第86話 最も血の流れた一日
万もの軍勢が一日で壊滅したのが、ヘルヘイムの戦いの緒戦である。
魔王軍としては、一日持てばいいという考えのため、もはや戦略的には勝利を収めていた。
一方で、数時間で踏みつぶせると見ていた人類軍からすると、これは予想外の打撃だった。
彼らは主力を温存し、来たるべき首都攻防戦に備えていたわけだが、そうも言っていられなくなる。
図に乗っていた教皇国が痛手を負ったのは愉快だったが、自分たちの軍にもあれだけの被害を受ける可能性があったのだ。
そこで、人類軍は惜しげもなく主力を投入することにした。
二日目。
王国騎士団、帝国四騎士、教皇国大魔導、共和国猟兵団が参戦する。
しかし、問題はやはり峡谷だった。
あの狭い道しかないせいで、数の利を存分に使うことができないのだ。
それでも、砦を守る数千の魔王軍よりは多く数は用意できるものの、人類を大いに苦しめた【赤鬼】には通用しない。
峡谷が崩されないようにアオイの力で固めているが、その先には大量の罠や待ち伏せが用意されていた。
その罠と奇襲により、一万の兵は壊滅したのである。
すなわち、この地形をどうにかしなければならない。
険しい山脈を超えて少数精鋭を送り出すのも、失敗した時が恐ろしい。
では、どうするか?
二日目の戦闘も日が落ちる直前までに至る。
それでも、まだ砦を突破することができていない。
あまり時間をかけると、魔王軍に再編の時間を与えてしまうことになる。
それはマズイ。
そのため、ゴルゴールは……。
「アオイ、あの峡谷を消してこい」
二日目の戦闘も終わる直前。
人類軍は引いていき、魔王軍もほんの少しの休憩に入ろうとしたときだった。
「おい、あれ……」
魔王軍の目に飛び込んできたのは、宙に浮かぶ【鏖殺の聖勇者】アオイ。
魔王軍をことごとく撃滅し、恐怖の象徴となっている女傑。
彼女がたった一人、空に浮かんでいた。
そして、神々しく輝く聖剣を振るった。
「ぐおおっ!?」
ゴウッ! とすさまじい風が吹き荒れた。
暴風だ。
何かに捕まっていなければ、大の男が吹き飛ばされてしまうほど。
地震のような地鳴りも響き渡り、ようやく落ち着いたころに魔王軍の兵士が顔を上げると……。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
「なあ。ここって、平地だったか?」
「……いや、自然の要塞だったぞ」
「そっか。じゃあ、あいつがたった一振りで地形を変えたってことか」
誰にでも好戦的なリフトですら、顔を青ざめさせていた。
今まで魔王軍に味方していた峡谷は、跡形もなく消し飛んでいた。
そこにあるのは、瓦礫が少々。
あとは平地だ。
アオイは、たった一度剣を振るうだけで、人類にとって戦いやすい戦場を作り出したのであった。
「あんた、あんなゴリラみたいな幼なじみがいたんだな」
「いやー、もっと非力でおしとやか……ってわけでもなかったな、うん。昔から片りんはあったわ」
すでにボロボロのラモンとリフトが会話をする。
峡谷という自然に守られていた状態でもこれだ。
魔王軍も籠城していたにもかかわらず、兵は2割減っている。
「明日が最後だな」
ラモンは空を見上げ、そう呟いた。
◆
三日目。
日が昇り始めたような早朝に、ヘルヘイムの戦いは一気に動き出す。
「アオイ、あの忌々しい砦を粉砕し、ゴミどもを外に放り出せ」
峡谷という自然要塞が破壊されて大軍でヘルヘイムに押し掛けることができるようになったが、いまだに砦に立てこもる魔王軍は健在である。
そして、要塞にこもる敵軍を屠るのは大変だということは、世界中の軍隊での常識である。
兵数も必要だし、周到に準備された砦を崩すのも大変だ。
相手に援軍が来ないうちに倒さなければならないというプレッシャーもある。
だから、ゴルゴールはその砦をなくしてしまうことを考えた。
「…………」
【鏖殺の聖勇者】アオイ。
人類最強の彼女は、再び聖剣を振るう。
砦の前で、たった一人で。
本来なら、人間が一人で素振りをしても、何も変わらない。
戦場で何をしているのかと、あざ笑われるだけだ。
だが、それが人類最強の英雄がしたとなると、話はまったく変わる。
振られた聖剣から溢れ出す強大な光。
それは、強固に作られた砦を、たったの一撃で粉々に破壊してみせた。
「……あの人が味方で、本当によかったと思うよ」
「俺もだ。絶対に安全なはずの砦が、攻城兵器や戦略級魔法を使わずに壊されるんだからな。もう悪夢としか言いようがないよ」
砦を攻めていた人類軍の兵士が、何とか言葉を絞り出す。
ただ、彼女を敵にしたくなかった。
砦を一撃で粉砕するような女と戦えなんて言われたら、間接的な死刑宣告である。
どう考えても生き残れる気がしない。
今、その力を目の当たりにしている魔王軍は、何と不憫なことだろうか。
今頃、絶望して涙を流しているだろう。
降伏は受け入れるなということ。
そんな命令が下されているので、今戦っている魔王軍は皆殺しにされることが決まっている。
そして、彼らを守るべき自然の要塞も人工的な砦もすべて破壊された。
彼らを守るものは、何もなくなった。
「進め! 今がチャンスだ! 怖気づく魔王軍を皆殺しにしろ!」
怒声を上げて一斉に崩れた砦の中へと攻め込もうとする人類軍。
いきなり砦を破壊されれば被害は甚大だろうし、アオイの一撃に巻き込まれてほとんど命を落としているかもしれない。
今までさんざん苦戦させられた借りを返してやる。
そう意気込んで攻め入った人類軍の目に飛び込んできたのは、予想だにしないものだった。
「……誰もいないぞ?」
誰も砦の中にいないのだ。
アオイの一撃で全滅した?
いや、しかし死体すらないのである。
まるで、最初からそこにいなかったように、人っ子一人。
だが、よく見るとここで生活していた痕跡は見受けられる。
亡霊と戦っていたというわけではない。
では、魔王軍はどこに?
「ん?」
人類軍の一人が、異臭に気づく。
鼻を引くつかせ、周りを見る。
ドクドクと大量に流れ出る刺激臭のする液体。
それは、可燃性の液体だった。
「逃げろ! これは罠だ!」
とっさに叫ぶが、その直後、どこからか火炎が襲い来る。
それは、人類軍にも悪名高いイフリート、リフトの業火だった。
もともと威力のある彼の炎に、その液体が混じれば……。
「ぎゃあああああああああ!?」
地獄絵図である。
人が生きながらにして焼かれ、倒れていく。
熱さから何とか逃れようとのたうち回るが、当然その程度で消えてくれるような生易しい炎ではない。
むしろ、周りの無事だった兵士にも延焼し、被害は拡大の一途をたどる。
「うわあああああ!?」
ギリギリ砦に入らなかった者。
あるいは、何とか地獄の業火から逃れた者。
命からがら脱出し、このまま本陣に逃げ帰ろうとして……。
突如として側面から現れた軍勢に、身体を硬直させて絶望する。
彼らは援軍ではない。
味方ではない。
彼ら……いや、奴らは……。
「ま、魔王軍の奇襲だあ!」
魔族。
人類の敵にして、激しい戦争を繰り広げている相手だった。
その先頭に立つのは、魔族ではなく人間。
人類史上最悪の裏切り者、【赤鬼】ラモン・マークナイトである。
彼は愛剣ダーインスレイヴの切っ先を人類軍に向け、静かだがよく通る声で言った。
「全軍、突撃」
『おおおおおおおおおおおおおおお!!』
一斉に魔王軍が襲い掛かる。
ヘルヘイムの戦いの中で、最も過酷で血の流れた一日が始まった。




