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そのときだった。
「それくらいにしておきなさい」
男性の声が後ろから聞こえてきた。
ゆっくりと振り向くとそこにはヘルムートが立っていた。パンツとシャツという今まで見たことがない服装であったが、ひと目見ただけで彼だとわかった。
「なんでお前が……」
ヘルムートはイルザを一瞥して、すぐに男たちの元へと歩いていった。服装もそうだったが、今まで見たことがない鋭い目付きをしていた。なにかに怒っているような、憎んでいるような目だった。そしてイルザとエルネスタを守るようにして立つ。とても大きいとは言えない背中だが、どうしてかとてもに頼もしかった。
「貴方たちは今何年目ですか?」
自分よりも体格がいいであろう男たちの前に立って言い放つ。それもまた初めて見る姿で、なにもかもが新鮮だった。
イルザが知っているヘルムートは温和で、裏で思惑があるのだろうが、それでも優しすぎるほど優しい人物だ。こちらの意図してないことを考えていてもむやみに人を傷つけるようなことはない。柔らかな微笑みがよく似合い、聡明で、根気強いことも知っている。だから他人を睨みつける姿など想像できなかった。今このときまでは想像すらしなかったのだ。
「なんだ、新しいセンセーか。優しそうだと思ってたんだが、そういう顔もできたんだな」
「私は何年目かと訊きました。会話が成り立たないようですが質問には答えられませんか?」
「そういう言い方しなくてもいいだろ?」
男はニヤニヤしながらもため息をついた。
「わかったよ。三人とも二年目だ。あと半年で終了だけどな」
「そうですか」と言ったあとで、ヘルムートは小さなノートのメモをとっていた。
「なんだよそれ」
「貴方達の名前を書いているんですよ。こういうときのために名札を義務付けているんです。知りませんでしたか?」
「俺たちの名前なんて書いてどうするつもりだ? まさかこんなことで辞めさせたりなんてしねえよな? いや、新米教師がそんなことできるわけねーか」
男たちは顔を見合わせてゲハゲハと笑い合っていた。
ヘルムートが額に手を当ててため息を吐いていた。先程の敵意をむき出しにした姿も初めてだったが、本気で呆れている姿を見るのも初めてだった。
「できますよ、ただの教師ではないので」
今度はヘルムートが笑い、それを見た男たちの顔からは笑みが消えていった。空気がひりついていくのを肌で感じる。その頃には不思議と鳥肌は収まっていた。
「俺たちがコイツらを馬鹿にしたから辞めさせるのか? そりゃねえだろ。元はと言えばコイツが日雇い奴隷なんてしてるからいけねえ。俺は事実を言ったまでじゃねえか」
「彼女がそうやって仕事をしていたのは事実なのかもしれませんね」
どうしてか、ヘルムートに肯定されると心臓が大きく脈打った。
「なら別に問題ねえだろ」
「それがわからないようでは、やはり貴方たちは候補生としては失格なんですよ」
男たちから殺意のような、言いようのない気配を感じた。頬肉が持ち上がり、怒りをあらわにする。勢いよく立ち上がり、今にも飛びかかろうかという感じではある。が、自分が魔法使いの候補生である自覚が欠片程度は残っているようだった。
「品行バツ、感情制御バツ、言葉遣いバツ。以上のことから適正がないものと判断しました。これから職員会議にかけますので、貴方たちには追って通知が来るかと思います」
「新人がなにぬかしてやがんだよ」
そこで警備員が三人やってきた。元々ヘルムートが呼んでいたのだろうその警備員たちは男たちの腕を締め上げ、そのまま食堂の外へと連れて行った。最後までこちらを睨みつけていたせいでなかなか緊張感が抜けなかった。
ヘルムートがこちらに振り返った。いつも見てきた優しい笑顔だった。
「大丈夫でしたか?」
低い、よく通る声だ。聞き慣れるほど会話をしているわけではないがすごく心地よく安心できる声色。
「大丈夫に見えるなら大丈夫なんだろうよ」
小さくため息をつく。安堵にも似たため息だった。
「なんであんなのが入学できるんだよ」
「試験のときには大人しくしていたのだと思いますよ。入学してからも、教師たちに見つからないようにしていたらこちらでも関与できませんから。生徒たちから苦情が出ても証拠がなければ行動に移せません。そのへんを上手くやっていたんでしょう」
「まあこれでいなくなってくれればいいけど。そんなことよりアカデミーの教師になるなら先に教えといてくれよ」
「驚かせようと思いましてね。本当は二ヶ月前に就任していましたタイミングが合わなかったんです。引っ越しもそうですが新しい仕事ということもあって忙しかったんです」
そう言ったあとで細長い小包を差し出してきた。青い包装紙と赤いリボンで綺麗に包装された、手のひらより少し大きめの小包だった。
「なんだよ、これ」
つっけんどんな言い方ではあったが差し出された以上は受け取ることにした。
「誕生日プレゼントですよ。おめでとう、今日で十九歳ですね」
「んだよ、雑な祝い方だな」
「学生寮に入っていなければもっとちゃんと祝ってますよ、安心してください。それとこれは新居の地図です。時間ができたら来てください。妻と子供が喜びますから」
もっと早く渡すべきだろう。そんな言葉を飲み込んで地図をポケットにねじこんだ。彼には彼の仕事や家庭があり、その上で赤の他人に融通をきかせろというのは難しい。
その後ヘルムートはエルネスタを見て一層微笑み、そのあとで「用事があるので失礼します」と出口に向かっていった。
「ありがとうな!」
食堂から出ていこうとする背中に叫んだ。ヘルムートはその場で会釈し、そのまま食堂を出ていった。
たった数分の出来事であったが、その間に様々な感情が一気に通り過ぎていった。けれどすぐに罪悪感が押し寄せてきた。
イルザはエルネスタに向き直って目を伏せた。
「ごめんな」
自分がアカデミーに来なければ、エルネスタが本来関わることがないであろう人間に絡まれることもなかった。自分のせいで嫌な思いをしたことが強く胸を締め付ける。だが胸を締め付けている原因は他にもあった。
「なんで謝るんですか?」
ひょこっと、視界にエルネスタの笑顔が飛び込んできた。
「私なにもされてませんよ。ちょっと転んだだけです」
「転ばされたんだろ」
「生きていれば誰かに転ばされることもありますよ」
「そういうことじゃ――」
その小さな女の子が素早く動いた。イルザの頬を両手で包み込み、頬肉を目一杯中央に寄せている。
「私は大丈夫です。それよりもイルザさんは大丈夫でしたか?」
今度は悲しそうな顔になった。表情がコロコロと変わる。それがなんだか愛おしく、自分と同い年とは思えなかった。
ここでなんと言えばいいのだろうと考えを巡らせる。エルネスタに対しての罪悪感はある。同時に自分がやってきたことを知られたという羞恥心もまた胸の中で大きく膨らんでいった。
「大丈夫だ。そんなことより食事だ。飯食えば少しは気分も晴れる」
食券交換所に向かって一人で歩き出した。数秒遅れて足音がついてくる。その足音を確認したあとで少しだけ歩調を速めた。
食券を渡して数分待ち、出来上がった食事を持って窓際の席に向かった。
食事をしながらいつもどおりの世間話をした。いつもと同じ、なんということのない会話。そのはずだったのにどこかぎこちない。イルザはそのぎこちなさに気が付きながらも知らないふりをしてやり過ごした。エルネスタが居心地の悪さを感じていることも気付いていた。だからお互いのためにと食事を早めに切り上げた。
そんなことをしても意味がないことはわかっている。寝食を共にし、授業も同じものを取るのだから、誤魔化し、取り繕うのにも限界がある。
それでも時間は過ぎて授業が始まる。ノートはちゃんと取った。黒板に板書された文字の羅列を、綺麗とは言えない字で書き写した。
午後の授業をすべて終えて部屋に帰るがなにもする気になれなかった。机に向かって教科書を広げてみても勉強が手に付かない。かたやエルネスタは背後でカリカリとなにかを書いて、ペラペラとページをめくっている。食堂でのことを気にしているのが自分だけなのだと考えると、自分が思っている以上に過去の生活を恥じているのだなと思い知った。
そういえばと、ヘルムートがくれた長細い小包を手にとった。エルネスタとギクシャクし、その上で授業を受けたせいで忘れていたのだ。
リボンを解いて包装紙を綺麗に剥いだ。出てきた小箱の蓋をそっと持ち上げた。箱の中に入っていたのは青い色のペンだった。手にとってキャップを取るとどうやら万年筆のようだ。光沢がありずっしりと重く、これが高価であることはなんとなくわかった。
「ありがとうな、ヘルムート」
万年筆を箱に戻し、机の引き出しの中にしまい込んだ。イルザは自分の頬が緩んでいることに気が付かなかった。
背が高く顔つきが凛々しい。頭がよく運動や体術もできる。年は四十手前でやや年をくってるが誰にでも優しく、妻と子供を大事にしている元魔法使い。そんな彼も完璧ではなかった。
「インクがなくてどうやって使うんだよ」
近いうちにインクを買いに出かけよう。ついでにエックハルト家に寄ってディアナとフィーネの顔を見に行こう。そうやって考えているうちに勉強する気持ちが湧いてきた。
ノートを広げて鉛筆を持った。小さく鼻で深呼吸したあと教科書の内容を書き写し始めた。
勉強が好きなわけではない。けれど知らなかったことを吸収するのは好きだ。理解できなくて頭を抱えることもあるが、解決できたときの喜びはひとしおだ。それにやり遂げなければならない野望があり追い求めている夢でもあるが、その夢を実現するための足がかりでもある。この勉強という行為は、今の自分を新しい自分に塗り替えてくれるのだと信じている。だから、眠くても辛くても手は抜かない。抜くことができなかった。そうやって自分に言い聞かせて鉛筆を走らせていた。
もうあんな生活には戻りたくない。
「イルザさん?」
肩を叩かれて我に返る。振り返ると心配そうに見つめるエルネスタが立っていた。
「どうかしたか?」
「もう夕食時なんですけど、声をかけても返事がなかったので」
「そんな時間か」
エルネスタから視線を外して時計を見る。勉強を始めてから二時間程度だが、感覚的には十分くらいしか経ってないように感じてしまう。
「じゃあ行くか。食堂が閉まる前にな」
遅くまでやっている食堂だが、朝六時から開いている関係で夜は九時で閉まってしまう。現在七時過ぎなので問題はないが、もしも混雑していると食べる時間が少なくなってしまう。
エルネスタを先頭にして歩いた。背が低く、可愛らしく、おそらく友人と言っても過言ではない。きっと普通以上の家に生まれ、愛という名の水を注がれて育ってきた。
彼女の背中を見ていて、ふと、私はこの子と一緒にいていいのだろうかと考えてしまった。一歩間違えたら彼女に対しての妬みや嫉みで険悪の仲になっていた。それに今はこうして同じ場所で同じように暮らしているけれど、自分と一緒にいるせいで優しく明るいこの少女が怖い思いをするかもしれない。そんなことがあれば、きっと耐えられない。
どこかで線引きをする必要があるのではないか。
エルネスタの背中を見ながら、いつどうやってこの関係に線を引くかを考え始める。そうしたら彼女はどんな顔をするだろう。なんて言うのだろうと考えて、やめた。今はまだこのままでいたいと思ってしまったからだ。
彼女と距離を置く日はきっと来る。なぜならば自分にはこんなぬるま湯は合わない。
そう思いながら、イルザは小さな背中を見つめ続けていた。




