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何も起きない日々の取り扱い説明書  作者: 続けて 次郎


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第六章 :健康は、取り戻しに来る

 それから数日が過ぎた。

 正確な日数は、もうわからない。太陽の高さと、疲労の溜まり方と、焚き火の燃え残りで時間を測る生活は、時計よりもずっと曖昧で、ずっと正直だった。


 胸のノイズは、完全には消えなかった。

 ただ、意味が変わった。


 以前は警告音だった。

 今は――呼吸みたいなものだ。


 集落の人たちは、僕を特別扱いしなかった。

 それが、いちばん楽だった。


 力仕事をする日もあれば、何もしない日もある。

 何もしない日は、罪悪感が顔を出す。だが、それも「感じていいもの」として、放置する。放置できること自体が、自由だった。


 アオイは、簡易的な医療を始めていた。

 薬は足りない。器具も不十分。知識だけが、過剰にある。


「完璧に治すことはできない」


 彼女は、最初にそう言った。


「でも、悪化を遅らせることはできる。あとは……本人次第」


 本人次第。

 健康管理システムが最も嫌う言葉だ。


 その日の夕方、空気が変わった。

 風の流れが、わずかに揃いすぎている。


 鳥の声が、消えた。


 胸の奥で、何かが昔の形を思い出す。

 あの、冷蔵庫の奥で氷が割れる音。


 サイレンだ。


 遠い。

 だが、確実に近づいてくる。


 集落の誰かが、舌打ちした。


「……来たか」


 その一言で、全員が理解した。

 健康が、取り戻しに来たのだ。


 管理ドローンが、空に浮かぶ。

 白く、滑らかで、感情の入り込む隙間がない形。


 拡声器から、よく知っている声が流れる。


「未管理区域に滞在中の方々へ。

 これは警告ではありません。案内です」


 案内。

 暴力は、いつも優しい言葉を使う。


「健康保証対象区域への帰還を推奨します。

 抵抗は、さらなる健康リスクを招きます」


 人々が、散り始める。

 戦う者はいない。逃げる者も少ない。ただ、隠れる。


 効率的な散開だ。

 長年、不合理と共存してきた人間の動き。


 アオイが、僕の腕を掴んだ。


「イチロウ」


 その呼び方に、焦りが混じる。


「あなたは、見つかったら終わり」


「……知ってます」


 でも、不思議と足は動かなかった。


 ドローンの視線が、僕を捉える。

 網膜スキャン。体内ナノマシンとの照合。


 懐かしい感覚だ。

 自分が「物」に戻る手触り。


〈対象確認。

 序列なし個体。

 精神制御異常履歴あり〉


 異常履歴。

 それは、僕が生きた証拠だった。


「イチロウ!」


 アオイが叫ぶ。


 僕は、一歩前に出た。


 逃げない。

 隠れない。


 理由は、単純だった。


 ここで逃げたら、

 この時間ごと、否定することになる。


「……戻りません」


 自分の声が、こんなに低いとは知らなかった。


〈理由を提示してください〉


「理由は……」


 僕は、少し考えた。

 数値にできない理由を。


「ここで、誰かに名前を呼ばれたから」


 ドローンは、沈黙した。

 解析に、時間がかかっている。


「役に立たなくても、いていいって言われたから」


 〈解析不能〉

 その表示が、空中に滲む。


「それから――」


 胸に、手を当てる。


「怖かったから」


 怖い。

 それは、不健康だ。


 でも、生きている証拠でもある。


 アオイが、横に立った。


「彼は、患者よ」


 彼女は言った。


「健康じゃない。でも、生きてる」


 その宣言は、世界への反逆だった。


 ドローンが、後退する。

 判断保留。想定外。


 遠くで、別のサイレンが鳴る。

 撤退信号だ。


 健康は、今回は引き下がった。


 夜が、戻ってくる。

 不完全で、不安定な夜。


 集落の人たちが、少しずつ姿を現す。


「……無茶しやがって」


 誰かが言う。


「でも、悪くない」


 別の誰かが、笑う。


 アオイは、深く息を吐いた。


「……心臓に悪い」


「不健康ですね」


「ええ。最高に」


 焚き火が、また灯る。

 昨日より、少しだけ大きい。


 僕は思った。


 健康な世界は、僕を守ってくれなかった。

 でも、不健康なこの場所は、

 僕に立つ場所をくれた。


 生きるって、

 守られることじゃない。


 選び続けることだ。


 たとえ、

 毎回間違えても。


 夜は、ちゃんと近くにあった。

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