第七章 :治らないものの名前
夜が明けたあとも、集落には緊張が残っていた。
糸を引き延ばしたまま、切れないように指先で支えている感覚。誰も口には出さないが、全員が「次」を想像している。
健康は、一度引き下がっても、忘れない。
それは優秀な管理者の条件だった。
僕は、いつもより早く目が覚めた。
夢は見なかったが、身体の奥がざらついている。昨日の出来事が、まだ消化されていない。
外に出ると、アオイが焚き火の跡を見ていた。
灰を指で崩し、温度を確かめる仕草。医師というより、天気予報士みたいだ。
「眠れました?」
「まあまあ」
「それは重症ね」
彼女は、笑った。
笑いは、ここでは治療行為の一種だった。
「ねえ、イチロウ」
「はい」
「あなた、自分が何をしたかわかってる?」
少し考える。
「……健康に逆らいました」
「そう」
彼女は頷く。
「しかも、理屈じゃなくて感情で」
それは、褒め言葉だった。
集落の長老格の男――いつも名前を呼ばれない彼が、皆を集めた。
肩書きも、権限もない。ただ、声が通る。
「次に来たら、隠れきれない」
誰も反論しない。
「移動する」
短い決定。
合理性のない判断だが、経験に裏打ちされている。
移動は、健康を捨てる行為だ。
安定を失い、予測を放棄する。
それでも、人は動き出す。
僕は、荷物を運びながら思った。
管理社会では、移動はデータだった。最短距離、最小消費。
でも今は、足の裏が地形を覚えていく。
転びそうになり、誰かに支えられる。
支えられることを、恥だと思わなくなった自分に気づく。
途中、倒れた老人がいた。
息が荒い。顔色が、夕焼けみたいにまだらだ。
アオイが、膝をつく。
「無理はしないで」
老人は、首を振った。
「……置いていけ」
言葉が、重たい。
集落が、止まる。
時間が、迷子になる。
アオイは、しばらく黙ってから言った。
「それは、あなたの選択じゃない」
「じゃあ、誰のだ」
「みんなの」
不健康な答えだった。
でも、誰も否定しない。
老人は、結局運ばれた。
速度は落ちる。リスクは上がる。
それでも、進む。
僕は、その背中を見て思った。
健康なら、切り捨てる。
生きているなら、引きずってでも連れていく。
夕方、新しい場所に辿り着いた。
森と岩に囲まれた、通信の届きにくい地形。
夜、焚き火が再び灯る。
同じ火は、二度と燃えない。
アオイが、隣に座る。
「後悔してる?」
「……少し」
「正常ね」
彼女は、空を見上げる。
「私ね、治せないものを、ずっと避けてきた」
「治せないもの?」
「死。孤独。選択の結果」
風が、木を鳴らす。
「でも、ここに来て思ったの。
治らないものにも、名前をつけていいんだって」
名前。
僕は、その言葉を胸の中で転がす。
「怖さ、とか」
「そう」
「後悔、とか」
「ええ」
「……希望、とか」
アオイは、驚いた顔をしてから、笑った。
「それは、一番危険な病気ね」
「治りますか」
「治らない」
即答だった。
「でも、一緒に生きられる」
その言葉が、胸に沈む。
石みたいに重くて、でも、熱を持っている。
数日後、僕のナノマシンが、ついに沈黙した。
電源が落ちたわけじゃない。通信が、完全に途絶えただけだ。
頭の中が、静かになる。
数値も、警告も、いない。
代わりに、心臓の音が、はっきり聞こえた。
ドクン。
ドクン。
規則正しくない。
でも、嘘がない。
アオイに、それを伝える。
「……戻れなくなりましたね」
「ええ」
彼女は、少し寂しそうに言った。
「でも、帰る場所はできた」
集落の子どもが、僕の服を引っ張る。
「ねえ、イチロウ」
「どうした」
「これ、なに?」
差し出されたのは、歪な木の実。
「……食べ物、かな」
「かな、ってなに」
僕は、困ってから答えた。
「食べてみないと、わからないってこと」
子どもは、笑った。
それは、正解でも不正解でもない笑いだった。
その夜、星がよく見えた。
管理されていない空は、無駄に広い。
アオイが、隣で言う。
「ハッピーエンドって、知ってる?」
「……物語の最後ですよね」
「そう。でもね」
彼女は、焚き火を見る。
「ここでは、毎日が最終回なの」
明日、終わるかもしれない。
終わらないかもしれない。
だから――
今日を、ちゃんと生きる。
僕は、彼女の言葉を反芻しながら、思った。
序列はない。
保証もない。
でも、名前がある。
触れる手がある。
怖さも、後悔も、希望も、ここにある。
それだけで、
これは、きっと――
ハッピーエンドだ。




