表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
何も起きない日々の取り扱い説明書  作者: 続けて 次郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/7

第四章 :逃走は、健康に悪い

 廊下は白かった。

 正確には、白というより「白であるべき色」だった。汚れを許さないという意思だけが、色として定着したみたいな白。


 監査官は一人だった。黒に近い制服。白い世界で、異物として目立つ色。彼は僕を見ると、眉一つ動かさずに言った。


「停止してください。あなたの行動は、規定外です」


 規定外。

 それは、解析不能の親戚みたいな言葉だ。


 精神制御が、全力でブレーキを踏む。

 足が重くなる。筋肉が、命令を待つ。ナノマシンが一斉に協議を始める。――抵抗行動、抑制推奨。


 それでも、胸のノイズが勝った。


 僕は、走った。


 走る、という動作を、僕は初めて自分の意思で選んだ。運動プログラムに従った走りではない。フォームは崩れ、呼吸は乱れ、効率は最悪。それでも、身体は前に進んだ。


「対象、逃走。追跡します」


 背後で、淡々とした声。

 足音が増える。システムが、人間を動かす音。


 廊下の角を曲がる。

 次の角も。

 非常口の表示が見える。使われる想定のない扉。存在するだけの出口。


 手を伸ばした瞬間、視界の端に白が揺れた。


「イチロウ!」


 あの声だった。

 白衣の女性。


 彼女は、廊下の反対側から走ってきていた。白衣を翻し、明らかに不適切な速度で。健康管理者としては、失格の走り方。


「止まって! そのまま行ったら……!」


「行ったら?」


 僕は、走りながら聞いた。

 会話としては、最悪の状況だ。


「……戻れなくなる!」


 戻る。

 どこに?


 その問いを口にする前に、監査官が距離を詰めた。手が伸びる。指先が、僕の服にかかる。


 白衣の女性が、叫んだ。


「解除コード、送信!」


 その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。

 音はなかったが、感覚はあった。ずっと被せられていた薄い膜が、破れる感覚。


 精神制御が、沈黙する。


 完全な停止ではない。

 ただ、一瞬の遅延。


 たったそれだけで、世界は変わる。


 僕は非常口を押し開けた。

 警報が鳴る。健康を害する音。

 階段が、下へ続いていた。


 転がるように駆け下りる。

 段差が不規則に感じる。人工物のはずなのに、なぜか古い。使われていないから、時間だけが溜まっている。


 数階分、下ったところで、足がもつれた。

 転倒。衝撃。


 痛みが走る。


 ――遅れて、来た。


 ナノマシンが慌てて修復に入る。だが、痛みは消えない。完全に消えない。数値に変換される前の、生の信号。


 僕は、笑った。


「……これが、痛みか」


 痛みは、不健康だ。

 でも、不思議と――悪くなかった。


 階段の踊り場で、白衣の女性が追いついた。息を切らし、壁に手をつく。健康な呼吸ではない。


「……馬鹿……!」


 彼女は、怒っていた。

 数値では測れない、明確な怒り。


「解除コードは、仮のものよ。すぐに……」


「それでも」


 僕は立ち上がった。足が震える。震えもまた、健康に悪い。


「初めて、自分で選びました」


 彼女は、僕を見た。

 配給対象としてではなく、異常値としてでもなく。


 一人の人間として。


「……名前」


「?」


「私の名前」


 彼女は言った。


「アオイ。呼ぶなら、それでいい」


 名前は、ラベルじゃない。

 呼ばれるための、約束だ。


 上階から、足音が迫る。

 システムは、まだ生きている。


 アオイは、僕の手を取った。


「行きましょう」


「どこへ」


「正常値の外側」


 それは、地図に載らない場所だ。


 非常階段のさらに下、

 封鎖された扉の先へ。


 扉には、こう書かれていた。


 〈非推奨区域:健康保証対象外〉


 アオイは笑った。

 不健康な、いい笑顔だった。


「ここから先は、自己責任よ」


 自己責任。

 それは、序列なしには許されない概念。


 でも今の僕は、

 許可を待たなかった。


 扉を開ける。


 空気が変わる。

 冷たく、埃っぽく、雑音だらけ。


 世界が、きしむどころじゃない。

 軋みながら、動き出していた。


 僕は思った。


 助走は、確かに終わった。

 でも――


 これは、逃走じゃない。


 これは、

 初めての「選択」だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ