第四章 :逃走は、健康に悪い
廊下は白かった。
正確には、白というより「白であるべき色」だった。汚れを許さないという意思だけが、色として定着したみたいな白。
監査官は一人だった。黒に近い制服。白い世界で、異物として目立つ色。彼は僕を見ると、眉一つ動かさずに言った。
「停止してください。あなたの行動は、規定外です」
規定外。
それは、解析不能の親戚みたいな言葉だ。
精神制御が、全力でブレーキを踏む。
足が重くなる。筋肉が、命令を待つ。ナノマシンが一斉に協議を始める。――抵抗行動、抑制推奨。
それでも、胸のノイズが勝った。
僕は、走った。
走る、という動作を、僕は初めて自分の意思で選んだ。運動プログラムに従った走りではない。フォームは崩れ、呼吸は乱れ、効率は最悪。それでも、身体は前に進んだ。
「対象、逃走。追跡します」
背後で、淡々とした声。
足音が増える。システムが、人間を動かす音。
廊下の角を曲がる。
次の角も。
非常口の表示が見える。使われる想定のない扉。存在するだけの出口。
手を伸ばした瞬間、視界の端に白が揺れた。
「イチロウ!」
あの声だった。
白衣の女性。
彼女は、廊下の反対側から走ってきていた。白衣を翻し、明らかに不適切な速度で。健康管理者としては、失格の走り方。
「止まって! そのまま行ったら……!」
「行ったら?」
僕は、走りながら聞いた。
会話としては、最悪の状況だ。
「……戻れなくなる!」
戻る。
どこに?
その問いを口にする前に、監査官が距離を詰めた。手が伸びる。指先が、僕の服にかかる。
白衣の女性が、叫んだ。
「解除コード、送信!」
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
音はなかったが、感覚はあった。ずっと被せられていた薄い膜が、破れる感覚。
精神制御が、沈黙する。
完全な停止ではない。
ただ、一瞬の遅延。
たったそれだけで、世界は変わる。
僕は非常口を押し開けた。
警報が鳴る。健康を害する音。
階段が、下へ続いていた。
転がるように駆け下りる。
段差が不規則に感じる。人工物のはずなのに、なぜか古い。使われていないから、時間だけが溜まっている。
数階分、下ったところで、足がもつれた。
転倒。衝撃。
痛みが走る。
――遅れて、来た。
ナノマシンが慌てて修復に入る。だが、痛みは消えない。完全に消えない。数値に変換される前の、生の信号。
僕は、笑った。
「……これが、痛みか」
痛みは、不健康だ。
でも、不思議と――悪くなかった。
階段の踊り場で、白衣の女性が追いついた。息を切らし、壁に手をつく。健康な呼吸ではない。
「……馬鹿……!」
彼女は、怒っていた。
数値では測れない、明確な怒り。
「解除コードは、仮のものよ。すぐに……」
「それでも」
僕は立ち上がった。足が震える。震えもまた、健康に悪い。
「初めて、自分で選びました」
彼女は、僕を見た。
配給対象としてではなく、異常値としてでもなく。
一人の人間として。
「……名前」
「?」
「私の名前」
彼女は言った。
「アオイ。呼ぶなら、それでいい」
名前は、ラベルじゃない。
呼ばれるための、約束だ。
上階から、足音が迫る。
システムは、まだ生きている。
アオイは、僕の手を取った。
「行きましょう」
「どこへ」
「正常値の外側」
それは、地図に載らない場所だ。
非常階段のさらに下、
封鎖された扉の先へ。
扉には、こう書かれていた。
〈非推奨区域:健康保証対象外〉
アオイは笑った。
不健康な、いい笑顔だった。
「ここから先は、自己責任よ」
自己責任。
それは、序列なしには許されない概念。
でも今の僕は、
許可を待たなかった。
扉を開ける。
空気が変わる。
冷たく、埃っぽく、雑音だらけ。
世界が、きしむどころじゃない。
軋みながら、動き出していた。
僕は思った。
助走は、確かに終わった。
でも――
これは、逃走じゃない。
これは、
初めての「選択」だ。




