境界事変篇 24『イナイモノ』
悠斗に案内されて進藤たちが向かったのは高坏円事務所の応接室。
ドアを開けると真っ先に目に飛び込んでくるのは壁一面に置かれた棚に隙間なく置かれた無数のファイル。
彼らを待ち受けるのはこの事務所の女主人。高坏円その人だ。
「ふむ。時間通りだな」
自身の椅子に腰かけて、手には温かいコーヒーが淹れられたばかりのカップ。
ふっと笑みを浮かべてカップをテーブルに置いた円は来客の顔をそれぞれ見渡した。
「いらっしゃい。今回はどのようなご依頼で? なんて聞くのは野暮なのだろうね」
話しながら立ち上がった円は棒立ちの三人の前まで来ると、
「どうぞ。そちらに」
部屋の真ん中に鎮座しているソファを薦めた。
促されたままソファに座る榊、進藤、大沢の三名と対面になる位置に円が腰を下ろした。
「念のために確認するが、事務所へ来た理由は先程起きた怪我人が出た事故に関連してで合っているかな?」
「ああ。そうだ」
円の問いに大沢が答える。
「だが、出たのは怪我人じゃなくて死人だ。これが事故なら重大事故、人の手によるものなら傷害事件ではなく殺人事件になった」
声を低く遺憾であるように告げた大沢に円は一言「そうか」とだけ告げて目を伏せた。
円のその行為が黙祷であることに気付いた進藤はハッとしたように彼女が目を開けるのを待ってから話しかけた。
「その、あなたはどこまで把握しているのですか?」
進藤の口から出た真正面からの問いに円は「ふむ」と顎に手を伸ばす。
「どこまで、とは?」
「事件に関してです。もしかしてあなたは僕たちが知らないようなことまで知っているのでは?」
榊も大沢も素直なだけの進藤の問いを咎めることはしない。むしろ彼らとて気になっていたことではあるが故に口を閉ざして円の答えを待っていた。
「どうかな。私は貴方たちが知っていることを知らないのでね」
片目を瞑ってにやりと笑う円に大沢がため息を吐きつつ、纏めてきた事件の資料データが入った端末を渡した。
「そこに一通りは纏めてある」
言い切った大沢に榊が小さく「いつの間に」と驚き呟く。
意外なことに細かな仕事もできる大沢のことを知る進藤は彼が情報を纏めていることには驚きはしなかったが、それを何の躊躇いもなく円に渡したことに驚いていた。
「なるほど」
渡された資料に円が目を通しているとふと部屋のドアが開いた。
「どうぞ。コーヒーです」
人数分のカップが載せられたお盆を片手に現れた悠斗が一声掛けてからそれぞれの前に並べていく。
大沢は軽く「おう」と告げ、榊は「ありがとう」と言ってそれを受け取るも、進藤はどこか睨むような目つきで悠斗を見返してきた。
「あれ? もしかしてコーヒー嫌いでした?」
「…いえ」
「だったら紅茶にします?」
「いや、そうじゃなくて…」
「まさか、紅茶も苦手なんですか? わかりました。緑茶なら大丈夫ですよね。今ならちょうどいいお茶があるんです」
自分が睨まれている理由を出したコーヒーが気に入らなかったからだと思っているのか、あえて気付かぬふりをしてとぼけて見せているのか、悠斗の飄々とした様子に一層深く進藤は眉間に皺を寄せていた。
「いえ、そういうことではなくて」
話が噛みあっているようで噛みあっていない、お盆を手に部屋を出ていこうとする悠斗を呼び止める進藤という喜劇のような光景にくすくすと微笑する声が聞こえてきた。
「申し訳ありませんが、貴方は席を外してもらえませんか?」
立ち止まった悠斗の正面に立った進藤が真剣な目で訴えてくる。
部外者は立ち会わせるべきではないという職業上の常識から出た言葉だからこそ、この場にいるのは自分と同意見の人たちだけ。そんな風に考えていた進藤を大沢が「待て」と呼び止めた。
「何故です?」
「毎回こうして彼を追い出すのも面倒だ。ここに居てもらえばいいだろ」
「ですが」
「安心してくれていい、彼は私の助手。守秘義務は必ず守るし、ああ見えて案外鋭いことに気付いたりするのさ」
だから同席させるべきだと告げる円に納得のできない進藤は助け舟を求めるかのように榊を見た。
「あら、いいじゃない。多角的な意見は重要よ」
自分の味方をしてくれると思っていた進藤は榊の言葉に愕然となった。
「そんな…」
項垂れてソファに座る進藤を余所に円は悠斗に隣に座るように促した。
「さて。何がともあれだ。本題に入ろうじゃないか」
悠斗が着席したのを見届けて円が渡された端末に保存されている事件の現場写真を表示しながら口を開いた。
「この事故、私が思うには確実に事件だと言えるだろう」
間違いないと断言する円に進藤たちは面をくらったように驚愕の表情を浮かべた。
「どうしてそう言い切れる?」
「簡単なこと。被害者を圧し潰したとされるこのブルドーザー、これを動かすためには人が乗り込み自分の手で直接運転しなければならないからさ」
当然だろうと言う円は端末の画像を次々切り替えている。
映し出されているのは壁に突っこんでいるブルドーザーの画像。ぐしゃぐしゃに潰れた当該事故車両と同機種新品の画像。表記されている性能を確認するとやはりそれは旧来の車両であり、安全装置として緊急時には自動停止するシステムが組み込まれているが、それ以外は電子制御されていないある意味でアナログな機種だった。
この事実を知らぬ進藤ではなかったが、それでもと何か外部要因があってコントロールされたのだろうと考えていたために肩透かしされた気分になっていた。しかしそういう可能性があると当初から考えていたであろう榊は動揺を見せず、大沢はむしろ事件が自分の領分に入ったのだと密かなやる気を燃やしていた。
「でも、誰かが運転していたなんて情報はなかったはずですよね?」
「少なくともおれは聞いていない。異常課には何か確証に繋がる情報があったのか?」
「残念だが私の元にもそのような情報は入ってないな」
「だったら…」
円の意見を受けてひそひそ声で話す三人。彼らの言葉を裏付けするように保存されている画像には一つとして運転手らしき人の姿は映っていなかった。確証はないのだからと異議を唱えようとする進藤を大沢が首を振って制止する。
「進藤の言いたいこともわかる。だが、事故を起こしたブルドーザーには遠隔操作機能はおろか自動運転機能すらなかったみたいじゃないか。だとすれば残る可能性は誰かが実際に運転したということだけ。違うか?」
「それは、そうですけど」
納得ができない様子で俯く進藤を余所に円の手元を隣から覗き込んでいた悠斗がぽつりと呟く。
「映っていないから誰もいないって考えるのは早いんじゃないんですか?」
「どういうことかしら?」
その呟きを聞いた榊が聞き返す。
「映像に映っていなかったいなかっただなんて言いきれないじゃないですか。偶然映らないタイミングにいただけかもしれないし」
「車両全体を捉えているカメラから常に映らない位置に座って運転するなんてことは無理ね」
「だったらこの映像の方が変なんじゃないんですか?」
何気ない悠斗の言葉。何故それに思い当たらなかったのかの方が不思議なほど当たり前の可能性。榊は慌てて自分の鞄から端末を取り出して件の画像を確認することにした。画像に映し出されているブルドーザーの運転席周辺を拡大してそこに何か違和感がないかと探す。
一枚、二枚と画像を捲りつつ確認していくも、肉眼で見ただけでは見つけ出すことができない。
「変な所なんてないですよね?」
進藤もまた同じように画像を見ていた。しかし彼の目にも異常は発見できなかったようだ。
「そもそも何でブルドーザーが遠隔操作されたなんて思ったんですか?」
画像を見つめる二人を余所にまたしても悠斗は思うがままに疑問を呈すると進藤はそれを受けて「え?」と聞き返していた。
「だって普通は別の場所から操作されていただなんて考えないじゃないですか。それよりも運転手が操作を誤ったことで起きた事故と考える方が一般的なんじゃないですか?」
「ふむ。悠斗の意見を捕捉するわけではないが、ここに記されていることが事実ならば件のブルドーザーにはクローズネットが搭載されていたわけでも、外部からコントロールできるようなシステムがあるわけでもなかったのだろう」
「そうみたいだな」
「だとすれば考えるべき原因は別にある。違うかい?」
「ああ。円ちゃんの言う通りだ」
何気ない悠斗の発言を援護する円の一言を受け、大沢は確かにと深く頷いた。
「でも、僕の目にはこの画像に変な所は無いように見えますけど。やはり何かあるとすればブルドーザーの方だと僕は思います」
悠斗が言う可能性は認めつつも納得できないのか進藤は再度強く異を唱えた。
「そうね。進藤君の言うことも間違いではないと思うわ」
「ですよね」
自身を肯定する榊の言葉に進藤は表情を明るくする。
「けどそれは相馬君が言っていることにも言えることよ。どちらにしても検証してみないことにははっきりとしたことは言えないわ」
求めているのは真実だけだと暗に伝えて榊はもう一度端末に視線を落とす。
「私たちが今すぐにできることと言えば画像の検証ね」
そう呟くと今度は円がおやと首を傾げた。
「警察が車両を確保しているのではないのかね?」
画像のデータの解析よりも実物を調査した方が何倍も実利がある。だというのに榊がそれをすぐにできることから除外していることに違和感を覚えていた。
「車両は現在私たちの手元にないの。だから調査するには上の許可を取り付ける必要がある」
「そういえば」
と何かを思い出したような顔を上げた進藤に榊は辟易したと深いため息をついた。
「こうなることを読んでいたわけじゃないのでしょうけど、私たちに同行した目的がそこにあったとしても驚きはしないわね」
「どういうことですか?」
「あ、いや、それは…」
互いに納得した素振りを見せる進藤と榊に対して悠斗は何故という顔をしている。浮かぶ疑問をそのまま口にすると進藤は口ごもり明言を避けた。
「彼らが事件現場に赴いた際に同行していた人物が警察を差し置いて事故車両を持って行ってしまったということだろう」
すると円が表情一つ変えずにいった。
「どこで!」
「落ち着け。私はそれがどのような人物なのか、どのような立場にいるのかなどと追及するつもりはない」
驚くよりも問い質すように声を張り上げた進藤を宥めるように告げる。
「ともあれ現物が手元にないことには変わりない。画像のオリジナルデータを差し押さえられる前に解析を進めるべきじゃないか?」
「そうだな。悪いが先に戻らせてもらうぞ」
「ああ」
円の進言を受けて大沢が席を立ったその時、大沢の携帯にメッセージが届いた。一瞬にして表情が険しくなる大沢に円が「どうした?」と訊ねていた。
「また事故だ」
「え?」
「今回は被害者はいないみたいだが、また建設機械が補修工事中のビルに突っ込んだらしい」
「運転手は?」
「いなかったようだ」
送られてきたメッセージを確認しつつ円の問いに逐一答えている大沢に進藤は一人はっと目を見開いた。
「どうです? やはり今回の事件は遠隔操作されているんですよ」
異なる可能性を提示していた悠斗に進藤は自分の方が正しかったのだと言わんばかりにいってきた。
「待て。そう決めつけるのも時期早々かもしれん」
「どうして?」
「補修工事中のビルは人通りの少ない通りにあって今日は補修工事も休みだったらしく、そもそもの目撃者自体が少ないんだ。その目撃者も事故が起きた瞬間を見たわけではなく、機械がビルの壁に突っ込んだ状態で放置されているのを発見して通報してきただけらしい」
「でも音は? 大きな事故だったらそれなりの音がしたはずです」
「これから聞き込みを続ければ一人か二人くらいは聞いた人が出てくるかもしれんが、その時点で通報がなかったことを考えると望みは薄いだろうな」
誰も見ておらず、聞いてすらいないという事実がこの事故の異常を物語っている。
「そういえば、この事故も起きた直後に通報されたわけではないみたいだね」
端末にある情報を読みつつ円が言った。
「ああ。通報があったのは事故が起きたではなく、ビルにブルドーザーが突っ込んでいるのを発見しただったみたいだからな」
「つまりこれも誰も見ていないし聞いていない事故というわけか」
円の言葉に大沢は強い異常性を感じたのか自身の認識を改めるように一度目を閉じてゆっくり開けた。
「イチから洗い直す必要がありそうだ。とりあえずおれは二つ目の現場に行くが、進藤たちはどうする?」
「私は一度課に戻ります。進藤君は大沢さんに同行して調査を継続。いいわね?」
「はい」
「では、そこに悠斗を同行させるとしよう」
「わかった」
「えっ!?」
突然の提案に進藤は思いっきり顔を顰めるが、大沢は大した抵抗もみせずに受け入れていた。
「どうしてですか? こう言ってはあれですけど素人がいた所で邪魔なだけです」
強く反対する進藤を大沢が宥めようとするも、今度ばかりはと進藤が自身の肩を掴む大沢の手を振り払った。
「高坏さんが来るのならわかります。けど、この人はただの助手なんでしょう?」
「ああ。私の頼りになる助手さ」
「だとしても素人なのは変わりません。他の人たちにどう説明するつもりなんですか」
「それは…」
返答に困っている大沢に円はそれならと助け船を出した。
「悠斗には榊さんに同行してもらおう。それでも構わないかな?」
「ええ。いいわ」
「榊さん!」
さきほどの大沢のように軽く受け入れている榊に進藤は信じられないとその名前を呼んだ。
「現場は進藤君達に任せた方が良いというのは同感だけど、私が調査することなら彼も力になってくれると思うわ。それに、こっちは元々彼が提示した可能性を検証することになるのだから。自分の言葉には責任を持たないと、そうでしょう?」
「わかりました」
頷く悠斗に進藤は何か言おうとしてできなかった。声を上げようとした瞬間にこれではいつまで経っても話が纏まらないと大沢によって強引に部屋を連れ出されてしまったからだ。
「これを使え」
部屋を出て行った大沢が戻ってきてポケットの中から合金製の鍵のストラップが付いた車のキーを投げ渡してきた。
「ほら行くぞ」
「え、あ、はい。わかりましたよ」
鍵を渡すために戻ってきた大沢についてきた進藤が肩を組まれて強引に連れ出されていく。
「私たちも行きましょうか」
「はい」
車のキーを持ち事務所を出て行く榊を悠斗は小走りで追いかける。
すぐに隣に並んで階段を降りると、進藤と大沢が乗る車が走り去っていくのが見えた。
「こっちよ」
高坏円事務所があるビルのすぐ傍に停められていた車のロックを外しながら榊が言った。
レトロカーとまではいかないが、数世代型落ちの白い普通車。
ドアを開けると微かなタバコ臭が漂ってくる。
「乗って」
「あ、はい」
悠斗は助手席に乗り込み、榊は運転席に乗る。
互いにシートベルトを締めると榊はエンジンを付けてすぐに窓を全開にした。
「準備はいい?」
「大丈夫です」
「そう。なら行くわよ」
ぐんっと車が急発進する。
悠斗は知らなかった。職業上免許は持っているものの榊は運転が荒く普段から密かに車の運転をしないように同僚から図られていることを。
それでも法定速度は守るし、道交法も犯さない。
なのに荒いと評される運転は、二度と助手席には座らないと同行者に強く決意させるものと言われていることも。
榊が久々の運転に嬉々としているその頃、進藤は自車を運転しながら隣に座る大沢に不満をぐちぐちと零していた。
「そもそも、どうしてあの事務所に行ったんですか? 確かにもう一つの可能性は出てきましたけど、それはわざわざあそこに行かなくてもいずれ分かったことじゃないんですか?」
「かもな」
相槌を打ちながら大沢は真の理由を放さない。
大沢が高坏円事務所を訪れた真の理由。それは円がこの事件を解決に至らせられる人物であると確信していることと、もしシャドーマン関連だった場合、進藤の身を案じてのこと。しかしそれを話すわけにはいかない。秘密にすることを約束したからという理由もあるが、それ以上に何らかの理由で悠斗が動けなくなることを避けなければならないと考えていたからだ。
現状進藤が使うGM05は力不足。それが解決しなければ悠斗の力を借りなければならない。
「それに榊さんも榊さんですよ。彼をすんなりと受け入れて。異常課にも機密情報はたくさんあるってのに」
「そうだな」
進藤が心配していることも理解できると大沢は同意を示した。
彼からしても榊が悠斗の同行を認めたことは意外だったが、藪をつついて蛇を出す必要はないとあえて何も言わなかったのだ。
「そろそろ着くぞ」
気持ちを切り替えろと伝えて、自身もまた頭を事件へと切り替えた。
規制線に囲まれた工事途中のビルがある。
その奥にはビルに頭から突っ込んでいる軽トラック。
建設車両と聞いていたからショベルカーのようなものだと思っていたが、実際は資材を運ぶトラックだったらしい。
「いいな。今は目の前のことだけを考えろ。じゃないと…」
「大切なことを見逃す、でしょう。わかっています」
「ならいい。行くぞ」
車を事故現場の周りにある他の警察車両に並べて停めて、二人は現場へと向かって行く。
怪我人は出ておらず、状況はただの自損事故であるからか、先程の現場よりも捜査員の数は少ない。
既に鑑識の人たちは去っているようで、大沢たちは自由に現場を歩き回ることができていた。
「この軽トラックは」
「ああ。先の現場と同じだな。遠隔操作なんて勿論のこと、自動運転機能さえ積まれていない車種だ」
これで悠斗が言っていた可能性が高くなった。だがそれでもまだ自分たちが考えていた通りである可能性も残されているはずと進藤は壊れて動かない軽トラックを念入りに調べ始めていた。




