和議の使者
成瀬城へ道真が向かい、小山城の守備は損害を受けた山口高忠と矢野兵庫に任せ、俺率いる本隊は座間まで進軍し、座間城(現在の座間市入谷西付近)に本陣を置いたが、そこで動きが止まった。
扇谷上杉定正の抵抗があったとかではなく、小田原城に向けて兵を進めるはずの三浦時高の軍が未だに平塚で足踏みをしていたからだ。
豊嶋軍では、太田資常を大将にし、その下に降伏した国人衆を付けていたが、裏切りによって資常が重傷を負うという事態が起こりはした。
だが即座に俺が蹴散らし、裏切り者の居城や館へ兵を送り、撫で斬りを命じて城を焼き払った。
それに加え道真に依頼し降伏した国人衆の裏切りを各大将に付けた国人衆達にも伝わるよう伝令を送ってもらった事で、反旗を翻した者、無断で軍を離れ所領に戻った者などが現れた。
だが、裏切りがあった事を知らされた翌日、裏切り者の城や館を攻め、降伏を認めず撫で斬りを命じた伝令が届き、また所領に戻って城に籠った者も先に裏切った者の城や館の状況を聞き、更に兵が向かって来ているとの報を受け、城を捨て一族を連れて所領から逃げ出した。
裏切り者の討伐に向かった兵は無人の城や館に残った金目の物を戦利品とし、火を放っていった。
その結果、それ以降豊嶋に降伏した国人衆は裏切る素振りすら見せなくなった。
城や館を焼かれるだけなら兵が来る前に逃げれば良いし、実際、兵が城や館に攻め込んだが無人で裏切った国人衆は既に妻子を連れて逃げ去っていたから裏切っても命を失う事は無いので再起を図れると思っていた者も、拠点を燃やされただけでなく、領主の首を持参すれば500貫文、一門の男なら200貫文を与えると書いた高札を掲げ、周辺の村には口頭で伝えたと聞いて多くの国人衆が真っ青な顔になり、裏切る気力を挫いた。
真っ当な善政を敷いて領民に慕われていれば効果は無い可能性が高いけど、そうでなければ豊嶋兵が去った後、所領に戻っても待っているのは金に目が眩んだ亡者達だ。
村の男総出で襲撃され、それを凌ぎ逃れても他の村の男が総出で襲って来るだろうし、襲って来なくても宿を貸す、村で匿うなどと言って油断させてから襲われる可能性もある。
城や館を焼かれただけでなく、高札を掲げ懸賞金を懸けた事で領民を信じられなくなり、戻るに戻れなくなるからだ。
その結果、降伏した国人衆だけでなく、豊嶋家に呼応した国人衆まで身の潔白を示そうと、上杉顕定から送られた裏切りを促す書状を持参して来た。
てか顕定はどんだけ書状を送ってるんだ?
俺の手元には顕定から送られた書状がもう20通以上あるんだが…。
だが、三浦時高の軍に下った国人衆は不穏な動きを見せ、また上杉定正の命で伊豆の海賊衆が夜陰に紛れて平塚や鎌倉の沿岸部の村を焼いたりし、道灌の援軍を得ても攻勢に出られない状況でかなり影響が出ている。
時高は即座に海上の警備を三浦の海賊衆に命じたので、海からの襲撃は無くなったが、それでも家臣、国人衆に不穏な動きがあるとの事だ。
風魔衆の話では隠居させ出家したが、上杉定正の元へ逃げた三浦高救親子が裏で糸を引いているらしい。
時高もその事には気が付いているが、苛烈に処断する事で三浦家に呼応した国人衆が動揺するのを恐れているらしい。
道灌も流石に三浦家のお家事情には打つ手なしと真田城(神奈川県平塚市真1丁目付近)に入り、時高軍が動くのを待っている状態だ。
そのまま1ヶ月が経過し2月の下旬となると、流石に豊嶋に従って来た国人衆達も農繁期が近い事もあり、士気が下がり始める。
座間城に本陣を構え、西・南武蔵、そして相模は相模川を境にほぼ敵対する国人衆を駆逐し、その所領を手に入れてはいるものの、このままでは農繁期を迎えて国人衆達の離脱が始まる。
俺の専業兵士5000は一年中行動が可能だが、他はそうもいかないのが現状だ。
どうしたものかと座間城の広間で軍議を開き、当初の予定では小田原城を落とし、伊豆、駿河への逃げ道を塞いだ後で扇谷上杉家の本拠である糟屋館を落とすつもりだったが、方針転換してこのまま相模川を渡河して糟屋館を攻め落とし、その勢いで小田原城を攻め落とす事に決し、6日後に兵を進める準備を命じた翌日、堀越公方である足利政知から和議を斡旋するとの内容が書かれた書状を持った使者がやって来た。
使者の事は極力秘していたが、堀越公方から和議を斡旋する使者がやって来た事は即座に国人衆達に伝わり、和議の機運が高まっただけでなく、書状によれば堀越公方である足利政知が幕府に現状を訴えて、幕府からの使者も来ているらしく、俺としても無視が出来ない状況だ。
こんな事になるなら三浦家と足並みを揃える事に固執せず、早々に方針転換して糟屋館、その後で小田原城を攻めれば良かった…。
そして5日後、相模川沿いに建つ寺で和議に関する交渉の場を持つことになった。
こちらは俺と太田道灌、三浦時高の3人、扇谷上杉からは当主定正、大森実頼、扇谷上杉家の重臣である曽我祐重が、和議の証人として堀越公方である足利政知、家宰の上杉政憲、そして幕府から派遣された伊勢盛時(通称、新九郎。後の早雲)が参加する事になった。
寺の本堂で一同が会し、伊勢盛時が将軍から和議を結ぶよう命じる書状を読み上げ、その後、足利政知が争いの原因を確認するかのように事の発端を話し、相違が無いか確認した後、和議の話になる。
上杉定正と大森実頼は足利政知が話した内容に異議を唱え、自分達の正当性を主張したが、政知が
「今川家からの書状のみならず、余自ら勅使と公家の通行を許可するよう書状を送ったのに黙殺したのはその方らであろう!!」と一喝したら大人しくなった。
堀越公方である足利政知って、京にある天龍寺(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)でお坊さんしてたところを還俗させられただけのお飾りだと思ってたけど、言う時は言うんだ…。
これには俺も驚いた。
その後、扇谷上杉側が黙り込んだので和議の条件の話になったが、これが中々難航した。
俺が出した条件は、大森実頼の切腹と所領没収、扇谷上杉家の所領は相模川西側の厚木、伊勢原、秦野のみとする事。
扇谷上杉家が出した条件は大森実頼の隠居を条件に、豊嶋、三浦が奪った所領を国人衆に返す事だ。
当然扇谷上杉側の条件など一考に値しない内容であり、定正が条件を言い終えた直後、「断る!!」「話にならぬ!」「お戯れを」と3人とも即答で口に出した拒否の言葉が重なったのには一瞬笑いそうになった。
上杉定正と大森実頼はこちらを睨みつけていたが、ふざけた条件を出して和議の話が破綻したら当然扇谷上杉家の責任となり、大手を振って総攻めが出来るので鼻で笑っておいた。
実はこの時、道灌が失笑し、時高も鼻で笑っていたらしく、上杉定正と大森実頼の顔が茹でダコのように赤くなってたんだよね。
それにしてもこの時代、家名を笠に着れば何でも思い通りになると思ってる残念な人が余りにも多い気がする。
これも時代と養育の仕方が原因なんだろうな…。
誤字脱字、稚拙な文章ではございますがお読み頂ければ幸いでございます。
宜しくお願い致します。
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