ミオット領へ
ミオット侯爵領は王都の東側にあり、大河と肥沃な土地を有する豊潤な土地だ。臣籍降下した王子が始まりと言われ、暫くは王女が降嫁した由緒正しい家柄だ。代を重ねた今は王家との距離は開いたけれど、侯爵家の中では上の家格を維持していた。
王都から馬車で二日の距離にあるミオット領は延々と畑が続き、一見しても豊かなことは明らかだった。馬車が走る街道もよく整備されていて、これまで通って来た他領よりもずっと乗り心地がよかった。
「ああ、あれがうちの別荘のある森だよ」
レニエ様が指示した先にあったのは、山の手前に見える広々とした森だった。空は青く、日差しがちょっと強く感じるけれど風が優しく頬を撫でて、あまり暑さは感じなかった。
「あれが……」
そう言えばシャリエ伯爵領にも行った記憶がなかった。父は領地のことは家令に任せっきりだったのもある。こうして遠出するのは人生で初めてのことだった。馬車は軽快に進み、森へと吸い込まれるように入っていく。森の中を行く道は広くて、想像以上に明るかった。
「あ! レニエ様、建物が見えました!」
森の中を少し走ると急に視界が開けた。森の中にぽっかりと穴が開いたような平らな土地があって、そこにはこじんまりとした屋敷が建っていた。簡素だけど上品で、一見しても手入れがよく行き届いているのがわかる。
「ああ、ようやく着いたね。この先に湖があるんだ」
「ふふっ、今から楽しみです」
この先の湖に想いを馳せている間に馬車は屋敷の前に到着した。既に使用人が数人、私たちの到着を待っていた。ここでも使用人の態度は丁寧で躾が行き届いていた。きっと忠誠心を持てるような待遇をされているのだろう。
「こちらの部屋をお使いください」
私よりも少し年上らしい侍女に案内されたのは二階の客間だった。もう少しで婚姻だけど心の準備が整っていない心情を察して下さったのか、部屋は別だった。明るい壁紙の部屋は窓も大きくて開放的だ。
(本当に、素敵な部屋……)
派手ではないのに華やかさを感じさせるシンプルな内装と調度品は品がよく、かなり高価な品だと私にもわかった。ミオット家は裕福だとオリアーヌが言っていたのを思い出した。自分がこの家の女主人になるなんて、まだ信じられない。
「御用がありましたらそちらのベルを鳴らして下さい」
そう言うと侍女は出て行ってしまった。何だか素っ気ない感じがする。気のせいだろうか……初めてだから彼女も緊張したのかもしれない。荷物を開いて服などはクローゼットに掛けていると、ドアがノックされた。
「ジゼル、庭に出ないか?」
入ってきたのはレニエ様だった。簡素な服に着替えていて、普段のきっちりした印象が緩んで柔和さが一層増していた。
「あ、はい。それじゃ着替えますね」
慌てて服をクローゼットにかけたけれど、レニエ様がじっと私を見ていた。
「レニエ様、どうかなさいました?」
あまりにもじっと見られてはさすがに居心地が悪い。
「あ、ああ。いや、侍女を付けた筈だが……」
「侍女? ああ、案内して下さった方ですわね」
「ああ、彼女にはジゼルの身の回りの世話を頼んだのだが……荷物の片づけは侍女の仕事だろう?」
ああ、そこが気になったのかと合点がいった。確かにその通りだ。
「そうでしたか。案内してくれた後、用があったらベルを鳴らすようにと言って下がりましたが……でも、荷物は少ないですし、これくらいなら自分で出来ますよ」
実際、ここに滞在するのは二日だけなので荷物は少ない。これくらいなら自分で直ぐに出来てしまうのだけど……
「そうか。後は侍女にやらせよう。ジゼルは着替えておいで。一緒に庭を回ろう」
「ええ、是非」
庭を共に歩くだけなのに、それだけで心が躍った。レニエ様に合わせて簡素で動きやすいワンピースに着替えて部屋を出ると、ちょうどレニエ様が侍女を伴ってこちらに向かっているのが見えた。侍女はさっきとは別人の中年の恰幅のいい女性だった。
「ああ、ジゼル。この屋敷の侍女長をしているマリーだ。マリー、彼女は近く私の妻になるジゼルだ。今はセシャン伯爵家の養女でルイーズ様の信頼厚い私の部下でもある」
「ジゼル=セシャンです。よろしくね」
「マリーでございます。滞在中のお嬢様のお世話は私が承ります。何なりとお申し付けくださいませ」
深々と頭を下げたマリーからは嫌な感じはなかった。侍女長が直々に私の世話をするということは、先ほどの侍女はレニエ様の意に反したらしい。
「さ、ジゼル。庭に出よう。ここは森の中だから気持ちがいいんだ」
「はい、是非」
森の中の庭は木漏れ日が差し込む程度、日差しも弱くて日傘なしで歩けるのが気持ちよかった。ミオット侯爵家の庭も素敵だけど、ここはより自然に近くて空気が一層澄んでいる気がする。
「静かですね」
「ああ、樹木が風に揺れる音しかしないね。王都では経験できない静けさだ」
本当に葉が擦れる音しか聞こえてこない。時々鳥のさえずりが混じるのが心地いい。
ちらとレニエ様を横目で見た。シャツだけの上半身は意外にもがっしりしていた。着やせするタイプらしい。文官だから鍛えたりはしていないと思っていたから意外だった。それだけでもドキドキしてしまう。
「明日は湖に行ってみよう。風がなければボートにも乗れるだろう」
「ボートですか」
「初めて?」
「ええ。実を言うと湖に来るのも初めてなんです」
「そうなんだ? 王都近くのアーレン湖は? あそこは学生がよく婚約者と行く定番だろう?」
アーレン湖は王都から馬車で半刻ほど行った先にある湖で、学生でも遊びに行ける手軽なデートスポットだった。
「いえ、私は……」
行ける年になった頃にはフィルマン様は別の人を見ていたから、私は行ったことがなかった。
「そうか……じゃ、王都に戻ったら一緒に行こう」
「え? でも……」
「あそこは学生だけのデートスポットじゃないよ。大人向けのカフェなどもあるんだ」
「そうでしたか」
知らなかった。女友達は私に気を使ってくれたのだろう、そういう話をしたことがなかったから。文官になってからは尚更そういうことは縁遠いと思い、自分には関係のない場所だとすら思っていた。
「嬉しいです。是非案内して下さい」
「勿論だよ。ああ、王都に戻りたくないと思ったけれど、新しい楽しみが出来てしまったな」
レニエ様が目尻を下げて笑みを浮かべた。




