第二章 :配給はいつも、正しい温度で出される
配給施設は、清潔すぎて落ち着かない場所だ。床はいつも濡れているように光っていて、実際には一滴の水も落ちていない。空気は適温、適湿、適度な無臭。人間の存在だけが、ここではノイズだった。
序列持ちは受付で番号を取る。序列なしは番号を取らない。取る必要がない。僕たちは「次に使われる物」として、すでに順番が決まっている。
壁際に立って待つ。立ち方も決められている。背筋を伸ばし、視線はやや下。威圧にならず、服従に見えすぎない、ちょうどいい角度。教わった覚えはないが、身体が知っている。いや、身体の中のプログラムが知っている。
白衣の女性――さっきの言葉を投げてきた彼女が、受付の奥から出てきた。近くで見ると、白衣は本当に白かった。汚れを拒絶する色だ。彼女の肌も、同じ種類の白さをしている。完璧に管理された健康の色。
「イチロウ、ですね」
名前を呼ばれると、少しだけ驚く。序列なしの名前は、通常、必要ない。僕は工具に名前をつけるタイプの人間ではなかったはずだが、どうやら誰かがつけてくれたらしい。
「今日は初回なので、説明をします」
彼女の声は、説明書を朗読するのに向いている声だった。感情の抑揚がなく、それでいて不快ではない。眠くなる一歩手前の、ちょうどいい単調さ。
僕は頷いた。頷く角度も、きっと適正値がある。
「序列なしの方は、欲求を持たない代わりに、他者の欲求を受け止める役割を担います。拒否反応が起きないよう、精神制御が行われていますので、ご安心ください」
ご安心ください、という言葉はいつも不思議だ。誰が安心するのか、主語が曖昧すぎる。たぶん政府だ。
「痛みや恐怖は、必要最低限に抑えられます。トラウマは残りません。記憶も、適切に処理されます」
彼女は淡々と続ける。まるで、洗濯機の機能説明のようだ。汚れは落ちますが、衣類は傷みません、という調子で。
「質問はありますか?」
質問、という単語が、僕の中で跳ねた。胸のノイズが、少し大きくなる。ラジオのボリュームが、勝手に上がる。
本来なら、質問はないはずだった。ないように設計されている。けれど僕は、口を開いていた。
「……終わりは、ありますか」
彼女は一瞬だけ瞬きをした。ほんのコンマ数秒の沈黙。その間に、彼女の脳内演算装置が高速で何かを処理しているのが、なぜかわかった。
「終わり、とは?」
「この役割に、です」
言葉にしてみると、ずいぶん曖昧だ。人生に終わりはあるのか、と聞いているのと同じくらい、答えにくい。
彼女は微笑んだ。さっきより少しだけ、角度を調整した微笑み。
「耐久値が規定を下回った場合、もしくは社会的に不要と判断された場合、役割は終了します」
終了。廃棄、とは言わない。ゴミ箱はいつも、遠回しな名前を持つ。
「その際も、苦痛はありません。健康的に終わります」
健康的に死ぬ。矛盾が、ここでは矛盾にならない。
説明は終わり、僕は個室に通された。部屋は、ホテルの一室に似ていた。似ているが、決定的に違う。生活の痕跡がない。誰かが泊まったことのない部屋だ。
ベッドに座ると、マットレスが僕の体重を測った。ナノマシンがざわめく。異常なし、異常なし、異常なし。僕は、完璧な商品だった。
扉の向こうで、誰かが待っている。序列持ちの誰か。欲求を抱え、それを正当な手段で発散しに来た、健康な人間。
胸のノイズが、また鳴る。
不思議なことに、怖くはなかった。怖いという感情が、どういう波形をしているのか、僕はもう知っているはずなのに、それが立ち上がらない。
代わりに浮かんだのは、くだらない比喩だった。
僕は今、巨大な胃袋の中に放り込まれたガムみたいなものだ。噛まれて、味を失って、それでも形だけは残る。最後は飲み込まれるか、吐き出されるか。その違いは、消費する側の気分次第。
扉が開いた。
入ってきたのは、さっきの白衣の女性だった。
「……説明役も、配給対象に含まれるんですか」
彼女は少しだけ困った顔をした。説明書には載っていない表情だ。
「今日は、人手が足りなくて」
その言い訳は、なぜか人間的だった。
彼女は白衣を脱いだ。白さが、床に落ちる。中に着ていた服は、意外なほど普通だった。普通すぎて、逆に現実味がない。
僕たちは向かい合って立つ。健康な人間と、健康すぎる道具。
彼女が、ぽつりと言った。
「さっきの質問、変でしたよ」
「そうですか」
「ええ。序列なしの方は、普通、終わりなんて気にしない」
彼女は僕を見た。データではなく、目で。
「あなた、本当に……壊れてない?」
その言葉で、胸のノイズが、確かなリズムを持ち始めた。
壊れている。
それは、ここでは最高の異常値だった。
僕は答えなかった。答えられなかった。
代わりに思った。
もしかするとこの違和感は、
僕が初めて手に入れた欲求なのかもしれない、と。
まだ助走だ。
けれど、ほんの少しだけ、
足が地面を蹴った気がした。
◇
沈黙が、部屋の中央に落ちた。ガラス玉みたいな沈黙だった。触れれば割れそうで、でも誰も触らない。
彼女は先に視線を外した。床を見る。その床は、何も映さない鏡のようだった。
「……壊れていたら、報告義務があります」
独り言のように言った。僕に向けた言葉というより、マニュアルの余白に書かれた注意書きを、声に出して読んだみたいだった。
「でも、数値は正常です」
彼女は端末を操作した。空中に、半透明のグラフが浮かぶ。僕の心拍、脳波、ホルモン分泌量、ストレス指数。どれも行儀よく、基準値の中に収まっている。檻の中で正しく座る動物のように。
「異常は、見つかりません」
彼女は言い切った。言い切り方が、どこか寂しそうだった。
「なら、大丈夫ですね」
僕がそう言うと、彼女は少しだけ眉をひそめた。
「……普通は、そこで安心するはずなんです」
「安心、ですか」
その言葉を口の中で転がしてみる。安心は、柔らかいが味がしない。咀嚼しても、栄養にならないガムみたいだ。
「私は、安心していません」
彼女は正直だった。少なくとも、その瞬間だけは。
「あなたを見ていると、数値が嘘をついている気がする」
嘘。
その単語が、僕の中で小さく跳ねた。ナノマシンは嘘をつかない。演算装置も嘘をつかない。嘘をつくのは、いつだって人間だ。だからこそ、嘘は欲求の一種だったはずだ。
「……触れてもいいですか」
彼女はそう言ってから、すぐに付け足した。
「業務上、問題はありません」
問題があるかないかが、判断基準のすべてだ。
僕は頷いた。許可の動作。承認の合図。
彼女の指が、僕の胸に触れた。服の上から、軽く。押すわけでもなく、探るわけでもない。ただ、存在を確かめるように。
ナノマシンが反応する。体温調整、心拍安定、ホルモン制御。完璧な連携。けれど、胸のノイズは消えなかった。むしろ、輪郭を持ちはじめる。
「……あ」
彼女が小さく声を漏らした。
「?」
「心拍、ほんの少し……」
彼女は端末を見る。数値は、確かにわずかに揺れていた。誤差と言い切れる程度。誤差という名の、逃げ道。
「誤差、ですね」
彼女はそう言った。自分に言い聞かせるように。
指が離れる。温度が、少しだけ残る。身体が覚えてしまう前に、ナノマシンがその痕跡を消そうとする。だが、完全には消えない。ラジオのノイズみたいに、かすかに残る。
「今日は……ここまでにしましょう」
彼女は白衣を拾い上げた。床に落ちた白さを、元の形に戻す。役割を、着直す。
「記録は、通常どおり処理します」
「はい」
それ以外の返事を、僕は持っていない。
彼女は扉の前で、立ち止まった。
「イチロウ」
名前。二度目だ。
「もし、もしもですが……」
言いかけて、やめた。続きは、たぶん数値にならない。
「いいえ。忘れてください」
忘却もまた、健康管理の一環だ。
扉が閉まる。部屋に残されたのは、僕と、完璧に整えられた空気だけ。
ベッドに横になる。天井を見上げる。天井は白く、何も語らない。神様がいるとしたら、ここにはいないだろう。清潔すぎて、居心地が悪いはずだ。
胸のノイズは、まだ鳴っている。
それは、警報ではなかった。
エラー通知でもない。
たぶん――起動音だ。
欲求という名の、非公式なプログラムが、
僕の中で静かに立ち上がりはじめていた。
配給は、正しい温度で出される。
でも、正しい温度のものが、
いつも正しく消化されるとは限らない。
僕は目を閉じた。
次に目を開けたとき、
世界が少しだけ、違って見える気がした。
まだ第二章だ。
助走は続く。
ただし――もう、止まれない。




