級生が静止する声が聴こえるが、出した拳を引っ込めることはもうできない。
「ああ? 黒木か? どうして? ん? お友達を助けるために正義の味方気取りかあ? 試合中はなあ、一人なんだよ。剣道っていうのは、強くなくちゃいけない! たった一人きりでも戦いぬくための強さが必要なんだ! そんなもの剣道には必要ないんだよ。それに……なあ、黒木。お前、刃向ったらどうなるか分かってんのかあ?」
「もういいですよ。鍛えるのは確かに重要ですけど、これはやり過ぎです。こんなのしごきじゃない、ただの傷害事件じゃないですか!」
「……お前、何も分かってないみたいだな。これは『教育』なんだよ! 俺達先輩からお前ら後輩に対する愛の教育なんだ! お前らみたいな根性なしの餓鬼は、こうやって叩いて! 伸ばすしかないんだよ! ほらお前がちゃんとしないから黒木が調子に乗っただろうが! 謝れ!」
「すいません、すいません!」
這いつくばっている福永に、本気で竹刀を何度も打ち付けていく。
「黙れよ、老害」
俺はその竹刀を横からガッと無理やりつかむ。
「なに?」
「あんた達がやっていることは、ただの現実逃避。逃げだよ。先輩にやられたしごきをいじめだったと認めたくないから、同じことを繰り返しているだろ。『俺達がやったことは無駄じゃなかった。厳しいことをされたけど、心は鍛えられた』――そんなの、ただ過去を美化しているだけだ! 汚い部分を見ようとしないただの弱い奴のやることだ!」
「……言いたいことは、それだけか? 黒木」
部長の目が据わる。
それを見て、周りの一年が震える。
前々から俺が良く思われていないのは知っていた。福永を標的にしたのも、俺がこうやって反抗するのを待っていたからというのもある。俺が自ら反抗すれば、厳しく粛清できるからだ。
「お前、少しばかり中学の時にまぐれで活躍したからって調子にのっているみたいだな。いいだろう。お前がそこまで言うなら、一つ試合をしてやるよ」
「試合?」
「そうだ。俺とお前で試合をして、勝った方がなんでも言うことを聞くっていう条件だ。どうだ? 分かりやすいだろ」
にやにやと他の先輩たちが笑っている。部長の強さは俺も知っている。全国区の強さであり、どれだけ俺が結果を残していても去年まではただの中学生。ここにいるみんな俺が逆立ちしても部長に勝てないことを確信していた。
どいつもこいつも、俺が負ける姿を想像しているのだ。
その笑み、消してやる。
「……分かりました! その条件で試合をさせてください!」




