母の希望
家令が持ってきたのはあちこちに傷みが見られる日記帳だった。母の遺品に日記帳があったなんて知らなかった。その中には確かにミレーヌの言う通り、母の理想の娘の姿が記されていた。
「これ、本当に母上が書いたのか?」
日記帳を読んだエドモンの第一声は私と同じ思いだった。
「誰よりも可愛らしく愛されて、自由で常識にとらわれない考えの持ち主で、誰とでも仲良く出来てって……」
母が生まれてくるだろう娘に望んでいたのは、型破りな娘像だった。でも、これでは貴族社会では生きていけない。ルール重視の貴族社会では致命的だ。前者はともかく後者の自由で常識に縛られないなんて、平民ですら無理そうだ。実際ミレーヌはそうだったけれど。でもミレーヌがこうなった原因がこの日記だというのは理解した。問題は……
「シャリエ伯爵、これは一体どういうことでしょう?」
もう父と呼べる相手ではないし、こんな日記を読んだ後では侮蔑の思いが抑えられなかった。そのせいで声は随分と低くなってしまった。でも、父がこれをミレーヌに押し付けていたのだとしたら……
「そ、それはエリゼの希望で……」
「お母様の?」
「エリゼは……自分そっくりの娘を自分の理想に育てるのだと言っていた。彼女は気が弱かったからいつも我慢して、言いたいことの半分も言えないと……ミレーヌには自分の代わりに自由にと……」
「でも、これでは貴族社会で生きていけませんわ」
「それは……わかっている。でも、息苦しい貴族社会に新しい風を送る希望の星になって欲しいと……」
「希望の、星……」
室内に白けた空気が満ちた。どうやら母の頭の中は夢の世界にあったらしい。父も同類だろう。現実でそんなことをしても軋轢にしかならないのに。こめかみがさっきからピクピクするのが止まらない。
「それで、それを実行したわけ? こうなる可能性も考えずに?」
エドモンは侮蔑の気持ちをそのまま父にぶつけたけれど、父は両手を固く握って俯いたままだった。全くどうして先のことが考えられないのだろう。貴族社会、それも伯爵家風情がそんなことをしても顰蹙を買うだけなのに。
「ミレーヌもだ。こんなことして周りから冷たい目で見られたのに何も思わなかったのか?」
「思ったわよ! お友達もその親も白い目で私を見たから。でもお父様に言ったら、それは私が可愛いから嫉妬しているんだって。お母様は天から私を見守っているから問題ないって……」
「はぁ? バカなのかよ? そんな訳ないだろうが」
エドモンが呆れをぶつけたけれど、ミレーヌは言い返さなかった。気まずそうにスカートの裾をぎゅっと握るのが見えた。
「エドモン、仕方ないのかもしれないわ」
「姉上?」
「物心つく前から父親にそんな風に言われていたら……それを信じてもおかしくはないわ。ずっとそう言い聞かせられていたんでしょう?」
視線の先ではミレーヌが小さく頷いていた。隣にいるロイは居心地が悪そうにしているけれど、ミレーヌへの気遣いを見せている。彼の気持ちには偽りはなさそうに見えた。
「そうはいっても、学園に入れば理解出来ただろうが。どうしてその時に……」
「その時にどうすればよかったのよ!?」
「ミレーヌ?」
「学園に入れば女のお友達が出来ると楽しみにしていたわ。なのに令嬢に声をかけても誰も相手にしてくれなかった! 皆私を遠巻きにしてクスクス笑うばかりで! 声をかけてくれたのは、困った時に助けてくれたのは令息だけよ。だから彼らと一緒にいるしかなかったの」
学園に入る頃までも子ども同士の交流会はある。大抵は夫人がお茶会を開いて自分の子と似た年の子どもたちを集める。母親がいない私たちはあまり出なかったけれど、それでも社交的なミレーヌは時々参加していた。その時の振る舞いで警戒されたのだろう。
「それでもマナーを学んで常識を身に付ければ……」
「マナーだって勉強だって、私の家庭教師は直ぐに代わってしまったわ。お父様も女が勉強できても幸せになれない、その方が男性は喜ぶからって」
「はぁ? お前が我儘で追い出したんじゃ……」
「追い出してなんかいないわ! そりゃあ、あの先生は厳しいとか課題が多いと愚痴ったことはあるけど。でも、そう言うとお父様が直ぐに先生を代えて……」
てっきりミレーヌが嫌がって教師を代えたのだと思っていたけれど、父が原因だったのか……文官試験に落ちたとかで学歴に劣等感がある父らしいと言えばらしいけれど……父は自分の理想の女性像をミレーヌに反映させていたのか……だったらミレーヌも父の被害者とも言える。私たちとは正反対の意味で。
「父上、いや、親子の縁は切ったからシャリエ伯爵か。伯爵、一体どういうことです? どうしてこんなことをしたんですか? 幾ら母上の願いだったからと言っても、常識やマナーが身に付いていない令息令嬢がどんな末路を辿るか考えなかったのですか!?」
エドモンの言葉遣いは丁寧でも、侮蔑と怒りが滲み出ていた。こうなってしまえば全ての原因は父にあると言っていいだろう。幾ら母が花畑思考だったとしても、父は当主としてミレーヌを淑女に育てる責任があった筈だ。一方で、一つ違いの妹を放っておいた私にも責任があるだろう。もう少し気を付けてみていれば気付けたかもしれないのだ。実際、違和感は何度もあったのだから。
「わ、私は……ただ、ミレーヌのために……」
「どこがミレーヌのためだ!! 何一つためになんかなっていないだろう!!」
「エドモン、落ち着いて」
「姉上、今言わなくてどうするんだよ! シャリエ伯爵、こうしたのはミレーヌのためじゃなく自分のためだったんだろう!? ミレーヌを母上に見立てていたんだ。昔から気持ち悪かったんだよ。ミレーヌにベタベタして恋人みたいに振舞って!」
父の手に一層力が籠ったのが見えた。図星だったのだろう。確かにエドモンの言う通りで、父はまるで恋人に接するかのようにミレーヌを扱っていた。彼女を姫として扱っているようにも見えたけれど、本音は母の身代わりだったのだ。母が死んでしまったから、その心の穴を埋めるためのミレーヌだったのだ。
「シャリエ伯爵」
今まで黙って話を聞いてくれていたレニエ様が父を呼ぶと、父はあからさまに身体を揺らしてレニエ様を見上げた。その表情は虚ろで、目の下の隈がくっきりと現れていた。十は老けたように見える。
「随分と困ったことをなさったものだな」
「……ミオット侯爵……」
「どうやらジゼルやエドモン君だけでなく、ミレーヌ嬢も貴殿の間違った教育の犠牲者のようだ」
「……」
父ががくりと項垂れて背を丸めた。室内の空気は一層重くなり、途方もない虚しさが胸に満ちた。




