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夕方に差し掛かったばかりだというのに、ストロボをたいたように眩しい西日が街を橙色に照らしている。人通りの少ない閑静な住宅街を抜ける、二つの長い影。
足の遅い麻穂に合わせて、涼は走らず早足で歩いていた。それでもそもそものリーチが違うので、スタミナのない麻穂は息を上げて小走りになっていた。しかし麻穂は彼に「待って」だとか「もっとゆっくり歩いて」とは言わなかった。
「どこにいくの?」
「とりあえずは男子寮だ。もしアイツがどこかに行ったなら、誰かに話くらい聞けるだろ」
学園から男子寮はそう遠くない。女子寮に行くのとほぼ同じくらいの距離だが、女子寮とは学校を挟んで正反対の方向にあった。
麻穂は慣れない道で、小動物のように首をふって周りを確認していた。
涼は勝手知ったる道のようで、進める足に迷いがない。
そんな彼がにわかに歩調をゆるめ、足を止めた。よそ見をしていた麻穂は彼の背中に派手に顔面をぶつけてしまう。
「涼、ちょっ……」
麻穂のセリフをさえぎったのは、彼女の前にかばうように差し出された涼の腕だった。
道の先から近づいてくる人物たちを確認して、涼の表情が徐々に険しくなる。
制服姿ではない、闇に溶けそうな黒い服装をした三人組の男たち。年齢はそう離れていないだろうが、三人とも涼よりは背が低い。しかし彼らの目つきは凶暴性を隠せていなかった。
彼らはニタリと笑い、二人の前で立ち止まった。
今まで遭遇したことのない事態に、麻穂は声の出し方を忘れていた。強ばった表情と、大きく見開かれた二つの瞳。
無意識のうちに麻穂は、自分の前に立つ涼のブレザーのすそをつかんでいた。
対峙する涼は、震えることのない声ではっきり言い放つ。
「道を開けろ」
女性としては大分荒っぽい、上からの口調に、リーダー格と思わしき男がヒュゥと短く口笛を吹いた。
「カッコイイ~。何、あんたが高時の女?」
男の意図が分かるまで、涼は表情を変えなかった。黙って男を見据えている。
すると、脇にたたずむ別の男が彼に言う。
「このデカイ女はちげえよ、後ろにいるちいせえ方だ」
ビクリと体を震わせた麻穂。自分の心臓が早鐘を打つのを全身で感じていた。うまく呼吸が出来なくなるような苦しい感覚。恐怖で小さくなって、涼の背中にぴったりくっついてしまう。
自分のおかれている状況を把握できず、それでも危機だけは感じて混乱していた。
対照的に冷静だった涼は、怯える彼女の手を後ろ手に強く握ってやった。大きな手が麻穂に「大丈夫だから」と言っているようだった。それでも麻穂の手は、彼の手の中で震えをとめられなかった。
涼は状況を見極めようとしていた。
「あんたたち、誰? 何のことを言ってるのかさっぱりわかんないんだけど」
わざと面倒臭そうに言う涼に、男たちはいらだつ。
「お前には用はねえんだよ。後ろの奴をよこせっつってんだ」
狙いははっきり麻穂と決まっていて、祐真の弱みだと思われていること。そして彼らは麻穂の容姿を把握してしまっていること。鋭い推理力で涼はそれを理解した。
(恐らく、学園内部に協力者がいるな……)
涼は自分の制服のポケットから携帯電話を出し、視線を彼らに向けたまま、後ろ手にこっそりと麻穂に渡した。
震える両手で慌てて受け取った麻穂。彼女が見た携帯電話のディスプレイに表示されていたのは、ある人の名前と電話番号。
「いいからどけよ、邪魔な女だな」
男たちの言葉に、涼は彼らを見下げるようにしてわざと挑発的な態度で言い返す。
「どかねえよ」
彼らの矛先を今だけでも自分に向けるためだった。
リーダー格の男が一歩踏み出してきて、怒りに染まった表情を見せつけてくる。
「言ってくれんな、美人さん。俺たち、気が強い女は好きだぜ……負かした時の無様な姿に興奮するからなァ。そのツラ歪めて、許して下さいって泣きやがれ!」
涼に振りかざされた拳。
麻穂の悲鳴が上がる中、涼は冷静に男の腕を取った。持ち前の反射神経、そして腕力と握力が競り勝った瞬間だった。
間合いを詰められた男は、背の高い涼に見下されるようなアングルで、頭上に降って来る涼の声を受け止めた。
「へえ……誰の、何が好きだって?」
笑ってもいない表情で、おかしくもなさそうに涼が台詞をなぞった瞬間。
涼は自分の右足を上げて、真正面にある男の腹を蹴っ飛ばした。男は距離を開けて跳ね飛び、背中から倒れ込んでうめき声をあげる。
「男のくせに弱いな、お前ら」
残りの二人に、わざと頭に血をのぼらせるようなことを言う涼。自分の身を危険にさらしてでも、二度と麻穂に近寄る気を起こさせないくらい全員ここで痛めつけておきたかった。そして涼としては攻撃を正当防衛にしたい。
涼の目が彼らを小馬鹿にするように細められた時。
走り寄ってきた一人の蹴りが、高く涼に降りかかる。
涼は即座に麻穂を遠ざけ素早く身をひるがえして、男の不安定になった軸足を回し蹴りして転倒させる。
転倒した男の作る死角から、涼につかみかかろうと最後の男が飛びかかってきた。涼はすんでのところでその手をかわす。
男がバランスを崩したところに、拳を作って男の頬を殴り飛ばした。男の歯で切ったのか、涼の拳には血が赤く滲んでいた。
三人の男たちが動かなくなったのを確認して、涼は麻穂に駆け寄った。自分の乱れた長髪も制服も気にすることもなく、とにかく彼女のことが一番心配だった。
「怪我はないか?!」
恐怖に染まり口も利けない麻穂の表情を見て、涼は胸に黒い感情が生まれるのを感じた。
震える彼女を抱きしめてやりたいと思ったけれど、怯える彼女を見ているとそれさえもためらわれた。
眉をひそめて虚空を見つめる彼女の頭をそっと撫で、顔を寄せて努めて優しく話しかけた。
「麻穂。大丈夫、俺がいるから……」
切なげに目を細めた涼が、彼女にささやいたその時。
「うおらぁあ!」
最初に涼に倒されたはずの男が、よたつきながら涼に拳を振りかざしてくる。
麻穂の瞳と体の強張りでそれを察知した涼は、一気に目つきを鋭くした。
再び麻穂を遠ざけ、腰を落とし、背後からくる男の腕を両手でつかみとった。男の拳の勢いを利用して、そのまま反対側に投げてしまう。
受身を取れなかった男は、鈍い音を立てて地面に体を打ち付けられた。
「おい……二度とこいつに手を出そうだなんて思うな。何度でも俺が相手になるからな。次はこれだけじゃ済ませねえぞ」
地べたを這う彼らに、涼はいつになく低い声で冷たく言い放った。一人称や態度はすっかり男のそれだった。
口調はドライでも、その背後に燃える怒りの感情が周囲の人間にはよく分かった。
「片岡! 吉瀬!」
住宅街を駆け抜ける速さとは思えないスピードのバイクが、二人のそばで急停止する。葉巻が似合う豪快な男が乗っていそうな、ごつい大型バイク。
しかしそこにまたがるは、細身の女性。すらっと伸びた手足をつつむ、濃い色のパンツスーツ。一本に束ねられた長い髪。
女性はヘルメットを外すと、眼鏡のブリッジを押し上げ、二人に駆け寄った。
「何があった?!」
そのバイクの女性、二人の担任である園山みことが、道路の惨状を見て驚愕する。
「いきなり絡まれた。多分、待ち伏せされてたんだと思う」
倒れる三人の男たちをあごで指し示して、不愉快そうに涼が言い捨てる。
「園山先生……」
頼れる大人が来たことで一気に緊張が解けたのか、麻穂はポロポロと泣き出してしまった。泣きじゃくる声も頼りなく震えている。
「吉瀬、怖かったな。もう大丈夫だ」
園山は彼女を優しく抱きしめてやった。腕の中でも泣きながら小刻みに震えている彼女を、心からかわいそうだと思った。
園山に連絡をしたのは麻穂だった。涼に渡された携帯電話のディスプレイには、園山の名前と電話番号が表示されていた。涼が三人を派手に引きつけている間、麻穂が影でこっそり電話をかけたのだった。
麻穂は電話口でも、恐怖で言葉がうまく出てこなかった。しかし園山は涼からの不審な着信を放置したりしない。
涼の秘密を知る担任であることを差し引いても、彼女は涼の東京での保護者のようなものであり、いとことして姉のような存在でもあった。園山はすぐにGPSを使って居場所を割り出し、仕事を放り出して駆けつけたのだった。
「あたしが今日、休日出勤しててよかったよ。突然訳のわからない電話が来て何かと思ったんだ」
いつも肝の座っている園山だが、今回ばかりは生徒のピンチに心底焦っているようだった。
涼は園山の言葉が耳に入っているのかいないのか、園山の腕の中で体を小さく震わせて泣いている麻穂の小さな頭を、じっと見つめていた。
事情を聞こうとする園山に、涼は言う。
「……園山、麻穂を頼む。伸びてるこいつら三人の処理もやっといてくれ」
そしてそのまま背を向けて、駆け出してしまった。
「おい! どこに行くんだ!」
叫ぶ園山は手を伸ばすも、涼を追いかけることはできなかった。本気で走る彼に追いつけないことは分かっていたし、何より園山の腕の中には麻穂がいた。
麻穂も涙にまみれた顔を上げて、小さくなっていく涼の後ろ姿を見た。髪をなびかせて走る彼がどこへ行くのか、麻穂には見当がついていた。
震える声で、小さく鼻をすすり上げながら言う。
「先生、涼はきっと男子寮に行くつもりです……。そもそも私たちは、高時くんを探していたんです……」
「高時? 生徒会長の高時祐真か?」
予想だにしなかった人物の名前があがり、園山はいぶかしげに首をかしげた。
麻穂は小さくうなずき、たどたどしいながらも説明を始めた。




