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何も起きない日々の取り扱い説明書  作者: 続けて 次郎


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第五章 :非推奨区域には、風がある

 扉の向こうは、暗かった。

 正確には、暗さを許容している空間だった。照明は最低限、壁は剥き出しの素材、配線は隠されていない。世界が「見せない努力」を放棄した場所。


 一歩踏み出すごとに、靴底が軋む。

 この音は、健康管理の対象外だ。だから消されない。だから残る。


「ここは……?」


 僕が尋ねると、アオイは息を整えながら答えた。


「旧管理区画。ナノマシン導入前の、遺構みたいなものよ」


 遺構。

 生きている世界の中に残された、死んだ設計思想。


「効率が悪くて、非衛生的で、管理不能。だから封鎖された」


 その言い方は、まるで人の話みたいだった。


 通路は曲がりくねり、天井は低い。背を伸ばすと、世界に頭をぶつける。これは久しぶりの感覚だった。

 この世界は、いつも僕に合わせて縮んでくれていたから。


 胸のノイズが、変化していた。

 一定のリズムだったものが、ばらけている。ドラムソロみたいに、好き勝手に叩かれている。


「……うるさい」


 僕が言うと、アオイは笑った。


「それ、たぶん“感じてる”ってことよ」


 感じる。

 データになる前の、雑音そのもの。


「ねえ、イチロウ」


 彼女は歩きながら言った。


「序列なしの精神制御って、完全じゃないの」


「……知ってます」


 知っている、というより、今まさに体感している。


「欲求を消してるんじゃない。

 欲求にラベルを貼って、無視させてるだけ」


 ラベル。

 それは、世界が得意な作業だ。


「『これは不要』『これは危険』『これは病的』

 そうやって分類して、感じないふりをさせる」


 彼女は立ち止まり、振り返った。


「でもね、ラベルは実体じゃない。

 剥がれたら、下からちゃんとした感情が出てくる」


 ちゃんとした、という言葉が、少しだけ怖かった。


 通路の先が、開けた。

 外気が流れ込んでくる。冷たく、湿っていて、金属と土の匂いが混じっている。


 風だった。


 管理された空気じゃない。

 成分表のない、気まぐれな風。


 僕は、立ち尽くした。


「……これ」


「外よ」


 アオイは言った。


「正確には、外れた外。

 都市の下に捨てられた、未管理地帯」


 地面は不均一で、草のようなものが生えている。街灯はまばらで、光の届かない場所がちゃんと存在している。


 怖かった。

 何が起こるかわからないという事実が、こんなにも重いとは思わなかった。


 でも同時に――


 胸の奥が、少しだけ軽くなった。


 ナノマシンが警告を出す。

 ――環境リスク上昇。

 ――健康保証対象外。


 保証が、ない。

 それはつまり、失敗が許されるということだ。


「ここで捕まったら?」


 僕は聞いた。


「私は職を失う。

 あなたは……たぶん、分解」


 分解。

 死よりも、ずっと清潔な言葉。


 僕は、風を吸い込んだ。

 肺が、少しだけむせた。最適じゃない空気。


「……それでも、来てくれたんですね」


 アオイは、少し黙ってから言った。


「あなたが“解析不能”だったから」


「理由としては、不健康ですね」


「最高に、ね」


 彼女は笑った。

 健康指標が見たら卒倒するような笑顔。


 遠くで、サイレンが鳴った。

 システムが、僕たちを探している音。


 選択には、いつも追い風と追手がついてくる。


「行きましょう」


 今度は、僕が言った。


「どこへ?」


 アオイは聞き返す。


 僕は、少し考えた。

 考える、という行為自体が、もう自由だった。


「……まだ名前のない場所へ」


 地図に載らない。

 序列も、評価も、保証もない。


 ただ、

 生きてしまう場所へ。


 僕たちは歩き出した。

 足取りは不安定で、効率も悪い。


 でも――

 これはもう、助走じゃない。


 転ぶ可能性を含めて、

 ちゃんとした「前進」だった。





 未管理地帯は、思ったよりも広かった。

 というより、広さを測る基準がなかった。壁も、区画線も、進行方向を示す矢印もない。あるのは、地面の凹凸と、風の流れと、遠くで鳴り続ける都市の低音だけ。


 足元で、小石が転がる。

 それを避けるという判断を、僕は初めて自分で下した。転ばないための最適解ではない。ただ、「嫌だったから」避けた。


 その感覚が、遅れて胸に来る。


「……今の」


「うん?」


「最適じゃなかった」


 アオイは少し驚いた顔をして、それから頷いた。


「でも、あなたが選んだ」


 選んだ。

 それだけで、行動は価値を持つらしい。


 遠くに、明かりが見えた。

 街灯よりも弱く、健康照明基準を満たさない、不安定な光。


「あそこに、人がいる」


 アオイが言った。


「人?」


「正確には、“残った人たち”」


 彼女は言葉を選んだ。

 その選び方が、もう管理者のものじゃなかった。


「序列なしに適応できなかった人。

 あるいは、適応しなかった人」


 適応しなかった。

 その選択肢が、存在していいのかどうか、僕にはまだ判断できない。


 近づくにつれ、音が増えた。

 話し声。笑い声。金属がぶつかる音。咳。

 すべてが、バラバラで、調和していない。


 不健康な交響曲。


 そこは、小さな集落だった。

 廃材を組み合わせた住居。規格外の形。安全基準を無視した高さ。

 そして、人の顔。


 顔が、あった。


 誰もが違う表情をしている。

 疲労、警戒、苛立ち、期待、諦め。

 教科書には載らない感情のサンプル集。


 僕は、視線を逸らした。

 情報量が、多すぎた。


「大丈夫」


 アオイが、小さく言った。


「見なくていい。

 見たいときに、見ればいい」


 見なくていい、という許可。

 それは、初めて与えられた。


 一人の男が、こちらに気づいた。

 年齢は不明。管理社会では、年齢は意味を失う。

 だがこの男は、時間をそのまま顔に刻んでいた。


「新顔か」


 声は、掠れていたが、はっきりしていた。


 アオイが一歩前に出る。


「医療関係者です。元、ですけど」


「元、ね」


 男は笑った。

 その笑い方は、健康でも不健康でもなかった。

 生き残った笑いだった。


 男の視線が、僕に移る。


「そっちは?」


 紹介を、待たれた。


 僕は、言葉に詰まった。

 序列も、役職も、識別コードもない。

 名乗るためのラベルが、手元にない。


 胸のノイズが、静かになった。

 代わりに、別の音がする。


 呼吸の音だ。


「……イチロウです」


 それだけ言った。


 名前だけ。

 それで、十分だった。


「イチロウ」


 男は、その名前を一度、口の中で転がした。


「いいな。短くて」


 評価基準が、意味不明だ。

 でも、なぜか嫌じゃなかった。


「ここではな」


 男は続けた。


「健康も、不健康も、自分で引き受ける。

 倒れたら、倒れた。

 生きたら、生きた」


 極端で、乱暴で、非効率。


 でも――

 嘘がなかった。


 アオイが、僕を見る。


「どうする?」


 問いは、軽かった。

 命運を決めるには、あまりに軽い。


 だからこそ、正しかった。


 僕は、集落の灯りを見た。

 揺れている。安定していない。

 でも、消えてはいない。


「……少しだけ」


 僕は言った。


「ここに、いさせてください」


 男は肩をすくめた。


「好きにしろ。

 保証は、しないがな」


 保証が、ない。

 それはもう、恐怖じゃなかった。


 僕は一歩、踏み出した。

 未管理の地面に、しっかりと足を置く。


 胸の奥で、何かが確かに起動する。


 それは欲求でも、反抗でもない。


 生活だ。


 解析不能なまま、

 数値にならない速度で、

 僕は、生き始めていた。





 集落の中は、夜と昼の境目みたいだった。

 灯りはあるが、均一じゃない。影が濃く、長く伸びる。人の輪郭が、場所によって歪む。世界が「正確であること」を諦めた結果、逆に手触りが増していた。


 男――名を聞きそびれたままの彼は、僕らを一つの小屋に案内した。

 壁は金属板と木片の継ぎ接ぎ。隙間風が、遠慮なく入ってくる。


「寝床だ。文句は受け付けない」


「……ありがとうございます」


 礼を言う、という行為を、久しぶりに思い出した。

 誰かに対して言う言葉は、端末に向ける報告より、ずっと重い。


 男は去り際に、ちらりと僕を見た。


「初日はな」


 それだけ言って、闇に溶けた。


 初日。

 管理社会では、初日も百日目も同じだった。最初から最適化され、最後まで同じ効率で使われる。

 だがここでは、初日は初日らしい顔をしている。


 小屋の中で、アオイが座り込んだ。白衣はもう着ていない。丸めて、枕代わりにしている。


「……疲れた?」


 僕が聞くと、彼女は少し考えてから答えた。


「疲れてる。でも、悪くない」


 悪くない疲れ。

 そんな分類が、この世界にはあるらしい。


 僕も腰を下ろした。床は硬く、冷たい。だが、体勢を変えれば何とかなる。

 何とかする、という選択肢がある。


 ナノマシンが、断続的に警告を出す。

 ――環境不適合。

 ――感染リスク上昇。

 ――推奨行動:区域離脱。


 頭の中で、それらを「無視」という箱に放り込む。

 初めて、自分でラベルを貼り返した。


「ねえ、イチロウ」


 アオイが、天井を見ながら言った。


「あなた、怖い?」


 質問が、直球だった。

 健康管理の問診票には、こんな聞き方は載っていない。


 僕は、少し考えた。


「……怖いです」


「何が?」


「全部です」


 外。人。自分。未来。

 ひとつずつ挙げたら、夜が明ける。


 アオイは、静かに息を吐いた。


「正常ね」


「そうなんですか」


「ええ。怖くない方が、異常よ」


 その言葉は、医療知識じゃない。

 経験則だ。


 小屋の外で、誰かが咳をした。

 乾いた咳。治療されていない音。


 僕の胸が、少しだけ締め付けられる。


「助けなくて、いいんですか」


 アオイは、首を横に振った。


「ここではね、助けるかどうかも選択なの」


 選択。

 その単語が、また胸を叩く。


「全員を助けようとした人は、最初に倒れた。

 倒れた人を全員助けようとした人は、その次に倒れた」


 彼女は続けた。


「だから、ここでは自分の手の届く範囲しか、引き受けない」


 冷たい理屈。

 でも、現実的だ。


「……じゃあ」


 僕は、言葉を探した。


「僕は、何をすればいいですか」


 アオイは、僕の方を向いた。

 その目は、管理者の目じゃない。


「今日はね」


 彼女は言った。


「生き延びるだけで、十分」


 十分。

 それは、初めて与えられた合格点だった。


 その夜、僕は眠った。

 深い眠りではない。浅く、何度も目が覚める。夢も、途中で切れる。


 でも――

 目を覚ますたびに、僕はここにいた。


 翌朝、集落は騒がしかった。

 朝のチャイムは鳴らない。代わりに、人の声と金属音が、自然に朝を作る。


 誰かが食事を分けてくれた。

 成分不明のスープ。味は、塩と焦げと、少しの苦味。


 不味い。

 けれど、身体が温まる。


「顔、ひどいぞ」


 通りすがりの女が言った。


「寝不足ですね」


 僕が答えると、彼女は笑った。


「それでいい」


 いい、の基準が、ここでは違う。


 作業が始まる。

 誰かが修理し、誰かが運び、誰かが何もしない。

 何もしないことを、誰も咎めない。


 男――昨日の彼が、僕に声をかけた。


「イチロウ。力はあるか」


「平均的です」


「平均はいらん。出せるかどうかだ」


 僕は、少し迷ってから頷いた。


「……出してみます」


 瓦礫を運ぶ。

 重い。腕が震える。効率は悪い。


 でも、誰もグラフを出さない。

 誰も、僕の速度を測らない。


 汗が出た。

 ナノマシンが慌てて処理するが、追いつかない。


 胸のノイズは、もうノイズじゃなかった。

 作業のリズムに、溶け込んでいる。


 ふと、気づく。


 僕は、役に立っているかどうかを、考えていなかった。


 ただ、やっていた。


 それだけで、十分な時間が流れていた。


 夕方、アオイが近づいてくる。


「どう?」


「……疲れました」


「いい顔してる」


 そう言われて、戸惑う。

 鏡はない。でも、誰かの言葉が、代わりになる。


 太陽が沈む。

 管理されていない夕焼けが、空を汚す。


 その色を、僕はじっと見た。

 数値にできないグラデーション。


 そのとき、胸の奥で、はっきりとした感覚が芽生えた。


 ここにいたい。


 理由はない。

 保証もない。


 ただ、そう思った。


 それは欲求かもしれない。

 でも、もうラベルは貼らない。


 僕は、今日という一日を、

 ちゃんと生きてしまった。





 夜が、もう一度やって来た。

 今度の夜は、昨日より少しだけ近かった。距離を測る基準が、僕の中で変わり始めている。


 焚き火のそばに、人が集まっていた。

 火は、管理されていない。燃えすぎることもあれば、急に弱ることもある。誰かが棒でつつき、誰かが黙って薪を足す。役割分担はない。流れだけがある。


 僕は、少し離れたところに座った。

 近づきすぎると、感情がぶつかってきそうだった。まだ、受信感度の調整が終わっていない。


 火を見ていると、不思議な感覚になる。

 炎は、健康を気にしない。煙を吸えば咳が出るし、近づきすぎれば火傷する。それでも、人は火のそばに集まる。


 効率が悪いからだ。

 だから、必要だった。


「イチロウ」


 後ろから声がした。

 振り返ると、アオイが立っている。手には、金属のカップ。


「飲む?」


「何ですか」


「たぶん、お茶。たぶんね」


 曖昧な説明。

 管理社会なら、即座に廃棄対象だ。


 受け取って、口をつける。

 苦い。少し酸っぱい。あと、よくわからない。


「……解析不能ですね」


「でしょ」


 アオイは、満足そうだった。


 しばらく、二人で火を見た。

 会話はない。沈黙が、ちゃんと沈黙として存在している。


「ねえ」


 アオイが言った。


「あなた、戻りたい?」


 質問が、刃物みたいに鋭かった。

 でも、切りつけてこない。置かれているだけだ。


 僕は、すぐに答えられなかった。

 戻る、という言葉が指す場所を、頭の中で探す。


 清潔な個室。

 正しい温度の配給。

 数値化された安心。


 そこに、今の自分を当てはめてみる。


「……わからないです」


 正直に言った。


「戻ったら、楽かもしれない。でも」


「でも?」


「ここで感じたものを、全部、異常として処理される」


 アオイは、頷いた。


「ええ。あなたは“修正”される」


 修正。

 世界が嫌いな言葉の一つだ。


「あなたの今の心拍も、痛みも、怖さも、全部ノイズ扱い」


 彼女は、焚き火に小枝を投げ入れた。

 火花が散る。一瞬だけ、きれいだった。


「……私はね」


 アオイが、ぽつりと言った。


「医療を信じてた」


 その告白は、火よりも静かだった。


「救うための技術だって。健康は善だって。正しいって」


 少し、間が空く。


「でも、序列なしの“健康”を見続けて、わからなくなった」


 彼女は、僕を見る。


「生きてるって、こんなに静かなの?」


 問いは、宙に浮いた。

 答えは、まだない。


 そのとき、集落の端で、騒ぎが起きた。

 怒鳴り声。物が倒れる音。


 誰かが怪我をしたらしい。


 人が集まる。

 誰もが、少しずつ距離を測る。近づきすぎず、離れすぎず。


 アオイが、立ち上がった。


「……行く?」


 彼女は、僕に聞いた。

 命令じゃない。確認だ。


 胸の奥が、きゅっと鳴る。

 恐怖と、別の何か。


「……はい」


 それは、衝動だった。

 正しいかどうかは、わからない。


 倒れていたのは、若い男だった。

 足を挟まれて、動けない。顔色が悪い。


 アオイが、素早く状況を見る。

 だが、ここには医療機器も、完全な薬もない。


「固定する。イチロウ、支えて」


 名前を呼ばれる。

 役割を、与えられる。


 僕は、男の肩を支えた。

 体温が伝わる。熱すぎる。


 男が、呻いた。


「……すまない」


 謝罪。

 そんな必要は、どこにもないのに。


「いいから」


 僕は、そう言った。

 自然に、口から出た。


 アオイが、即席の固定を終える。

 完璧じゃない。むしろ、不安だらけ。


 それでも、男の呼吸は少し落ち着いた。


「……助かった」


 男が言った。

 その言葉が、胸に落ちる。


 ありがとう、でも、評価でもない。

 ただの事実。


 その夜、僕は強く眠った。

 疲労が、意識を引きずり下ろす。夢も見ない。


 翌朝、目が覚めたとき、胸のノイズはなかった。


 代わりにあったのは、静かな重さだ。

 昨日の出来事が、ちゃんと積もっている感覚。


 外に出ると、集落はいつも通りだった。

 不安定で、騒がしくて、生きている。


 アオイが、僕に近づいてくる。


「決めた?」


「何をですか」


「ここに、いるかどうか」


 僕は、少し空を見た。

 管理されていない朝の色。


「……まだです」


 そう答えてから、付け足した。


「でも、決める時間があるのは、悪くないですね」


 アオイは、微笑んだ。


「ええ。とても不健康で、素敵」


 僕は思った。


 生きるって、たぶんこういうことだ。

 完璧じゃなくて、効率も悪くて、いつ壊れるかわからない。


 でも――

 壊れる可能性ごと、引き受けること。


 その日から、僕は数えなくなった。

 日数も、効率も、正常値も。


 代わりに、覚えるようになった。


 名前を。

 声を。

 痛みと、疲れと、たまに訪れる笑いを。


 僕はもう、「生きながらにして死んでいる」存在じゃない。


 死ぬかもしれないけど、

 ちゃんと、生きている。


 その事実だけが、

 今の僕には、十分だった。

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