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第四話 裁ち、仕上げる

裁ちは、始まりではない。終わりに最も近い仕事だ。

冷蔵庫から肉を出すと、空気がわずかに変わる。冷気をまとっていた肉が、室温に触れ、静かに呼吸を始める。

表面に浮かぶ微かな湿り気が、時間をかけて整えられてきたことを物語っている。

肉師は、すぐには包丁を入れない。

まず、肉を置く。作業台の中央。

影の落ち方を確認し、光の向きを微調整する。ここで誤ると、繊維の流れを見誤る。肉は、見ているようで、見ていないと何も教えてくれない。

包丁を持つ。

刃はすでに研がれている。だが、ここからが本番だ。

同じロースでも、切る位置によって性格が違う。

脂の入り方、繊維の向き、噛み始めの抵抗。

それらを頭の中で組み立てながら、刃を構える。

最初の一枚を切る。

刃が肉を離れた瞬間、断面が一瞬だけ光る。

赤と白が、混ざり合わず、しかし分断もされず、きれいな線を描いている。これが崩れると、味も崩れる。

肉師は、わずかに角度を変える。

一度で決めない。切りながら、調整する。


若い頃は、この工程が苦手だった。

薄く切ることが正解だと思っていた。見た目が良ければ、それでいいと信じていた。

ある日、客に出した肉を、自分でも食べてみたことがある。

口に入れた瞬間、違和感があった。

柔らかい。だが、香りが立たない。

噛んでも、何も返ってこない。

肉は、黙っていた。

その夜、先代に言われた。

「それ、誰のために切った」

返事ができなかった。

「料理人のためか」

「写真のためか」

少し間を置いて、先代は続けた。

「食べる人のために切れ。それ以外は、全部余計だ」

その言葉が、今も耳に残っている。


肉師は、次の一枚を切る。

今度は、繊維を断ちすぎない角度で。

噛んだとき、ほどけるように。

裁ちは、技術ではない。想像だ。

この肉を、どんな人が食べるのか。どんな一日を過ごし、どんな気分で口に運ぶのか。

家庭の食卓か。贈り物か。

特別な日か、何でもない日か。

肉師は、すべてを想像しながら刃を入れる。

だから、切る速度は一定ではない。

迷っているのではない。考えている。

切り揃えられた肉が、静かに並ぶ。

形は整っているが、揃いすぎていない。

それぞれが、それぞれの役割を持っている。

盛り付けを意識する。

開けた瞬間に、息を呑むかどうか。

だが、それだけでは足りない。

見た目が美しくても、味が伴わなければ意味がない。

味があっても、美しくなければ期待を裏切る。

その両方を満たすために、裁ちはある。

肉師は、最後の一枚を切り終え、包丁を置く。

刃を拭き、断面をもう一度確認する。

いい。

声には出さない。だが、確信がある。

この肉は、もう料理だ。火を入れる前に、すでに終わっている。

作業台の上には、整えられた近江牛が並んでいる。あとは、届けるだけだ。

肉師は、深く息を吐いた。

この工程を終えるたび、少しだけ、肩の力が抜ける。裁ちは、終わりだ。

だが、仕事はまだ終わらない。

この肉は、ここから遠くへ行く。その先にある食卓まで、責任は続いている。

肉師は、次の工程へ進む準備を始めた。

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この章で初めて、包丁が「表現の道具」になる。 裁ちは技術ではなく想像――その一文が、この作品の哲学を言い切っている。 誰のために切るのか、という問いは、あらゆる創作・仕事に通じる普遍性を持つ
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