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それからしばらく経った。例の噂はどうなったかというと。
「どういうことだよ」
涼は静かに怒りに燃えていた。
「なんで一向に噂が消えねえんだよ!」
まあまあとなだめる麻穂の話も聞かずに、教室の椅子に座る涼は貧乏ゆすりを続けていた。
「何かの陰謀としか思えん」
じいっと虚空を睨む涼。困った麻穂は、指先で頬を掻いた。
放課後になって人は減っていたが、部活動の準備をする者や意味もなく残っている者たちが教室を賑わせていた。
窓から覗く景色は夕暮れ。
麻穂が涼に帰ろうと促そうとした時だった。
「ごきげんよう」
帰り支度を済ませた如月雪乃が、二人の傍を通り抜けていく。
「寮長、じゃあな」
「如月さん、また」
涼ががさつに手を振ると、雪乃は目を細めて嫌らしく笑った。
「あまり下品な振る舞いをしていると、彼氏に嫌われますことよ」
涼がピキッと切れる音が、麻穂には聞こえたような気がした。
麻穂が止める間もなく涼は椅子から立ち上がり、雪乃の胸倉を掴まん勢いで詰め寄った。
「おい、誰が彼氏だ! 高時のことか?!」
目つきのきつい涼に凄まれても動じることなく、雪乃はいつもの調子で尋ね返した。
「違いますの?」
「違いますわ!」
「涼、口調が移ってる……」
涼の絶叫に麻穂がつっこむ。騒がしくするものだから周りの生徒たちもちらちら視線をこちらに向けている。
雪乃は小さく口をとがらせた。
「けれどわたくし、確かな筋から聞きましたのよ」
「確かな筋って何だよ」
涼が雪乃を見下ろす。
「何って、高時くん本人ですけれど」
麻穂は「えっ」と言葉を漏らしたが、涼は何を言うこともなく眉間にしわを寄せた。
「涼、それってどういうことだろう……」
麻穂が涼に尋ねると、涼はフンと鼻を鳴らした。
「簡単なことだ。あいつがガセを広めてるってことだろ」
「あら、ガセですの」
「ガセだよ! 今の流れで分かるだろ!」
がっかりする雪乃に、涼が反射的につっこみを入れる。
「片岡さんも恋人でも出来れば、少しはお淑やかになると思いましたのに」
雪乃に本当に残念そうに言われて、返す言葉がない涼。麻穂も苦笑するしかない。
「とにかく、そうと分かったら今すぐ高時のところに行くぜ。麻穂はここで待ってろ」
涼がそう言い放つも、麻穂は「待って!」と彼を引き止めた。
「なんだよ、麻穂」
「今、涼が高時祐真の所に行ったら、噂を変に助長しちゃうんじゃないかしら」
そう言われて涼は、確かにそうかもしれないと、唇を一文字に結んだ。
「私が行くよ。高時祐真に誤解を解くように言ってみる」
「ちょっと待てよ、それじゃあ……」
咄嗟に涼は麻穂を制止する。
涼は祐真に、二度と麻穂と関わるなと言った。それを自分から破るような真似をしていいものか迷っていた。
「それじゃあ何?」
何も事情を知らない麻穂が、きょとんと尋ねる。
涼はしばらく言葉を選ぶために沈黙してから、尋ね返した。
「高時に会うの、嫌じゃないのか?」
麻穂は涼の疑問を受け止めて、笑ってみせた。
「何言ってるのよ、あんな男のことなんてもう何も気にしてないよ」
「なんのことですの?」
そこで話に置いていかれていた雪乃がようやく口をはさんだが、涼はそれを黙殺した。
「悪いな……じゃあ頼む」
涼が申し訳なさそうにう両手を合わせるのを見て、麻穂はにっこり微笑んで頷いた。
そして机に荷物を置いたまま教室を出ていった。
「ちょっと、片岡さん。吉瀬さんと高時くんはお知り合いですの?」
「他人だよ、他人」
面倒くさそうな涼が、雪乃の質問を適当に流す。
麻穂は気丈に振舞っていたが、本当に大丈夫なのだろうかと今更ながら不安になる。涼は今すぐにでも駆け出したい気持ちをぐっと抑えた。彼女のせっかくの思いやりを無駄にしてしまう行動だと分かっていたからこそ、ぎりぎりで踏みとどまっていた。
麻穂は隣の祐真のクラスを訪れた。
生徒はわずかしか残っておらず、その中に彼の姿は見つけられなかった。
祐真が生徒会長をやっていることを思い出して、今度は生徒会室に向かうことにした。
足早に廊下を歩きながら、心臓が鳴っているのを感じていた。
祐真を意識しているわけではない、あれから久しぶりに話すから緊張しているだけ。麻穂はそう思うようにしていた。
生徒会室は職員室の隣にあった。麻穂は転校して間もないが、職員室を何度か尋ねていたのでそれは覚えていた。
麻穂が生徒会室の扉をノックすると、中から男性の声が聞こえた。
「失礼します」
麻穂がそっと覗きこむように扉を開けると、中には祐真が一人いるだけだった。
麻穂の姿を認めると、彼はその謎めいた瞳でにっこり微笑んだ。先日彼女にした仕打ちなど、全く記憶にないかのような振る舞いだった。
「やあ、麻穂ちゃん」
彼に久々にその呼び方で呼ばれて、麻穂は口をへの字に曲げる。
「その呼び方やめて」
「片岡さんには殴られかけたけど、君はそこまでしないんだね」
おかしそうに語る祐真の言葉の意味がよくわからず、麻穂は小首をかしげた。
構わず祐真は言葉を続けた。
「久しぶりだね。会いたかったよ」
そう言われて麻穂は一歩後ずさった。
「気持ち悪いこと言わないで。私は全然会いたくなかったわ」
ははは、と笑う祐真は、麻穂に拒否されても全く気にしていないようだった。
「で、今日は何の用かな?」
彼が仕切り直すと、麻穂は口を開いた。
「涼のこと。恋人だってほら吹いてるって本当?」
そう言われると祐真は目を細めて笑った。
「ほらを吹く、ってすごい表現をするね」
「私は真剣よ。答えて」
麻穂が強い口調でそう言うと、祐真は肩をすくめた。
「何人かにそう言ったかもね」
「どうしてそんな嘘をつくの?」
「片岡さんって素敵じゃないか。付き合えたらいいなと思って」
麻穂はそれを聞いて、思わず引いてしまう。麻穂は涼の正体が男だと分かっているからこその反応なのだが、対照的に祐真は不思議そうに疑問を口にする。
「なんであんなに美人さんに彼氏がいないんだろうね」
「涼は迷惑してる。勝手に嘘を言いふらすのやめて」
「そうだね、迷惑だと思うよ」
祐真が非難の言葉をあっさり認めたことに、麻穂は驚いた。
「でもね、僕も迷惑してることがあって、そうしなきゃならないんだ」
急に真剣な表情になった祐真。麻穂は思わず唾を飲んだ。
「どういうこと?」
聞き返す声が緊張で強張る。
「もし麻穂ちゃんが、この歳で結婚する相手を決められたらどうする?」
麻穂はハッとした。祐真の言葉が、彼が理事長の孫娘である麻穂と婚約させられていることを指しているのだと分かったからだ。
「僕は好きな子がいるわけじゃないけど、誰かに好きな相手を決められるのは嫌なんだよね」
祐真は婚約を受け入れているという風に麻穂は聞いていたが、そうではなかったということなのだろうか。
気づけば麻穂は、前のめりになって口を開いていた。
「分かるよ、その気持ち!」
急に激しく同意された祐真は目を見開いた。
「反対の意思を伝えればいいじゃない。駄目なの?」
祐真は目を細めてから、ふうと息を吐いて言葉を続けた。
「親がその縁談を歓迎してるんだ」
その言葉を聞いて麻穂は、この縁談を受け入れたのは彼の両親だけなのだと理解した。婚約を反対するという意見では、自分と祐真は同じだということに少し安心した。
「色んな女の子にいい顔してたら、どこかしらで悪い噂が立って婚約破棄にでもならないかと思ってたけど。なかなか難しいね」
だからこの人はそんな振る舞いをしていたのかと、麻穂は納得してしまう。
そんな思いつめたように見上げてくる麻穂の表情を確認すると、祐真はクスリと笑った。
「なーんちゃって。今のは全部作り話だよ。真に受けた?」
彼がごまかそうとするも、麻穂は一切笑わなかった。祐真の目をじっと見つめていた。
「麻穂ちゃん?」
「嘘じゃないでしょう」
麻穂がはっきりそう言い放つと、祐真は再び笑みを消した。
「分かってるわ。あなたはこの学園の理事長の孫娘と婚約させられてるんでしょう」
麻穂がそこまで言うと、祐真は初めて訝しげな表情になる。
「君は何者なの?」
窓から差す夕陽に目を細めながら、麻穂は彼に改めて名乗った。
「私は理事長の孫娘、杉浦麻穂よ」
祐真が麻穂を見つめる。
麻穂はじっと彼を見つめ返していた。
しかし、祐真がまた口元に笑みを浮かべたと思うと、彼女の話を軽く流してしまった。
「君が理事長の娘だなんて、まさかね」
「ほんとだってば!」
まさか信じてもらえないとは思わなかったので、麻穂は慌てて主張した。しかし必死に言葉を重ねるほどに、何故か真実も嘘のように聞こえてしまう。
「僕の婚約話を知っている人から聞いたんだろう?」
「違うわ!」
むきになる麻穂を優しげな眼差しで見つめて、祐真はささやいた。
「君は優しい子だね。僕は自分の力でどうにかしてみせるよ」
祐真の声色や表情があまりに穏やかで優しいものだったので、麻穂は思わず言葉を継げなかった。
その時生徒会室の扉がノックされた。
祐真が返事をすると、一人の教師が入ってきた。
「高時、今度の生徒総会のことで話があるんだが」
「はい、すぐうかがいます」
祐真はそう言うと机上の資料を手に取った。麻穂に少し視線をやると、
「またね、麻穂ちゃん」
と微笑んで生徒会室を出て行ってしまった。
誤解を解きにきたのに、また新たな誤解を生む結果となってしまった。麻穂はどうしたらいいか分からず、頭が混乱したまま祐真の背中を見送るしかなかった。
「どうすればいいのよ~」
祐真が行ってしまって一人になった生徒会室で、麻穂は泣き出しそうな声を上げるしかなかった。




