第三章 :正常値の外側で、世界は軋む
目を閉じても、眠りは来なかった。
正確に言えば、眠りは来ていたのだろうが、僕の意識だけがその手前で足踏みをしていた。健康な睡眠の入り口に、「立入禁止」のテープが貼られているみたいだった。
脳内演算装置が、優しく囁く。
――休息を推奨します。
――ストレス値は許容範囲内です。
許容範囲。
この世界で一番残酷な言葉かもしれない。
胸のノイズは、一定のリズムを刻んでいた。心臓とは違う。心臓は血を送るために動くが、これは意味もなく鳴っている。いや、意味がないからこそ、意味があった。
僕は起き上がった。
規定では、個室内での不要な行動は推奨されていない。だが「禁止」ではない。禁止でないことは、やっていいこととほぼ同義だ。
床に足を下ろす。温度は完璧。冷たくもなく、暖かくもない。感覚が、ちょうど消える温度。
壁に手を当てた。
壁は、壁として正しい硬さをしていた。拳を打ちつけても痛くはならないが、向こう側に行けるほど柔らかくもない。人間の反抗心だけを、上手に殺す素材。
そこで、僕は気づいた。
ここには鏡がない。
顔を確認する必要がないからだ。序列なしは、外見を気にする必要がない。気にしたところで、評価に反映されない。だから鏡は無駄だ。無駄なものは、この世界から消える。
それでも僕は、自分の顔を見たくなった。
その欲求は、はっきりと異常だった。
誰かに見られるためではなく、自分で確認するための欲求。
僕は端末を起動した。個人用ではない、部屋備え付けの簡易端末だ。用途は、体調報告と緊急連絡のみ。だがカメラ機能はついている。使う想定がないだけで。
画面に映った自分の顔は、驚くほど普通だった。
傷も、疲労も、歪みもない。健康な顔。教科書に載せられるレベルの、無個性。
「……死体にしては、血色がいいな」
声に出すと、少しだけ現実味が増した。
言葉は、思考を現実に引きずり下ろす重りだ。
そのとき、端末に通知が入った。
〈非公式ログ:更新〉
そんな項目は、見覚えがない。
指が、勝手に動いた。
精神制御プログラムは、それを止めなかった。止められなかったのか、止める理由が見つからなかったのかは、わからない。
ログが開く。
文字列は短かった。
――心拍微変動、観測。
――原因:外部接触。
――備考:解析不能。
解析不能。
その言葉は、甘かった。
砂糖を直接舐めたときみたいに、喉の奥がひりつく甘さ。
この世界で「解析不能」と記されるものは、ほとんど存在しない。存在してはいけない、と言った方が正しい。解析できないものは、管理できない。管理できないものは、健康を害する。
つまりこれは、不健康の芽だった。
胸のノイズが、少しだけ強く鳴った。
まるで、肯定されたみたいに。
次の瞬間、ドアの外で足音がした。
規則正しい。躊躇がない。人間より、システムに近い歩き方。
ドアがノックされる。
ノックは二回。
緊急でも、配給でもない。
――監査だ。
「イチロウ。起きていますね」
スピーカー越しの声。
昼間より、少し低い。あの白衣の女性とは違う。
「確認事項があります。ドアを開けてください」
精神制御が、僕に頷けと命じる。
僕の身体は、その命令を理解した。
だが、胸のノイズが割り込んできた。
今だ。
理由はない。
計算もない。
ただ、そう思った。
僕は、返事をしなかった。
沈黙。
今度は、ドアの向こう側に落ちた沈黙だ。
「……応答がありません。再度、確認します」
鍵の解除音がする。
システムは、僕より強い。
それでも、ほんの数秒。
そのわずかな時間に、僕は決めた。
逃げる。
目的地はない。
成功率も計算していない。
それでも、逃げる。
それは生存本能ではなかった。
生きるための行動ですらない。
ただ――
自分の意思で動いてみたかった。
ドアが開く。
光が、部屋に流れ込む。
健康で、正しく、冷たい光。
僕は、その光の中へ踏み出した。
正常値の外側で、
世界が、きしむ音がした。
助走は、終わった。




