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「吉瀬さあーん」
麻穂を呼ぶ、舌足らずな喋り方。
開け放たれた教室の窓越しに話しかけてきたのは、文化祭で何かと話す機会のあった隣のクラスの男子生徒・村木だった。祐真や吉田とよく一緒にいる、お調子者の男子生徒だ。
彼はブレザーの前をしめず、ズボンを腰に落として派手なベルトで留めていた。開かれたワイシャツにネクタイもゆるくさがっているのに、なぜかだらしなくは見えない。ゆったりとした彼らしい制服の着こなしが様になっているからだろう。
「お疲れ様」
「お疲れー。俺もそっちいっていい? っていうか行くね」
言いながらもう行動に移してしまう村木に、麻穂はくすっと笑った。人を拒まない彼の明るい性格は、周りの人を笑顔にさせる。
それにつられて無邪気に笑顔を浮かべる村木。彼は麻穂の座る席の前の椅子に腰を下ろして、彼女を振り返った。
その時、麻穂はあることに気がついた。
「あれ? 村木くん、髪の毛結んでるの?」
麻穂が彼の後頭部を覗き込もうとしているのを見て、村木は少し横を向いてやった。
ほんの少ししか結えていないけれど、小さくゴムでまとめてあった。
「わぁ、可愛いね」
「マジ? ありがとー。クラスの女子には、チャラいっていわれたんだけどね」
麻穂の口をついてでた言葉に、村木は素直に感謝を口にした。
のんびりとした喋り方。口調に浮ついた感じがあるものの、彼の態度に不快感は覚えなかった。
「最近ずっと文化祭の準備で忙しかったから切れなくてねぇ」
結った部分を自分の指先で遊びながら、村木は言う。
「吉瀬さんも、髪の毛伸びたよねぇ。転入してきたときは肩につかないくらいだったでしょー?」
村木がジェスチャーを交えて説明する。
その言葉に麻穂はびっくりしてしまった。覚えている限り、彼と面識をもったのは文化祭の劇練習からだったからだ。
「いや、そんな驚かないでよー。ほとんど転入生なんて来ないこの学校に、こんな時期に転入してきた子がいたら、珍しくて一度は見ちゃうっしょ」
そう弁解する村木。
確かに彼の言う通りかもしれないと思った。それに麻穂は、ただでさえ目立つ涼と行動を共にしているのだから。
「あの背の高い美人さんは一緒じゃないの?」
「涼のこと? そうなの、見当たらなくって。村木くん見てない?」
「俺、演劇終わってからすぐコッチにきちゃったからなぁ。わかんないやー」
ごめんねぇ、とあまり申し訳なさの感じられない口調で謝った村木が「そういえば」と口にする。
「片岡さんの野獣バージョン王子様、すごかったねぇ。練習から見てたとはいえ、本番の戦いのシーンは息を飲んだよ~。まさかあの高時演じる王子様に、女の子が張り合えるなんてね。傍にいた裏方の子たちも皆、カッコいいってキャーキャー言ってたよ」
村木が言うのは何も見た目のことだけではないらしい。
「アクションシーンは特にすごかったなぁ。とても女子生徒相手とは思えない、園山先生の鬼のしごきのおかげかな。目を見張るほどの身体能力だよねぇ。俺、男だけど多分片岡さんと同じこと出来ないよー」
興奮気味にそう言ったあと、「もちろん吉瀬さんの演技もよかったよ」と付け足すように言われた。
「そうだね。本当に凛々しくて素敵だったと思う」
麻穂は舞台で堂々と演技していた彼のことを思い出す。
加えて、彼にキスするふりの演技をしたことや、彼がその衣装のまま自分を抱えて運んでくれたことを思い出してしまって、頬が熱を持ちそうになる。
思えばあの時、体に力が入らなかったとは言え彼に甘えすぎてしまっていたのではないかと急に恥ずかしくなってしまう。
そして、ただの演技の一つだというのに妙に意識してしまったキスシーン。皆は女同士だと思っているけれど、実際はそうではない。
村木に変化を悟られないよう慌てて平静を装うも、彼はそんなこと気にも留めず自分の話を続けていた。
「今朝の舞台準備で俺が重たい機材運んでた時もさぁ、『手伝うからよこせよ』ってヒョイってかかえて行っちゃうし。ワイルドだよね~」
別の場所に駆り出されていた麻穂は、彼がそんなことをしていたなんて知らなかった。衣装を着て再会した時も、彼はさほど疲れた様子は見せていなかった。
「でもまあその重たい機材って元々、別の女子たちが運んでたのを俺がカッコつけて『持ってあげる』って言っちゃったやつなんだよね。あとでその女子たちに『運んでくれてありがとう!』って言われてる最中に片岡さんが来ちゃって、『はなっから女子にあんな重いもん持たせてんじゃねえよ』って怒られてバレちゃってさぁ、全部持っていかれちゃったよ。“女子にあんな重いもの持たせてんじゃねえよ”って……自分だって女子なのにねぇ? ああ、俺を睨むあの目を思い出すと、今もちょっと片岡さんが怖い」
村木は嘆くようにため息をついた。
苦笑いを浮かべる麻穂は内心で思う。それは彼が男の子であると分かっていれば何もおかしくはないということを。視線をさまよわせてフォローの言葉を探す。
「あー……えっと、小柄な女の子に、ってことじゃないかな? 涼は背が高いし。それにきっと睨んでたわけじゃないと思うよ」
村木は「そうなのかなぁ」と首をひねり、まだ腑に落ちない様子だった。
麻穂は彼の思考をさえぎるように無理矢理話を逸らした。
「そういえば村木くんはここで何してたの?」
「んー、俺は軽音部のバンドの助っ人。ライブでギターやるんだ」
「村木くんって軽音部だったの?!」
「違うよー、俺は助っ人。いつもはハンドボール部なの」
そういえば先ほどから視聴覚室の方が騒がしい。耳をすますと、防音設備をものともしないベース音が響いてくる。
「俺、いつもは他校の連中とバンド組んでんの」
そう言われると、村木はサブカルチャーな雰囲気を持っているように見えると麻穂は思った。
「すごいね、ギターとか弾けるんだ」
「ギターとかっていうか、ギターだけだよー。リードギターだからソロ弾くんだけど、髪がのびてきているせいで、手元見る時にすごく邪魔なんだよねぇ」
村木は自分の伸びた前髪を指差す。
「よかったらヘアピン使う?」
麻穂は自分のブレザーの胸ポケットにさしてあったヘアピンのうち一つを彼に差し出した。
「いいの? うれしー」
彼はゆっくりと自分の左のこめかみあたりで髪を留めた。「似合う?」と聞いてくる彼に、麻穂は「うん」と頷いた。
二人が微笑みあっていると、突然教室に女性が入ってきた。そして村木を見つけるなり、
「ちょっと!」
とイライラした声を上げた。
タイトなミニスカートを穿いた、スタイルのいい女性。背も高いし化粧をしているので、麻穂たちより年上なのは間違いなさそうだった。
「こんなところで何してんのよ」
切れ長の双眸で二人をとらえ、彼女は言う。
「有美ー、予定より早くきてくれたんだぁ」
村木は席を立って彼女の傍に寄った。
年上の女性を親しげに下の名を呼ぶ彼に麻穂は目を丸くしたが、さらに驚くのはそのあとだった。
「軽音部の奴らに聞いたわ。『村木なら隣の空き教室で女の子とイチャイチャしてますよ』って」
「やだなぁ。イチャイチャっていうのはこういうことでしょー」
彼とほぼ同じくらいの身長の有美の腰を抱き寄せると、麻穂に背を向け、村木は彼女の頬にチュッと軽く口付けた。あまりにスムーズでナチュラルな仕草だった。
麻穂はリアクションを忘れてしまうくらい驚いた。目の前で同級生がそんなことをしているのを、今まで見たことがなかった。
「人のいるとこでキスしないでって言ってるでしょ」
有美は村木の体を自分から引き剥がすように押しのける。
「浮気したらあんたのギター全部ぶっ壊すからね」
「あははー」
真顔でとんでもないことを言う彼女に、村木は再びゆったりとした調子で笑っている。
「吉瀬さん。この人は俺の彼女で、他校の高校生」
まさかのタイミングで紹介され、動揺を抑えながら麻穂は「ど、どうも」とどもりつつ頭を下げる。有美はあまり快く思っていないような表情だった。
「有美。この子は隣のクラスの子。心配しないでよー、吉瀬さんは俺じゃない好きな人がいるんだよ」
彼の言葉に、麻穂の目が点になる。
村木の視線は「この場は話を合わせて」と言っているようにも感じたし、「ほんとにそうだよね?」と言っているようにも感じた。
「じゃあ俺は有美と楽屋行ってるねぇ。ばいばい吉瀬さん」
村木はまた必要以上に密着して、彼女を教室の外へ押し出すようにする。
有美は終始不機嫌そうな顔をしていたが、元々そういう顔つきなのかもしれない。村木はきっとプライドの高そうな彼女のヤキモチならば、かわいいとすら思っているだろう。
麻穂はその様子を、何も言えないままぽかんと見つめていた。
(村木くんって、年上の彼女さんがいたんだ……)
前の学校で恋人がいると公言している人は、麻穂が知る限りはいなかった。もし居たとしてもこんなにおおっぴらに行動しないだろう。
(みんな大人だなぁ……)
目の前でクラスメイトがキスする様子を見てしまい、いけないことをしてしまっているような背徳感と罪悪感、それとスリルのようなドキドキが入り混ざる。
気づけば顔は耳まで熱を持ってしまっていて、自分のうぶさを露呈しているようで恥ずかしかった。
「は、早く涼を探しに……」
と、気を取り直そうと立ち上がったところで麻穂はまたしても静止してしまう。
(わ、私、なんで今、涼のこと思い出したんだろう……)
再び赤みを帯びる顔に両手を添えて、麻穂は妙な考えを振り払うように左右に大きく頭を振った。
ふうと息をついて冷静さを取り戻してから、改めて教室を出た。
その衝撃のキスシーンは、しばらく麻穂の脳裏にちらつくことになった。




